12/29なんでや劇場(5)~日本人の起源
画像は、 ここ からお借りしました。
縄文人は、南方からなのか北方からなのか、どの系統を引き継いでいるのか?
’10年末なんで屋劇場レポート4~縄文人の起源 より
なんでや劇場で配布された、次の資料と合わせて読み進めて下さい。
「モンゴロイドの移動(中国・朝鮮・日本)」
地図「Y染色体亜型の世界的分布」の右端の表「Y染色体による系統分析」
● 縄文人は南方モンゴロイドの気質を温存している。
以上のモンゴロイドの歴史を踏まえて、日本人、縄文人の起源について考えてみる。
まず、注目すべきは、日本には様々なタイプの遺伝子タイプが現在も生き残っているということである。主力はD2タイプであるが、原中国人の流れを汲むO1、O2も新モンゴロイドO3もいるし、原モンゴロイドに近いC1タイプもいれば、現在のシベリアに多く存在するC3タイプもいる。まさに人種の坩堝であり、ユーラシア大陸の最東端という地理的条件もあるが、共存共栄しているそのあり様は、源郷スンダランドで形成された南方モンゴロイドの資質を強く残している ためだともいえるだろう。
また日本は動植物も生物多様性に富んでおり、南北に長く四季の変化にとんだ、その豊かな環境が、多様な民族の共存共栄を可能としているのであろう。この多様性は日本の可能性でもある。また遺伝子的に多様な人々が交わることが、より高い適応可能性に向けて変化していく可能性の基盤をなしていると言う点も日本人の可能性といえるだろう。
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引き続き、
もう少し、詳しく見ていくと、主流をなすD2タイプが縄文人の中核をなしているものと考えられる。またO1、O2タイプは倭人と呼ばれる中国南方の稲作文化を日本に持ち込んだ人たち であると考えられる。そしてO3タイプは所謂、天孫族といわれる北方騎馬民族系の人たち である。
最近では、ブリヤート人と日本人の共通遺伝子C3に注目した日本人北方起源説が注目を集めているが、この説は一面的だといわざるをえない。縄文早期にC3タイプが日本に入ってきたことは確かではあるが、縄文時代の中心勢力はD2勢力であり、彼らはモンゴル高原周りで入ってきているとはいえ、モンゴル高原に定着していた時期は温暖期であり、ほとんど北方適応することなく日本に入ってきている。従って、縄文人の主流は、南方モンゴロイド気質であるといっていいだろう。(尚、北方起源説を補強している母方のGm遺伝子分析についてはその信頼性が低く、注意が必要である。)
尚、日本には非常に少ないながらも、Nタイプ及びC1タイプが存在し、このタイプの多いところと後述する徐福伝説の伝承地が近似していることから、徐福伝説との関係性も注目されるところであるが、継続追求課題としたい。またアイヌについても同様に継続追求課題とする。
合わせて読んでおきたいブログ:
日本人の起源~北方モンゴロイドはいつ来たのか?
■徐福(倭人)の亡命によって日本の稲作が本格化して弥生時代に入った。
先に述べたように、縄文人のY染色体亜型構成比は、スンダランドD2:スンダランドC1:中亜C3=5:1:1であり、縄文人のほとんどはスンダランド発である。
現在の日本人の構成比で見ても、南方系のD2が4割、O2が1/3を占める。
地図「Y染色体亜型の世界的分布」の右端の表「Y染色体による系統分析」参照。
どう考えても、縄文人の起源は南方系である。
では、TVや学者の言う、縄文人北方起源説の根拠は一体、何なのか?
彼らが依拠するGm遺伝子分析は信頼性に大きな疑問がある。Gm遺伝子の分布では、南方・北方の差は認められるが、北方についてはどこも同じといういい加減なものである。そのいい加減さを理論的に示す必要があるだろう。
では、現在の日本人の1/3を占めるO2はどこから来たのか?
中国の江南から春秋戦国時代の戦乱を逃れた難民が朝鮮・日本へ流れ着いたというのが定説であるが、ここで新たな説を提起する。
注目すべきは、中国や日本の各地に残っている徐福伝説である。
画像は、 ここ からお借りしました。
2200年前、秦(始皇帝)に対して長江流域の江南人(倭人)は抵抗を続けており、それに対して始皇帝は大軍を派遣しようとした。先行して秦に服属した倭人徐福は、このままでは倭人は滅亡するという危機感を抱き、中国からの倭人の脱出を企てた。
徐福は始皇帝に対して、不老長寿の秘薬を海の果てから獲ってきて献上する交換条件として、三千人の若い男女と最先端の工人と大量の種籾を要求した。それに騙された始皇帝は100人乗りの船30艘と最先端の軍備と種籾をつけて送り出した。徐福は始皇帝を騙して亡命したわけである。しかも、念入りなことに、秦にばれると追っ手が来て殺されることは間違いないので、30艘の各船長全員に徐福の名前を名乗らせた。
そして、彼らの一部は日本各地に流れ着いた。各地に徐福がやってきたという伝説が残っている。武器と言えば石器くらいしか持たない縄文人はすぐ服属した。そして、徐福たちは日本各地の農耕に適した土地で農耕(稲作)を始めた。そして、一気に農耕が日本全土に広がり、弥生時代に入った。
日本で農耕が始まったのは2300年前と言われる。最初に北九州で始まったが、わずか500年後には青森にまで伝播する。
最初は2300年前であるが、日本全土に大々的に広まったのは、徐福が日本に亡命した2200年前以降ではないだろうか。また、青森も徐福が流れ着いた伝説が残る地域だが、徐福が日本に持ち込んだ稲は江南の南方種であり、それが北日本で適応するのに400~500年かかったと考えれば整合する。
地図「Y染色体亜型の世界的分布」の「Y染色体による系統分析」 にある通り、現在は青森・静岡・徳島にC1型が多い。これは、1.4万前以降のスンダランド水没に伴って、日本に漂着したスンダランドC1であるというのが定説だが、徳島も青森も静岡も徐福伝説が残る地域である。長江流域の江南地方には当時、C1型が相当いたはずであり、このY染色体分布も徐福説を裏づけるものではないだろうか。
早速、徐福について“るいネット”に投稿されているので紹介します。
徐福伝説について
徐福が日本にもたらした弥生の技術・文化
●疑問点
☆「Y染色体による系統分析」で疑問として残るのは、ブリヤート人と同じN型が現在の青森・静岡・徳島にのみ少数ながらいて、北海道にはゼロであること。このN型は一体いつ、どこから来たのか?
そもそもN型とは一体、何者なのか?
モンゴロイドなのか?コーカソイドなのか?
白人は4~3.5万年前にカザフ草原とパミール高原の間で登場したP型がR型に変異したものであるが、それに対して、N型はK型から派生したものらしい。
☆また、現在のアイヌはD2が87%を占めるが、アイヌはいつ、どこから来たのか? 最近になって来た可能性もある。また、コーカソイドという説もある。
まだまだ、疑問“?”は尽きませんが、次の投稿で、残課題(継続追求課題)を整理して、今回のレポートは以上となります。
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