2011年10月27日

近代科学の成立過程3~近代の科学者は金貸しの手先だった

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 前回(近代科学の成立過程2~金貸しに都合のよい思想を過去から拝借したパクリ思想がルネサンス)に引き続き今回は山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第10章の十六世紀文化革命と十七世紀科学革命」の後半部分を要約投稿します。
 16世紀以降、西欧諸国は市場の拡大とともに、植民地獲得競争が高まり、国家間の私権圧力が上昇(戦争圧力の上昇)していきます。
当時の主な出来事をまとめると、
1588年 スペインの無敵艦隊、ドレイク率いるイギリス海軍に敗北
1600年 イギリスが東インド会社創設
1633年 ガリレオ・ガリレイ、地動説を唱え異端裁判で有罪判決
1652年 第1次英蘭戦争
1661年 ニュートン、万有引力の法則
1689年 イギリスで権利章典公布 英仏戦争(第2次百年戦争)
1694年 イングランド銀行設立
 16世紀後半から、17世紀にかけて「科学」に対する考え方も大きく変化していきます。
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山本義隆氏著『十六世紀文化革命』「第10章の十六世紀文化革命と十七世紀科学革命」より要約

10.フランシス・ベーコンと学問の進歩
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 十六世紀後半のイングランドにおける産業の発展を背景にして、十七世紀初頭にアリストテレスをはじめとする古代の哲学を厳しく批判し「知は力なり」のスローガンのもとに産業社会の時代の科学のありようを声高に語ったのはフランシス・ベーコンであった。
 シモン・ステヴィンをふくむ十六世紀の職人や技術者の言説とベーコンの主張のあいだには大きな違いが認められる。
十六世紀の職人たちは「公開」にアクセントを置いていたが、ベーコンでは「進歩」に力点が置かれている。
 ベーコンは新しい科学を創ったわけではない。彼が語ったのは、人間による自然の利用、ひいては自然の収奪に役立ち、またその実践に即応して発展してゆく科学という観念である。
 ベーコンの言う協働も公開も、知的エリートや支配階級であるジェントリのあいだだけでの協働であり公開であった。
 ベーコンは、研究の協働的推進と科学の累積的発展という観念を発明したのではない。その観念はすでに十六世紀文化革命の過程で職人たちの実践から自然発生的に生まれていた。
ベーコンはそれを国家の主導で推進するように主張し、その実践を高等教育を受け研究に専念するエリート科学者に託したのである。
11. 手仕事を厭わなくなった知識人
 ベーコンの思想は、急速に工業化を進め帝国主義にむかって邁進している国家の指導層に強く訴えた。
 すでに十六世紀の段階でジョン・ディーやエドワード・ライトのような第一級の知識人がスコラ学をこえる実践的科学のあり方を模索し始めていた。
 ようするに、弁証法や自然哲学に精通し抽象的な概念の操作と緻密な論証の術にたけた大学出の知識人が、自分の手で観測機器を作製し操作し、それまで商人のものとされていた計算技術に習熟し、職人や芸術家や外科医や薬種商や錬金術師や魔術師のものとされてきた観察や実験に取り組みはじめたのである。
科学と技術の関係は、十九世紀以降には科学の成果を技術的に応用するという形が通常であるが十七世紀にはむしろ科学が技術から学ぶ、ないし先行する技術を科学研究にもちいるという形でおこなわれたのである。それは十六世紀に職人や技術者からなされた提起を十七世紀の先進的な知識人たちが受け止めたことに始まる。
12. 王立協会と科学アカデミー
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 このように、大学で教育を受け文字文化の本来の担い手として論証の技術に精通しながら、同時に機械的技術の問題にも関心を有し手仕事を厭わないという、それまでのスコラ学の世界には見られなかったタイプの知識人が登場し、彼らが主役となって、十七世紀に科学の組織化が始まった。
 1662年に創設されたロンドン王立協会は、公開を標榜しているけれども現実には支配者層が独占する排他的組織であった。
 1666年に創設したパリの王立科学アカデミーは、もっとはっきりしていて会員を少数のエリートに限定した閉鎖的な国家機関であった。
 かくしてイギリスのようにエリート科学者の主導によるかフランスのように国家の主導によるかはともかく、ベーコン主義にもとづいた研究組織として英王立協会や仏科学アカデミーが創設されたとき、職人たちは事実上締め出されていった。

 ベーコンの「公開」よりも「進歩」を優先し、研究者たちを国家が組織するという考え方が登場した背景に、16世紀末から激化した西欧国家間の植民地争奪戦争があると考えられます。つまり列強同士の戦争に勝つには、その制覇力たる工業力を発達させることが必須であり、そのために国家が科学者を組織(丸抱え)して科学技術を研究させる必要があったのです。それによって西欧列強はますます軍事力を強化し、帝国主義に向かって邁進する速度を加速させていきます。
 科学の「進歩」による発明や発見は、今まで職人達が中心に作り上げてきた「日常に役に立つ」技術というベクトルから次第に、「戦争に役に立つ」・「市場拡大に役に立つ」=「私権拡大に役に立つ」ベクトルに大きく変化をしていきます。
 当然の事ながら、その旨みを独占しようとする特権階級は、その科学を独占しようとして、「非公開」にし、国家が運営する研究機関で囲い込み、職人達を排除していくのは必然と言えるのかもしれません。

13. 「限界を超えて」
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 かくして顕微鏡・望遠鏡・温度計・湿度計・気圧計・真空ポンプが十七世紀の前半に作り出され、あるいは実用化され、観測と実験に用いられるようになった。
 このように知識人が技術の有用性を認め、みずから手仕事に乗り出したのであり、そのことによって十六世紀に職人や技術者が始めた観察や測定が新しい次元に押し上げられ、ひいては自然と自然学に対する見方が更新されることになった。
 ひとつには自然の数学的理念化がある。温度計や湿度計の考案によって、アリストテレスの言う絶対的対立性質としての温・冷・乾・湿から、相対的で定量的な温度概念・湿度概念への転換を促した。そしてここに数学的で実験的な物理学が始まる。
 いまひとつは自然の拡大である。顕微鏡や望遠鏡の発明によって、今まで見えなかったものが見え、生物の構造や宇宙の存在がより明確になった。
 十七世紀の科学者たちは、自分たちの手で望遠鏡、顕微鏡といった観測機器を開発・改良することによって経験の世界を一変させ、真空ポンプのような自然界には存在しない情況を人為的に作り出し、実験科学をまったく新しい相に入り込ませたのである。
14.十七世紀科学革命の真実
 技術者によって進められた十六世紀文化革命は、自然認識における経験の重要性を強調し、自然研究の主要な手段として定量的測定と実験的方法を押し出した。
 近代力学とそれにもとづく宇宙像(太陽系像)はデカルトとガリレオによる運動理論の定礎と、ケプラーからニュートンにいたる太陽系の秩序の解明によって形成された。
 ガリレオがその公式を現実の物体の運動を表すもの、それゆえ実験的に検証可能でかつ実験と測定で検証されるべきものとしていたのに対して、スコラ学者のものは現実の自然とは無関係な仮想の議論、つまり知的なエクササイズでしかなかった。
 しかし、ガリレオは、物体は「なぜ」落下するのか、さらには落下のさいに「なぜ」加速されるのか、というそれまでの自然学の設問それ自体を退け、物体は理想と考えられる状況において「どのように」落下するのかという問題-落下の様態の数学的表現の確定- に自然科学の守備範囲を限定したのである。
 また、ニュートンは、万有引力の法則を数学的に定式化したが、重力の本質(なぜ引き合うか)を明らかにせず、自ら棚上げにしている。

 ベーコンの思想を下敷きにする市場拡大⇒戦争のための「実用主義」は科学の本質問題を棚上げにし、ひたすら使用できる科学に矮小化されてしまいます。この当時の科学者の姿勢は、現代も踏襲されて
おり、「重力発生のしくみ」は未だに未解明のまま、飛行機やミサイルは空を飛び、ロケットは宇宙を飛行しています。
参考:重力/発生の仕組みは未解明 
当時のガリレオは、次のような苦し紛れの言い分けを残しています。

 今ここで自然運動の加速の原因が何であるのかについて研究することは適当ではないと、私には思われます。これについては、いろいろな哲学者が種々の意見を提出しております。……これらのすべての空想はその他のものとともに検討を加えねばならないでしょうが、そのことで得られるものはわずかしかありません。現在われわれの著者〔ガリレオ〕の求めているところは(その原因は何であれ)そのように加速された運動のいくつかの性質を研究し説明することにあるのです。

 このように科学者は「実用主義」によって、市場の拡大や戦争に役に立つ発見や発明を
次々にしていきますが、惑星の発見や宇宙のしくみ等、すぐに役立つもの以外も発見しました。(天文学は航海に役立つが)
 しかし、彼らが発見した新事実は、結果的にキリスト教の世界観を否定し、キリスト教の支配力を低下されるのに一役買う事になりました。
 これは、国の支配者が法王から国家(国王)に転換するのを早め、それを後押しする「金貸し」の思惑と一致します。
17世紀は1694イングランド銀行設立に象徴されるように、金貸しが国家に戦争をけしかけて金(戦費)を貸す仕組みが確立した時期です。参照:金貸しは、国家を相手に金を貸す『国家と市場の力関係の逆転』 3
 当時の既に金貸しによって支配された国家に丸抱えされた英王立協会や仏科学アカデミーの科学者たちの研究は、パトロン(金貸し)の意向に沿っていると言っても過言ではないでしょう。
 例えば、ニュートンは万有引力の法則やニュートン力学で有名ですが、それを発表した後の人生はあまり有名になっていませんが、金貸しとの関係は濃厚な人物のようです。
ウィキペディアによると

%E3%83%8B%E3%83%A5%E3%83%BC%E3%83%88%E3%83%B3.jpg1665年(22歳)万有引力を発見
1687年(44歳)ニュートン力学発表
その後、教え子モンタギューは世渡りのうまさを発揮し大蔵大臣になり、1696年4月にはニュートンに造幣局監事のポストを紹介してくれた。
そして、1699年(56歳)造幣局長官に就任し、就任早々通貨偽造人の逮捕を皮切りに片っ端から汚職を洗い出し、処罰する方針を打ち出した。
その後、偽金製造シンジケートの親分シャローナーを捕らえて裁判にかけ、死刑にした。
また、銀貨の金貨に対する相対的価値の設定において市場の銀の金に対する相対価値を見誤り、普通の銀よりも低く設定したため銀貨が溶かされ金貨と交換されるという現象が起こり、図らずもイギリスが事実上の金本位制に移行する原因となった。
ニュートンは造幣局勤務時代には給料と特別手当で2000ポンドを超える年収を得て、かなり裕福になった。そして、個人で1720年までに南海会社株に1万ポンドの投資も行った。つまりイギリス史上もっとも悪名高い投機ブーム(South Sea Bubble 南海泡沫事件)にニュートンも乗ろうとし、ブームの期間中株を持ち続けた末に結局ニュートンは大損をしたとされる。

のように、1694年 イングランド銀行設立 の時期とも符合し、「金貸し」と密接な関係があったことが伺えます。

15.近代科学の攻撃的性質
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 近代科学、とりわけ物理学の成功の根拠は、
ひとつには人間の感覚を飛躍的に拡大させた観測装置と精巧な測定機器を駆使した実験技術の開発であり、
いまひとつはスコラ学の言う「本質」の追究を放棄し、その目的と守備範囲を数学的法則の確定に限定したことにあり、
そして第三に、理論と実験を巧妙に結合したことにあった。

 特に第三点目を数学的に法則化させるためには、あるがままの自然を受動的に観察するのでほなく、現実には存在しない理想にできるだけ近い状況を人為的-強制的に作り出す必要があった。
「近代物理学の法則はあるがままの自然にたいする虚心坦懐な観察や、無前提的で闇雲な測定によって導かれるものではない。その検証は、人間の思考の枠組みに適合するように自然にたいして強制的に働きかけてはじめて可能となる。」とカントが言っている。
以上の考え方や言葉は「技術は自然を模倣する」という自然と技術にたいする十六世紀までの見方を超えて、人間が自然にたいして対等以上の能力と権限を有する立場で臨んでいることを示している。
 二十世紀にいたるまでの近代科学の「勝利の進軍」の秘密は、一方では、実際には近代科学は内容的にきわめて限られた問題に自己限定することによってはじめてその優れた説明能力を作り出したものでありながら、他方では、イデオロギーとしての進歩の思想をバックボーンとする、自然にたいしてきわめて攻撃的な姿勢を有していたことに潜んでいた。
やがてそれは十九世紀に「科学技術」を生み出し、高度工業化社会形成の推進力となって人間社会に巨大なものをもたらし、一面で、生活を大きく向上させたことは事実である。
 しかし近代科学の内部での自己限定と外部への攻撃的性格のもつ矛盾は、その科学にもとづく技術が野放図に拡大され、生産が大規模化すればやがて顕在化せざるをえないものであった。
 それゆえ、その勝利の進軍としての工業化の過程で顧みられることなく放置されてきたネガティブな遺産も小さくはなく、それらのマイナスの遺産はすでに二十世紀の後半から一斉にプロテストの声をあげはじめている。二十一世紀はその後始末に追われることになるであろう。

 以上のように、実用主義の名の下に現代まで突き進んだ科学は「本質」の追求を放棄し、都合の良い現実のみを切り取って「進歩」してきたように見せかけてきました。
 科学者の功績や国家の拡大の背景には、金貸し達が居て、彼らの都合の良いようにコントロールされてきたとと言っても過言ではないでしょう。

 それは、市場の拡大=私権拡大を実現しましたが、一方で自然を破壊し、3.11の原発事故のように後世に負の遺産を残してしまいました。
 今まで、科学の発展が人類の進化のように思わされていましたが、実は私権拡大にとって都合がよいものだけが採用されて来た事、偉大だとされてきた近代の大科学者達が、都合の良い部分だけを切り取った発見・発明に終始していた事が今回の文献によってより明確にされたと思います。
次回は、『十六世紀文化革命』から医学の発展歴史の真相に迫っていきたいと思います。

List    投稿者 ginyu | 2011-10-27 | Posted in 13.認識論・科学論1 Comment » 

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