遊牧民の中国支配史2: ~夏・殷・周 王朝の誕生~
プロローグでは、
略奪闘争前夜(遊牧部族との混交によって王朝が成立するまで)の中国を押さえました。
今回は、中国史上初の王朝である夏そして、殷・周の成立までです。
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最初に、中国史上初の王朝が成立するまでの背景(基本構造)をおさえる。
※るいネットより
遊牧社会と農耕都市社会との関係は、平時は、対立闘争関係にあるよりも、密接な経済的共存関係にあった。
農耕都市社会は、富の蓄積が進み、文明が発達すればするほど、馬や毛皮、羊毛、毛織物、肉、乳製品、金銀銅錫などの金属器、石材や玉などへの欠乏が高まった。
遊牧社会の方でも、農耕都市社会が生産する穀物や絹織物などの手工業製品や塩などを必要とした。こうして、遊牧地帯と農耕地帯の境界では、盛んに交易が行われるようになった。
しかし、モンゴル高原からカスピ海までを繋ぐ草原の道は、気候変動の影響を受けやすい地域でもある。そのため、寒冷化・乾燥化が進んで草原の道の生産力が下がると、草原の遊牧民はモンゴル高原から黄河流域に南下し、農耕民を征服・支配するという最も効果的な収奪方法を取ることになる。
王朝成立に至る略奪闘争が始まる直前の中国大陸は、農耕社会も遊牧社会も生産性が向上し集団規模が大型化する。その遊牧部族と農耕民の日常的交易が進んでいた。
そして、そのなかで気象変動の影響を受けやすい遊牧民が農耕民から収奪するということが定期的に行われていたことが背景にあった。
しかし、それだけだと遊牧民は農耕民から収奪して元の草原に戻る為、遊牧が侵略・定住し、支配国家の王朝に至るには、更なるキッカケ(要因)があるだろう。
それは何かを探っていきます。
◆◇5500年前
『寒冷化によるチベット族の東進。』
この時期の中国は、父系氏族社会への過渡期だと言われており、黄河流域と長江流域で防御性の高い城堡が出現していた。
(※画像をクリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです)
○チベット族の侵入
5500年前のイラン高原で始まった人類史上初の略奪闘争の影響で、印欧語族の遊牧部族がタリム盆地からチベット高原に進出してきた為、チベット族が押し出されるように東進していく。
さらに、寒冷化をキッカケに、その一派が中国西北部の甘粛・青海地方~黄河上流ルートで東進(→神農氏族)、もう一派が四川省西部の長江上流域ルートで東進(→黄帝族)。
このチベットからの遊牧部族の第一波の移動により、部族間で戦争が始まり私有制を伴う父系氏族社会へと、転換する。それに伴い婚姻制は一夫一婦制の族外婚で、男が私有財産を継承する集団統合形態に変位していく。
・黄河最上流域に進出した、チベット族(神農氏族)は、黄河上流域で馬家窯文化(5100~4700年前)を築く。
・長江上流域には、チベット族(黄帝族)によるものと思われる三星堆文化(5000年前~3000年前)が登場。このうち、黄河上流域に進出した神農氏族は、さらに中原に進出していく。
○モンゴル族の侵入
黄河下流域の大ブン口文化(モンゴル族)は強力で西に向かって中原へと勢力拡大。その後、さらにモンゴル族が南下し、黄河中下流域に龍山文化(4800年前~4000年前)を築く。
黄河中流域の【仰詔文化】を築いた苗族は、寒冷化によって黄河上流域に東進していたチベット族(神農氏族)と南下してきたモンゴル族(大文口文化、龍山文化)によって凋落。
【仰詔文化】は、頭を西にして埋葬(周辺地域は頭を東に埋葬)していることからも、苗族の祖先は、中原より西側に位置するトルコ族とみなせる。(死者の頭の方位は多くの場合、祖先の原住地の方向に向けられるという法則と合致する。)
仰韶の住民は西側(トルコ周辺)に逃避したものと思われる。
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◆◇4200年前 寒冷・乾燥期
『夏王朝の誕生』
アジア東部では4200年前~~3800年前まで、厳しい寒冷化が始まった。
(※画像をクリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです)
4200年前から中央アジアで馬立て「戦車」を発明し強勢を誇っていた印欧語族は、タリム盆地へと進出した(3800年前頃の楼蘭の遺跡から、ヨーロッパ系白色人種の特徴を示すミイラ)。でタリム盆地にいたチベット族による玉突きにより、黄河上流域にいたチベット族(斉家文化)が、より豊かな土地を求めて東進した。
そして長江のチベット族(黄帝族・三星堆文化)と手を組み(融合し)、中原の洛陽に侵出し、夏王朝を興した。
夏王朝の成立に伴い北方方面にいた殷(商)族(=モンゴル族)も服属させる。
この時、中原での覇権闘争で敗北した神農氏族(チベット族)は、故郷の甘粛・青海に逃れる。
(薄緑着色部が、夏王朝の部族連合国家・・・北側に服属する商(=殷)が見られる。)
画像出典:中国東アジアの勢力図
[意識構造の変化⇒支配原理の変化]
チベット系遊牧民の東進が、中国の母系から父系への転換をもたらした。
父権制への転換で力の原理が強まることから、序列原理が強くなり征服・支配するという民族特性が強化されることになる。この時代の各部族は、くっついたり離れたりしていることが多いが、これは自集団が有利になるように集団利権(かけひき)が大きくなっていることを示す。
所謂、今日の友は、明日の敵であり、この時期に“すきあらば”の下克上の意識が強化されていく。
但し、西欧にみられるような集団がバラバラに解体された個々人レベルの利権ではなく、部族全体を貫通する集団利権が大きな位置づけとしてある。
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◆◇3500年前 寒冷・旱魃
『殷王朝の誕生―チベット族に服属していたモンゴル族の反乱』
3500年前から3200年前、ユーラシア大陸内陸部で寒冷化と旱魃が進んでいく。
(※画像をクリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです)
この気候悪化のなかで、中央アジアのスキタイ=シベリア文化の遊牧民は、騎馬に必要な鎧やくつわを鉄器で作り、さらに鉄製の弓や武器をいち早く手に入れ、騎射技術を獲得した騎馬軍団を作り上げる。この騎馬技術は、いち早くテュルク(トルコ)やモンゴルに伝播していった。
これらの騎馬技術をいち早く獲得したことによって、夏王朝に服属していた殷(商)族(=モンゴル族が、反乱を起こし、夏王朝を滅ぼす。
夏王朝のチベット族(羌族)は洛陽地域を放棄し、西へと移住。
殷ははじめ夏の下で農耕地拡大を図り、途中から対立関係に転じる。最初に、黄河の支流、しょう(さんずいに商)水を拠点としたことから、商とも呼ばれる。西の夏、東の東夷に挟まれたこの地へは、北方のモンゴル高原から、黄河の北方に形成された遊牧・農耕の接触地帯である長城地帯を越えて入ってきたと考えるのが順当だろう。
殷(商)は呪術文明(星占いや骨占い)で国事を決め、人や獣を頻繁に「生贄」に捧げる文化をもつ。
また、馬車の遺跡と武器、残虐性からみて、夏王朝に比べ力の支配度が高い王朝であることがうかがえる。そして、殷は都を転々としたが、騎馬術をいち早く取り入れたモンゴル系遊牧民族故の移動性の高さに起因すると考えられる。
[国家統合原理]
①殷が夏の体制をそのまま引き継いでいること、②殷に起こった漢字の独自性や呪術や、③生産も軍事も奴隷に頼っていたとういう3つの視点から見ても、より集団自我(残虐性や猜疑心)が強くなり、力で抑える色彩が強まっているとみるべきであろう。
漢字や天信仰は、他部族をより支配(観念支配)しやすくするための策であった。
(薄緑着色部が、殷王朝の部族連合国家・・・商=殷が夏を呑み込み領域を広げている。)
画像出典:中国東アジアの勢力図
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◆◇3100年前
『周王朝の誕生ーチベット族の逆襲』
(※画像をクリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです)
3100年前になると、殷に服属していた周族(チベット族)が夏の残党である羌族(チベット族)と協力してモンゴル系の殷王朝を滅ぼし、周を建国する。(殷は、独自の宗教観から羌族を生贄にしていた。)
この時、殷(商)族(モンゴル族)は、江南人がいた『楚』の周辺に逃避。
[国家統合原理]
殷が周辺部族を討伐し続ける好戦的で侵略性の高い王朝であり、また残酷な支配を続けたのに対して、周はそれでは国家の社稷を維持できないと考え、「上天信仰=天の正義」を理念として、周王は「徳を敬い民を保つ」統治に転換。(これが後に孔子が理想化した徳治政治。)
このことからも、殷が集団統治として、殷が力の原理を無理やりに振るって、各部族の反感をかったことを教訓にして、各部族に自治権を取り戻す取り組みをした。
バラバラになった集団間に秩序を戻すべく、徳治政治や、氏姓制度によって、集団統合を実現する為の観念化が殷の時代よりも更に進んだ事が垣間見れる。
(赤着色部が、周王朝の部族連合国家・・・更に領域を拡げるが、各部族の領土を尊重している)
画像出典:中国東アジアの勢力図
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◆◆◆夏⇒殷⇒周王朝のまとめ
王朝成立前の遊牧民は、農耕民から略奪しては元の草原に戻っていたが、①気候変動に伴う寒冷化と、②印欧語族の玉突き、によって、それができなくなった。
この2つの要因によって、遊牧民の侵略・定住を余儀なくした。
中原における略奪闘争の幕開けは、5500年前の寒冷化に伴うチベット族(神農氏族)によってもたらされた。また、4200年前の寒冷化によって別の一派チベット族(黄帝族)の東進によって、夏王朝が誕生。
3500年前に寒冷化では、夏王朝に服属していた殷(商)族(=モンゴル族)の反乱によって殷王朝が誕生。
3100年前、殷王朝に服属してチベット族が協力して殷に逆襲。周王朝を誕生させた。
初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争いだったことがいえる。
仰詔文化の苗族(トルコ祖族)→チベット族(神農氏族)が中原を制覇→チベット族(黄帝族)が夏王朝建国→モンゴル族が殷王朝建国→連合チベット族(周族・羌族)が周王朝建国
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いずれの時代の王朝もこの段階では、統一国家ではなくそれぞれが自治権を持った部族連合国家だった。各地方の部族に自治権が与えられたこの国家体制は、遊牧部族ならではの集団統合方法であった。
【夏】:中原の西方からチベット族によって父権制度が持ち込まれ、より力の原理(=序列原理)が重要視された。
【殷】:夏に服属していたモンゴル族であるが、もともと持っていた残虐性や、騎馬技術という武力の後ろ盾を持つことによって、集団私権が強固になりこの力の原理が強化されていった。この背景としてあるのは、裏切りによる防衛本能が裏目として出てきたものと思われる。
【周】:殷の時代の強固な力の原理では、多数の部族を統合できないことを学習し、より緩やかな統治方法で、各部族を統治することとなる。殷の対応に変わる部族を貫通する規範観念(部族連合)の必要性からできた観念が徳治政治・氏族政治であった。
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