12/29なんでや劇場(4)~新モンゴロイドの誕生と中国文明の起源
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前回の12/29なんでや劇場(3)では、現在のアジアに住むモンゴロイドの多くが立派な南方系モンゴロイドであることを見てきました。だとすると、一般に北方モンゴロイドと呼ばれる種族(トルコ族・モンゴル族・ツングース族)はどこから登場したのでしょうか?
興味のある方は応援もよろしくお願いします。
●新しい北方適応モンゴロイド=新モンゴロイドの登場
O型の祖型は3.5万年前の温暖期にベトナム北部でスンダランドK型から派生した。その後、彼らは1.4万年前以降のスンダランド水没に伴ってチベット高原からタリム盆地に北上し、さらに1万年前の温暖期にアルタイ山脈・モンゴル高原に到達した。
参考図解「モンゴロイドの移動(中国・朝鮮・日本)」
1万年前、温暖化すると、スンダランドからパミール高原・タミル盆地に北上していたO型モンゴロイドがさらに北上してアルタイ山脈・モンゴル高原に進出し、このタイプが後のトルコ族、モンゴル族、ツングース族といった現存する北方モンゴロイドの祖となる。
彼らはここで人口を増やし、新たに北方適応したO3タイプとなる。O3モンゴロイドは、7500年前からの気候最適期に更に人口を増やし、バルハシ湖周辺のテュルク族(トルコ族)、モンゴル高原のモンゴル族、日本海西部沿岸のツングース族に分化し、拡大していく。この新しく登場し、現在につながる北方モンゴロイドを、ほとんどが絶滅してしまったC型の旧い北方モンゴロイドと区別するために新モンゴロイド(原アルタイ族)と呼ぶことにする。
● 中国初期の母系制農耕文化の担い手は原中国人(O1、O2)
モンゴル高原の新モンゴロイドO3が5500年前に南下する以前の中国は、原中国人(スンダランド発のO1、O2が主体の元海洋民)が母系の農耕文化を開花させていた。O型のうち、O1型は3万年前に南下してインドネシアに渡り、そこからフィリピン、台湾、中国へと移動した。O2型は3万年前に北上して長江流域へ進出した。このO1、O2型が2.1~1.8万年前、1.3~1.1万年前の寒冷期に中国に移動した中亜モンゴロイドC3を凌駕した。
長江流域では9000~7800年前の彭頭山文化(稲の栽培跡)が興り、7000~5200年前の河姆渡文化、大渓文化につながる。黄河中流域では8500~7000年前の粟の耕作やブタの飼育を中心とした裴李崗文化及び後李文化が登場し、7000~5000年前の仰韶文化、6300~4600年前の大ブン口文化へとつながっていく。この時期には、新モンゴロイド(トルコ族、モンゴル族、ツングース族)も遊牧を営んでいたと考えられる。
●新モンゴロイドの南下とチベット族の侵入によって母系から父系へ転換
ところが、5500年前以降の寒冷化に伴って、新モンゴロイドO3(トルコ族、モンゴル族、ツングース族)が南下するのに加え、チベット族D型も移動してくる。黄河流域と長江流域で防御性の高い城堡が出現し、以降、中国は父系制に転換する。
チベット族(古代羌族)は、チベット高原のスンダ・モンゴロイドD型から派生し7000年前前後にはチベット高原東部の長江・メコン川最上流域に達していた(カロ遺跡)。それが、5500~5000年前頃、寒冷化とタリム盆地からチベット高原に進出して来た印欧語族の遊牧部族に圧迫されて、黄河上流・長江上流から中国に侵入する。
5400~4300年前にはツングース族が遼河流域に紅山文化を、5400~4300年前にはモンゴル族が黄河下流に龍山文化を形成した。5000~3800年前にはチベット族が黄河上流域で馬家窯文化、長江上流域では三星堆文化を形成。
本格的に新モンゴロイドO3が南下したのは5500年前寒冷化以降としても、それ以前に南下していた可能性もある。8200年前からの一時的な寒冷期もあって南下した部族の最先端は、農耕民と接触し農耕を始めたと考えられる。8200年前には遼河流域でツングース族と思われる興隆窪文化が登場し、7000年前頃には、ツングース系の扶余族が朝鮮半島北部に登場。6300年前からの大ブン口文化も最初はO1、O2の南方系だったが、地理的に見て6000年前以降にはツングースと混血していた可能性もある。
しかし、7000年前の段階ではツングースも朝鮮半島には入っていないことや、7000~5000年前の仰韶文化が母系制であったことから考えても、この段階では、モンゴル族もせいぜい北京辺りまでしか来ていない、あるいは文化に影響を与えるほどの人数は入ってきていないと見るべきであろう。
このO3モンゴロイドはこの後、中国へ進出すると、ブタなど家畜由来の強力なウィルスに対する免疫機能を獲得した。このO3モンゴロイドは他(O1、O2やCやD)を徐々に駆逐し、制覇途上にある。現在、中国の華北ではO1、O2型はほぼ全滅状態で、O3に淘汰されてしまっている。現存する中国人は、華北では66%、華南でも33%、チベットでも33%がO3タイプである。
ただし、日本ではO3タイプの比率はそれほど多くなく、都道府県によるばらつきがあっても14~24%といったところで、D2もO2も主力として健在である。これはO3が強力な免疫力を獲得したのは、5500年前以降黄河流域に定住して家畜を飼いはじめて以降のことであり、日本に1500年前に侵入してきた新モンゴロイドは同じO3タイプでも、黄河流域に定住する前に分派した部族が、対家畜ウィルス免疫力を獲得しないまま日本に到着したためと考えられる。免疫力の強さと遺伝子タイプは必ずしも一致しないと考えるべきだろう。
●初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争い
新モンゴロイドとチベット族の進入により、一方では父系転換と私有制が強まり、他方では、戦争圧力が強まる中、いわゆる中原地域において夏→殷→周の王朝が誕生し、中国私権文明の歴史が幕を開けることになる。
○夏王朝
4200年前ごろ黄河上流域にいたチベット族(斉家文化)が、より豊かな土地を求めて東進し、長江のチベット族(三星堆文化)と手を組み洛陽に侵出し、夏王朝を興したと考えられる。夏王朝(二里頭文化)は、中国で最初の青銅器文明だと言われる。
夏王朝の主役は、チベット族とする説と、長江流域で良渚文化を担っていた部族が長江氾濫によって黄河に逃げ込み打ち立てたとする説があるが、チベット族は先に長江中流にも進出しており、制覇力となる武力の強さという点からもチベット族とみなして良いだろう。
○殷王朝
3500年前から3200年前、ユーラシア大陸内陸部で寒冷化と旱魃が進んでいく。この気候悪化のなかで、中央アジアのスキタイ=シベリア文化の遊牧民は、騎馬に必要な鎧やくつわを鉄器で作り、さらに鉄製の弓や武器をいち早く手に入れ、騎射技術を獲得した騎馬軍団を作り上げる。この騎馬技術は、テュルクやモンゴルに伝播していった。
3500年前、夏王朝に服属していた殷(商)族(モンゴル騎馬民族)が反乱を起こし、夏王朝を滅ぼして、殷王朝を打ち立てる。夏王朝のチベット族(羌族)は洛陽地域を放棄し、西へと移住した。殷は羌族を生贄としたといわれるが、初期中国文明は、西方のチベット族と北方のモンゴル族の中原を巡る覇権争いだったということができるであろう。
殷については、夏に服属していたモンゴル族とする説と、西域からやってきたトルコ族とする説がある。3800年前頃の楼蘭の遺跡から、ヨーロッパ系白色人種の特徴を示すミイラが見られることから、白人の影響も無視できない。しかし、中央アジアから起こった戦車の技術を取り入れるのはモンゴル族でもトルコ族でも可能である。むしろ殷が夏の体制をそのまま引き継いでいること、及び殷に起こった漢字の独自性や天信仰から見て、モンゴル族による政権とみるべきであろう。
○周王朝
更に、3100年前になると、殷に服属していた周族(トルコ族orチベット族)が羌族(チベット族)と協力して殷王朝を滅ぼし、周を建国する。
● 隋・唐を作った鮮卑
その後の中国は、トルコ族・モンゴル族の混合軍とも言える東湖、柔然、匈奴、突厥、高車、丁零といった騎馬民族の南下圧力に押され続けることになるが、中でも、東湖から分かれた鮮卑はうまく中原に入り込み、漢人の漢を倒して、隋・唐を打ち立てていった。
この隋・唐の時代、日本は頻繁に遣隋使、遣唐使を派遣しており大和朝廷とのつながりも深い。そして、唐の後の時代は鎖国してしまう。大和朝廷を打ち立てた勢力である天孫族が、扶余を起源とする初期朝鮮諸国(高句麗、百済、新羅)といったツングース族の一派であることから、鮮卑もツングース系ではないかと考えられる。何より鮮卑という名前が朝鮮北方の鮮卑山に由来していることからも、ツングースの可能性が高いが、鮮卑の元になる東湖がツングースの系譜に連なるのか、疑問な点も多く、この点は継続追求課題とする。
●まとめ
1.現在、一般に北方モンゴロイドと呼ばれているのは、スンダランドに暮らしていた南方モンゴロイド(Oタイプ)が、1.4万年前の温暖化によるスンダランド水没で、チベット高原を経てモンゴル高原へと移動して新たに登場した、新モンゴロイド(O3タイプ)である。
2.もともと原中国人はスンダランドから南回りで移動した、母系制農耕民族のO1タイプ、O2タイプが主流だったが、寒冷化に伴う新モンゴロイド(O3タイプ)とチベット民族(Dタイプ)の移動で戦争が始まり、父系制の武力国家が形成されていく。
3.中国の初期国家は、これら、新モンゴロイド、チベット族により樹立された。夏はチベット族、殷はモンゴル族、周はトルコ族もしくはチベット族、隋・唐はツングース族と考えられる。
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