2011年11月22日

カタカムナに学ぶ ~完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は無限に進化してゆく理由~

>実用主義の名の下に現代まで突き進んだ科学は「本質」の追求を放棄し、都合の良い現実のみを切り取って「進歩」してきたように見せかけてきました。
 
>科学者の功績や国家の拡大の背景には、金貸し達が居て、彼らの都合の良いようにコントロールされてきたとと言っても過言ではないでしょう。
 
本ブログ『近代科学の成立過程3~近代の科学者は金貸しの手先だった』より引用
 
 上記投稿にあるように、近代科学は市場の拡大=私権拡大を実現するものであり、自然を破壊し、3.11原発事故のように後世に負の遺産を残すものになっています。
 
 今まで、科学の発展が人類の進化のように思わされていましたが、近代科学は私権拡大にとって都合がよいものだけが採用されているため、このままでは科学によって人類が滅亡しかねません。
 
 今後も、人類に科学が必要であることは否定しませんが、それは近代の本質を破棄し、市場・私権を拡大するものではなく、現実に立脚し、本質を追求していくものだと思います。
 
 この現実に立脚した科学に一番近いものが、上古代人の認識である「カタカムナのサトリ」と思われます。今回も相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行)から学んでいきたいと思います。
 
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(画像はコチラからお借りしました)
 

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第六句
 
カムナガラ  タカマアラタマ
アマツナギ  タカマココゾル
アラカミチ  ナギナミアガム
カムナミチ

 
 この一句の概要の意味は、『カムナガラ、宇宙球(タカマ)に、『新生される天体(アラタマ)は、アマ始元量が個々の球(アマツナギ)を統合して(ココソル-ことごとく、こぞって)、創成して居るのである(アラカミチ)。そして、粒子性(ナギ)と、波動性(ナミ)、即ち、統合性と微分性、全体性と個々性の正反性が、互ひに親和し、重合された(アガム)状態でつりあって居る。』といふサトリの表明である。
 この示しは、万象に於る、『粒子性と波動性の重畳状態をサトリ、その相似の現象に対する「原象」を示したもの』である。又、別な角度から観れば、万象に於る『微分性と統合性の本来性サトリ、その相似の現象の、原象を示した』ことになる。
 
<ナギ ナミ>
 屢々述べた如く、ナギナミといふ言葉は、後代には、神の名(イザナギ イザナミ)として伝へられたが、そのもとは、カタカムナ人が、一つのモノに必ずそなはって居る、相反する性質(タチ)として、直観したサトリの表現であったことが判明した。則ち、ナギとは、「凝縮し、静止し、統合しようとするタチ(粒子性)」、ナミとは、「波のように拡大し、膨脹し、分化するタチ(波動性)」といふ、互ひに矛盾する性質であるが、それは、つねに一つのものの中に、重畳状態(アワセカサナル)として共存し、互ひに換りあって(カハル)表はれる本来性である、といふ直観を表明した言葉であった。この本来性は、アマからうけつがれたものであり、静的にとらへた場合が、ソコ、ソギ(膨脹、収縮)である。
 宇宙の、生物無生物等とよばれる万象の、静的、動的のさまざまな現象は、アマから受けついだ、このような相反する正、反の逆性の、互換重合によるものであるといふ直観が、カタカムナの、「アマの物理」の根本的な特徴である。そして、そのアマの本来性は、アマとカムの対向といふ「原象」に基づく、といふサトリである。
 
 

 
 
粒子性と波動性を持つものに「光」があります。光をカタカムナのサトリに置き換えて考えると、粒子は凝縮したもの、波動は膨張したものと考えられます。
このように万象の現象を相反する正、反の逆性の、互換重合によるものだと考えると、現代物理の難題と言われる事象も素直に認識することができます。
 
もっと深く知りたい方は【素人が創る科学の世界~【光 子】3~『カタカムナ説を紐解く』】をご覧ください。
 
 

 
<アガム>
とは、親和重合の状態を表はす古語である。ここでは、ナギ性とナミ性との親和の意味である。しかし後代には、「ナギナミアガム」といふ言葉だけが残って居た為に、「ナギナミを崇拝する」といふ意味に解され、ナギナミは一対の神様の名とされてしまった。もっとも「ナギナミアガム」といへば「正反親和」、則ち、宇宙の平安な状態であり、それは人間にとっても最も望ましいスガタである。人々は諸々の親和をイノリ、又は、平安を感謝しつつ日々の生活をイトナんで来た。そのような心理的経過によって、自然に崇拝の気持が「アガム」といふ言葉の思念になって居たのかもしれぬ。あるひは偶話的な物語として神の名に託して説かれ、ある時期に、意識的に、神秘思想化されたのかも知れない・・・・・。
 

 
 
「正反親和」と聞くと、実現論の『ロ.雌雄の役割分化』の一節を思い出します。
 

従って生物は、一方では安定性を保持しつつ、他方では変異を作り出すという極めて困難な課題に直面する。その突破口を開いたのが組み換え系や修復系の酵素(蛋白質)群であり、それを基礎としてより大掛かりな突破口を開いたのが、雌雄分化である。つまり、雌雄分化とは、原理的にはより安定度の高い性(雌)と、より変異度の高い性(雄)への分化(=差異の促進)に他ならない。従って、雌雄に分化した系統の生物は、適応可能性に導かれて進化すればするほど、安定と変異という軸上での性の差別化をより推進してゆくことになる。

 
 
この雌雄分化による適応(調和)が「正反重合(親和)」の代表的な事例ではないでしょうか。
 
生物にも安定性と変異性という正反が重合しているが故に、生物は進化し適応することができます。
 
とりわけ雌雄分化した生物は、その正反(安定と変異)をそれぞれ雌雄が分担することで著しい進化とより高度な適応態を実現させています。そして、雌には安定性だけではなく変異性が、雄には変異性だけではなく安定性が重合されています。このように雌雄それぞれにも正反が重合し親和しているから、こそ、雌雄の差別化をより推進してゆきながらも、雌と雄が調和し、種としてのバランスを保つことができるのです。
 
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画像はコチラからお借りしました。
 
 
 

第七句
 
カムナガラ  タカマトコクラ
ナナヨツギ  タカマヤスハラ
アラカミチ  ワカレフタカミ
カムナミチ

 
 この句の概要の意味は、『カムナガラ、宇宙球(タカマ)の、 互換重合の座(トコクラ)は、「七」の数に規制される周期性(ナナヨツキ)によって保たれて居る。そして宇宙球が安定持続(タカマ ヤスハラ)して、さまぎまのアラカミチに分れてゆくのは、<カム>と<アマ>即ち、無限界と現象界の二つの源(フタカミ)に基く、カムナミチにある。』といふ意味の表明である。
 
<トコクラ>
 「トコとは「トモにコロガル」の意で「互換重合」の思念である。「トコクラ」と言へば、「トモにコロガル場」の意味から「床」の意味が出る。「トコ」がトコシヘ(永遠)の意味になるのは、相反する逆性の互換重合(カハリ カサナリ)によって、宇宙が永遠的に保たれる、といふ、二次的な変遷である。
 
<フタカミ>
とは、二つの起源(カミ)、<アマ>と<カム>をさして居る。<アマ>は、天然自然界の始元のカミであり、<カム>は、その<アマ>を産む起源のカミである。この二つのカミの対向(ムカヒ)によって、万象が発現し、その万象の変遷には、「七」の周期性がある、といふ意味である。
 
<ナナツヨギ>
とは、宇宙の変遷は、七年、七十年・・・・・、七百年七千年、七億年・・・・・のような、「七」の周期性で世代(ヨ)がつがれて、繰り返へされて居る、という直観である。例えば、太陽の光彩周期が七年、ハレー彗星の周期は七十年、地球上では、ほぼ七年、七十年、七百年舞いに、小規模、大規模の寒暖や、多湿多雨、火山爆発、地震等の現象が繰り返されている事が、現代の科学者によって、相似象的に観測されて居る。
 
 この示しの基底となった直観は<力ム>から<アマ>へ、<アマ>から<カム>への変遷が、いはば「四」対「三」の数に規制された、周期性の運動であるといふサトリである。
 この「七周期運動」の直観は、おそらく、諸天体の座標位置の変遷が「七」の数に規制されて居るといふ、統計的な実測値を、相当長期にわたる観測経験によって把握した結果と思はれる。そしてそれが、宇宙の諸天体の、恒常安定の実相で、ある事を洞察したのであらう。
 

 
 
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(画像はコチラからお借りしました。)
 
周期表を見ると七の周期性で原子が組み立てられているのがよくわかります。
 
 

「四」対「三」の、「七」の周期性の運動
 この運動はいつも<カム>から始まって、<カム>に還るから、丁度並木算の、植木の数と、間の数との関係のように、始めと終りがカムで、その間は、カムからアマへ、アマからカムへと、「三」対「三」で往復するが、結局、つねにカムの方に「一」多くのこって居るわけで、要するに、カムが「四」、アマが「三」の、「七」で、無限に繰返されることになる。それなら何の数でもよいのに「七」といふ数が出てくる原理としては、「八」が極限飽和安定の数であり(ヤタノカガミ-極限率)そもそもモノが運動するのは、この安定の状態を求めて「七」で変るのであらう(七転び八起き)。
 
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 つまりこの「八」の安定状態というものは、部分的、統計的にはみられるが、全体が安定停止する事はあり得ず、運動系としては、つねに「七」の周期を以て、繰返へされることになるわけである。例へば我々の身体や、地球なども、みかけ上は、安定し静止して(八)居るが、実は、刻々に新陳代謝しつつ、自転公転し、生成、発展、消滅を繰返へして居る。そして、その変遷のリズムに、極微的にも巨視的にも、ナナヨツギ(七の周期性)があるといふ直観である。彼らは<ヤサカノマガタマ>の七種の単玉によって、そのサトリを表象して居る。(お七夜、七五三、初七日、四十九日、七フシギ、七変化、七光、七難、七福神、七堂伽藍、七五調、七曜日、七音階、光の七色、元素周期率、歳差運動、気象変化等々)
 
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画像は コチラ コチラ コチラ から
 

 
『実現論』前史イ「可能性への収束=統合」には次のような一節があります。

完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は外部世界に対する不完全さを孕んでおり、それ故より高い適応を求めて進化を続けてゆくことになる。とりわけ外圧が変化した時に、存在の不完全さと進化が顕著に現れるのは当然である。人類の最先端機能たる観念機能による『事実の認識』も同様であって、完全なる認識など存在せず、人類史を通じてより高い適応を求めて無限に塗り重ねられ、進化してゆくことになる。 

  
この「完全なる適応態など存在せず、全ての適応態は無限に進化してゆく」理由がわかったように思います。
それはカム4:アマ3という構成比(不均衡)にあったのです。
 
カム-アマが常に4:3の比率で循環しているが故に、その相似象である万象には七の周期が生れる。完全なる適応態とは「八」の安定状態であり、その安定状態を求めてカム-アマは循環してゆくが、常にカム4:アマ3という不均衡が生じるが故に、安定状態は部分的に生じることはあっても、宇宙全体が安定状態になることはない。カム-アマの相似象たる万象も同様で、完全なる安定状態(適応態)は存在せず、万象(全ての適応態)は不安定さ(外部世界に対する不完全さ)を孕んでおり、それ故安定状態(より高い適応)を求めて進化を続けてゆくことになるのです。 
 

第八句
 
カムナガラ タカマトヨタモ
タママツロ アマタマツツム
アラカミチ アマネコトホグ
カムナミチ

 
 この句の概要の意味は、『カムナガラ、宇宙球の外域のゆたかな厚い雲(タカマトヨクモ)は、宇宙球をつゝむコロモのように、まつろって居るもの(タママツロ)であり、アマ始元量や、アマによって成りたつ諸天体(アマタマ)を包むアラカミチ(創成の場)である。そして、アマ始元量によって成りたつすべての物象は、あまねく、分解統合を繰返へす(コトホグ)、無限寿命の原泉(カムナミチ)によって、発生、消滅して居る』といふサトリの表明である。
 
<マツロ>
とは、コロモ(衣)の古語で、マツロフ意である。
 
<コト ホグ>
といふ言葉も、第六句の「アガム」と同様に、後代は神秘的な用語として解されてしまったが、本来、「コト」とは繰返しの意である。「コ」は九、「ト」は十に当り)、「コト」と言へば、ヤタノカガミの表象物に示されて居る如く、一二三四・・・・・と八で極限に達し、九を経て統合され、又、一二三四・・・・・(ヒフミヨイ マワリテメグル)、即ち、「コト」には、「統合された末端」の意味があり、従って一応の「落着」を示すと同時に、それが又、始端にもどって繰返へされる意味がある。「・・・する事」とか「モノゴト」等といふ日本語の発想も、このような思念から出て居ると考へられる。
 
 「ホグ」とは、正反の親和状態(ホ)と、自由にする(ク)といふ、「統合 分解」の思念であるが、「ホグス」といへば、ホ(正反親和状態)を、自由にする(ク)意味で、分解する意味になる。
 このような意味で、使はれて居た「コトホグ」といふ言葉が、「言祝、寿ぐ」になったのは二次三次の変遷である。
 
 この句による示しは、『始端、末端的な極限は、循環されて居る』といふサトリに基くものである。哲学的には「無限」とは「有限」の連続であり、有限寿命の循環が「永遠性」の真相であるといふサトリを表明した事になる。
 
 
有限と無限、永遠の創造(アラカミチ)
 
 カタカムナ人の直義によればご<カム>は無限であり、<アマ>は有限の宇宙球である。〈カム〉は、宇宙の外域に拡がる「トヨクモ」であり、宇宙球をつつむ「アマのコロモ」である。<アマ>は、すべての万象の始元の量である。
 
 そもそも「カミ」の正体とは、<アマ>のカミ(起源)の<カム>であったといふ事になる。そして、人間が「生命」と称して居るものの実相は<イノチ>であり、その実体はこの<カム>の「ナ」(カムナ)が<アマナ>と共役して、我々の細胞に潜在して居るものであるといふ事になる。
 
 有限の<アマ>(宇宙球)が、永遠的に存在し、その中で万象が、それぞれの存在を保って居るのは、<カム>と<アマ>を通じる<カムナミチ>によって、刻々に、生成と消滅が、新陳代謝して居る、イマタチ(統計的存在性)の故である。その点では、我々の身体も、地球も、諸天体も宇宙球も、又、地球上のあらゆる動植物鉱物、原子、電子も、すべて、相似象であり、人間が「永遠の生命」とよんで居るものの真相は、このような状態が無限的に連続するスガタ(アラカミチ)である、といふ事になる。
 
<カム>がどのようなものか?
 といふことについては、上古代人の体覚を失った我々は、彼らの示した言葉をたよりにするしかない。しかし<カム>といふものを、現代科学の最新の理論によっても論証できぬ程、「神秘的なものだ」と思ふのはマチガヒである。<カム>は<アマ>のソトハラに在るといっても、それは、我々と全く無関係に、はるか宇宙の遠方にあるのではない。それは宇宙をつつむ外域であると同時に、カムナ-アマナの共役によって、我々のイノチに、刻々に働きかけて居るチカラのヌシである。
 
カムの把握
 人間の能力でわかり得る限界があるのをふまへておくことは必要である。<カム>についてこれ以上詮索しようとしても(詮索することは自由であらうが……)、<カム>に関しては、カタカムナ人の直観で示されて居る以上のことはわからない。なぜなら人間は、いかにも自分の力で思考し行動して居るようにみえるが、カタカムナ人の直観によれば、人間とても他の一切の生物と同様に、<カム-アマ>のルールの支配下にあり、我々のアタマは、現象界のアマの元以下の事について、その構造や性質を究明することは出来るが、<カム>についてはそのナリ(本性)をサトルまでである。
後代の人々は、ヤミクモの好奇心と欲望にまかせて、<アマ>の事もよく知らぬくせに、<カム>の領域を探らうとして混乱して居ることは、我々にとって、ひとつの参考とならう。
 
 <アマ>の状態を知ることは、人の子にとって、自分の肉体をわけてくれた、いはば生みの親を知る事であるから、カンがよければ、理論はともかくとして、その正体を「サトル」事は不可能ではない。
 しかし、自分のイノチは、肉体の生みの親だけで発生するものではない。どうしても、アマだけではない。アマのカミがなければならぬ……といふカタカムナ人の直観は、真にスナホな鋭さをもって居た。しかしながら、<アマ>の、領域しをこえた、遠い遠い宇宙の<ソトハラ>の<カム>は、将来、いかに科学が進んでも、人間が出かけて行って確認する事のできる世界ではない。それは、丁度、睡眠中の状態を推察するようにしか、人間の能力には、どうしてもかかって来ないものである。
 
 彼らはその事を鋭く直観し、アリのママに表現して、<カム>と言ったのである。その何ともいひようのないスナホさにはいささかも、無理な憶測にソレる余地のない、明徹なスジが通って居る。<カム>といふ把握は、真におどろくべき達観である。が、同時に、解けてみれば、あまりにもアタリマエである。
 
 
◆現代の我々は「何事の在しますかは知らねども…」ではすまないし、又、不可能と知らずに、不可能ときまって居る限界をこえて、ムリな憶測をすれば、必ず人間の世界にだけしか通用しない、神秘思想や、妄想、幻想、錯覚の類におち、愚にもつかぬ理論とも知らずに、大まじめで、カラマワリを続けるしかない。 
 学問、思想芸術や、生活の全般にわたって、あらゆる分野に分化展開された人間の文化は、およそ考へられる限りのこころみもほぼ出つくした観がある。
 
◆カタカムナのサトリは、カタカムナ人の考へた哲科学であるが、それは、人間のアタマてこしらへたものではなく、アマのルールのサトリである。そして、アマのルールはアマが定めるのではなく、(宇宙の摂理は「神」がつくるのではなく)、「アマ-カムのムカヒ」から出る。人間のなしうる事は、「このルールをサトル」ことであり、その上で、このルールにかなった(相似の)めいめいの「アラカミチ」を切りひらくことである。あらゆる方面の分化発達した学問芸術も、マトモなものは、しらずしらず、このルールにかなって居る。人間は何をするも自由であらう。が、要するに、それは、<アマ>といふ大きな掌の中で飛びはねて居る、遜呉空のようなものだ………。と彼らは判断したのである。
 カタカムナの上古代人は、このように、アマ-カムの対向がすべての「原象」であり、人間のいとなみのあらゆる「価値」の基範がここにあり、人間の求める「美」の基準、人間の「創造」の基本が、ここにおかれて居ると観じたのである。人間の「文化の真の成熟」は、このような方向でしかあり得ぬ、といふ示唆が、ここになされて居るようである。
 

 
 
『実現論』前史「人類:極限時代の観念機能」の一節を思い出します。

観念機能こそ、DNA進化に代わる新たな進化機能=共認機能の完成形態であると言える。しかし、観念機能がDNA組み換えを超えた新たな進化機能であるという事は、その機能を獲得した人類は、その共認=観念内容によって進化もすれば退化もする可能性を孕むことになる。
 
人類の最先端機能たる観念機能は、あくまでも本能回路や共認回路を充足する為にある。もっと簡単に言えば、現実課題に応えるためにあり、行動を導く為にある。従って、観念機能は、精霊信仰以来一貫して目の前の現実世界(自然や同類)を対象化してきた。そして現実対象⇒事実認識の蓄積によって、人類の生存様式を進化させてきた。

 
つまり、自然の摂理(カム-アマのルール)をサトルことが観念機能の原点であり、アマ-カムの摂理に由来する適応欠乏に則って、現実の対象や課題を直視し、各々のアラカミチを切り開いてゆく=現実世界に適応してゆく。そのためにあるのが観念機能です。
「適応欠乏というイノチを万象に宿す道=アラカミチ」
 
 
そういう意味では、自我・私権の拡大のために地球から収奪することを目的に発達してきた近代科学は、観念機能の劣化態あるいは観念機能の暴走と言っても過言ではありません。「市場拡大とともに自我肥大し、自然を支配(破壊)してきた近代科学」
 
改めて、カタカムナのサトリも包摂される「自然の摂理」や「人類史・生物史」に立ち返って学んでいく必要を感じます 😀 。

List    投稿者 MASAMUNE | 2011-11-22 | Posted in 13.認識論・科学論3 Comments » 

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コメント3件

 残念・・ | 2012.11.21 1:09

時々読ませていただいてましたが、いきなり金容雲という韓国人の願望丸出しのウリジナル起源説を鵜呑みにした内容でビックリです。筆者が在日や反日左翼の方なら理解はできますが、日本人ならもう少し検証されてから書いてはいかがでしょうか?もう少し知識のある方々が執筆されてるブログと思ってたので、非常に残念です。

 妄想と願望の民族 | 2012.11.29 19:21

あちらの妄想は 毎度すぐにブーメランとして帰ってゆくのですが・・・ 竹島の妄想と同じレベルでしょう!! 根拠を裏付けるソース資料が希薄すぎます!

 price hermes handbags | 2014.02.03 9:46

hermes jena 日本を守るのに右も左もない | 天皇制国家の源流9 高句麗や新羅に対抗する百済・加耶連合が大和朝廷を支配した

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