カタカムナに学ぶ ~節約から本能の抑制(食抑)へ~
マスコミではほとんど報道されていませんが、今回の不況は’90年バブル崩壊後の不況をはるかに上回っており、あらゆる業種が営業不振に陥り、首切り・リストラが行われてるような状況です。
これは、’08年リーマンショック(日本では’90年バブル崩壊から)によって顕在化した金融不況に’11年原発事故による不況が加わったためで、金融不況+原発不況と二重に重なった今回の不況は、極めて深刻なものです。
この二重の不況は金融不安+原発不安によって物欲が衰弱したことが大きく、これは私権の衰弱に直結しています。
物欲の衰弱の初期状況である「もったいない」という節約意識は、今後、どこに向かうのでしょうか?
そのヒントをカタカムナのサトリ『ヲスヒナリ(食と性の本能)』から学んでいきます。
参考文献:相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行)
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第二十五句
カムナガラ アマツウツシミ
サヌキアワ ミシロヲスホミ
スヒチホミ アマナカネミチ
ヲスヒナリ
<ヲスヒ ナリ>とは「食(ヲ)と性(スヒ)の本来性(ナリ)」といふ意味である。それは、人間の食本能、性本能といふような視線から見たものではなく、食本能によって摂取する栄養の本質は何か?性本能による栄養の本質は何か?といふ、生命保全の基本に関するサトリである。「ヲス」とは食べること、「スヒ」とは「好」で、上古代語の性(セックス)の意である。「ナリ」とは生り(発生する、実がなること)成り(生成の本性)為り(ひととなり、なりかはり)業(ナリハヒ、しわざ)装(ナリフリ、かたち)等の意があるが、「ヲスヒナリ」といえば「食や性に関する様々な様相を呈するもの、則ち食欲や性欲等の本能として捉へられて居るものの本性」といふ意になる。(現代人の食本能、性本能といふ概念との、違ひに注目して頂きたい。)
この句の概要の意味は、『カタチは見えぬものであるけれども(カムナガラ)すベてのアマ始元量から変遷した個々の物質の実体、(アマツウツシミ)は、サヌキとアワ(正反の電子、正孔)であり、それが栄養代謝物の基礎(ミシロ)になって、食べもの(ヲス)に加着親和(ホミ)し、又、性機構(スヒナ)加着賦存(ホミ)して居る。それは、サヌキ アワの内核(ミ)ともいふべき<アマナ>の、潜象と現象を兼ね合せたオコナヒによるのであり、それが、食と性の天来のナリ(本来性)に成るのである。』
この示しは、カタカムナ人が、「食」の栄養と「性」の栄養の重要な関連をサトリ、その栄養の本質は、ともに、サヌキとアワの代謝である、と直観した事が基になって居る。人間の側からみる食本能、性本能なるものは、本質的には、食物自体や、性の機能に、加着して居るサヌキアワのミ(アマナ)の、天来のナリ(本性)である事を洞察したのである。
従来の食本能、性本能なるものの概念は、甚だ人間的な解釈であった。カタカムナ人は、人間の「食」や「性」の本来性は、人間の食慾や性慾に基くのではなく、食物自体や、性機構のしくみの、天来の「ナリ」に基くものであることを直観したのである。
食欲や性欲が、生物自身の根源的な本能であると思いこみ、その本能に従ふことが、生物の自然さであるかの如き解釈が、現代人の思考を狂はせる大きな因となって居る。人間の「食」や「性」の本性は、人間の欲望や本能に基くものでは無く、天然自然のルール(本来性)の生物のナリにしたがふものであることを、カタカムナのサトリは明示して居る。
生物はつねに食物のあるだけ殖え、地球上は自然に平衡が保たれて居た。しかるに急激に人口が増えると、食物も早急に増産させねはならなくなり、肥料や農薬等の公害を来した。「食」や「性」についても、食欲や性欲の対象として、個々バラバラにしか考へなかった……。要するにマットウなカンがなかった。しかしカタカムナ人は、つねに連帯的な関はりからものの本質を見抜き、一貰した把へ方をして居たのである。
例へば、自然の生物が、あれ程多量の種子や卵をバラまき、その中の何億分の一だけが生命を全うするという事も、一寸考へれば無駄の骨頂で、もう少し量を少くして、確実に安全に育てたらよさそうな気がするが、それが人間的な思考といふもので、自然総体の循環系として、すべて、他の生物の「ヲスヒ」の「ミシロ」となることが、組み込まれて居るわけである。もし人間的な親切心や益虫害虫的な合理精神で、なまじ保護を加へたり、制限したりすれば、その刹那からこのバランスは崩れ、当面の生物のみならず、周辺のものの運命を狂はせる事になる、といふ事を、我々は、最近の自然破壊や公害問題等によって、ようやく気付き始めたが、カタカムナの上古代人は、夙にこの事を、もっと大きな視野から、天然自然の「ヲスヒのナリ」として洞察して居たのである。
すべて「環境との関連」に関する直観が大切だといふ事である。カタカムナ人の考へた環境とは、単なる周囲の自然環境といふ意味ではなく、環境なるものの実質は、大地大気のサヌキ アワにあると直観し、つねに、目に見えぬ潜象(アマーカム)の支配を感じて居た。「炭酸循環」の問題も、我々は、動物が酸素を消費し、植物や微生物が酸素を生産するといふ、動植物間の狭い視野で見、「水の循環」も対流圏内に止まって居るが、カタカムナ人は、その他に、モロカゲといふ「宇宙的な循環系」を直観して居る。
我々のアタマは、あまりにも人間的に偏った訓練をうけて来た為に、本来の機能(直観性能)の方が甚しく劣化してしまった。人間以外の生物は、みな、めいめい自分自身で、環境の気配を刻々に感知して、自分自身で対処して居るのに、我々は、頼りない「天気予報」に頼らなければ日々の気象さへもわからぬ有様である。予報が当らぬと文句をつけるより、自分たちの直観性能の劣化を、より重要な問題として、その対策を考へるべきであらう。
なぜなら、人間がそれを感知しようがしまいが、人間も他の生物と同様に、環境の支配からまぬがれて生命を保つ事は一刻もあり得ぬといふのが、冷厳な事実であるからである。
人間の世がいかに「文明」化し、生活がらくになって、本来の生物感覚が退化しても、天然自然のルールは変るものではなく、人間の本性(ナリ)も亦、変るわけではない。<ナリ>とは、生物としての「本来性」であって「本能」のことではない。そしてこの「本能の鍛錬」こそ、生存を保つ上に、いつの世にも、親から子へ、決して怠ってはならぬものである。むしろ生活の近代化に伴い、ともすれば陥りがちな過保護の弊を防ぐには、ますます「人間の本性(ナリ)」を知り、本性に基づく直観(カン)の鍛練に努めない限り、精神失調と体の病弱化は、避けられぬであらう。
ルネッサンス以降、人類は食欲や性欲が、生物自身の根源的な本能であり、その本能のままに生きることが正しいとして、近代社会を築いてきました。
しかし、それは本当に正しかったのでしょうか?
食本能を開放する1つの事例として、
るいネット『食べなければ死なない①②』の餌を与え続けた動物の事例を紹介します。
●小食を科学する
小食とガンなどとの病気の関係は、さまざまな実験によって相関性があることがわかっている。
・1935年のマッケイ博士の研究では、30~40%のカロリー制限をした動物は、自由に摂取した動物よりも寿命が長くなり、ガンなどの加齢関連疾患に発症する確立が低くなった。
・フランスのド・ヴリーズ博士は、断食すると皮膚の若返りが著しく、シワ・シミ・そばかす・発疹・吹き出物が消えていくと言っている。
・スペインの老人ホームでは、通常の食事と水断食を1日おきにやったグループと、毎日通常の食事をしたグループを比較したところ、前者の老人たちが圧倒的に長生きした。
・1960年代のドイツの研究によると、食べたいだけ食べさせたネズミは、2日おきに断食させられたネズミよりもガンの自然発生率が5.3倍も高くなった。
・米国カリフォルニア大学のマーク・ヘラースタイン博士の最新の研究では、断食すると体内の細胞に抗ガン効果をもたらすことがわかった。
たくさん食べると分泌される成長ホルモンやインスリンのような、細胞の成長を促すようなホルモンは、細胞の分裂を促し、がん細胞の増殖に深く関わるという。つまり、日本人の死因の1位であるガンは、「食べすぎ病」だと断言してよいと石原氏は書いている。
●食欲不振のサインと免疫力
人間はガンになると食欲がなくなるのは、免疫力を上げてガンを治そうとする反応だという。ガンでも他の病気でもそうだが、食欲がないのに無理やり食べさせようとするのは、人間の自然治癒力を妨害していることに他ならない。
・オレゴン大学の研究では、18年間、30%のカロリー制限をしたアカゲザルたちは、普通食を与えられたサルたちよりも、T細胞のレベルが高く(免疫力が旺盛)、病気になりにくいという。こうした様々な研究によって、低カロリーの食事は、血液中のコレステロールを下げ、血圧を下げ、体脂肪を減らし、糖尿病や心臓病のリスクを軽減させることがわかっている。
・ミネソタ大学のM・J・マレイ博士の研究では、1975年にサハラ砂漠の飢餓の遊牧民たちに食料を与えたところ、突然にマラリアや結核などの感染症が増えてきたという。そのため、栄養過多が感染症を誘発し、われわれが食べる食物中の栄養素は、われわれの体の維持よりも、病原菌の分裂・増殖に利用されるのではないかと考えるに到った。
現代医学では、ガンができたら放射線で焼却したりするが、ガンの原因に対しては何らの処置もしない。そのため、ガンが再発することも多い。人間が生きるための必要最小限の食物しか摂っていないならば、「新生物」をつくる余裕がないのだから、ガンができてくる背景には「食べすぎ」があると石原博士は述べている。
食本能という欠乏は餓え=「食えない」という外圧に基づいて形成されています。自然界で、好きなだけ食べられるということはありえません。現に、一般的な動物は、常に飢えており餌を探しています。始原人類においてはこれよりも過酷な状況でした。
以下『実現論:ヘ.人類 極限時代の観念機能』より引用します。
足の指が先祖返りして、それ以前の獣たちと同様、足で枝を掴むことが出来なくなったカタワのサル=人類は、樹上に棲めるという本能上の武器を失った結果、想像を絶する様な過酷な自然圧力・外敵圧力に直面した。
上記のように始原人類は、餌をとる事もままならず、恒常的に飢えていました。この「飢えている」という状況を元に、免疫などの諸本能が形成されており、現に免疫機能は、ガン細胞などの異物を「食べて」体外に排出します。
このように、自然界は「飢えている」ということを前提にバランスしています。自然の生物が、多量の種子や卵をバラまき、その大部分が食べられ、何億分の一だけが生命を全うするということもバランスの1つでしょう。
しかし、現代(とりわけ先進国)では「食えない」ということがありません。むしろ食べ過ぎている状態です。このバランスを崩した状態が様々な病気の第一原因となっているのが、アカゲザルやサハラ砂漠の遊牧民の事例からわかります。極限時代という飢えの時代が長かった人類の歴史から考えてみると、食べすぎによる悪影響は他の動物と比べてとりわけ人類に顕著に現れると思います。
一日三食はとんでもない間違いです。実際、朝起きて食欲はないのが当たり前で、朝飯前の仕事という言葉があるように、一仕事してから食事をするのが自然な事です。その意味で一日二食、理想的には一日一食が正解です。
また、食べないと頭が冴え、食べすぎ(=肥満)は頭に血が回っていきません。
さらに言えば、現代の食材の半分以上は化学物質(毒)が混じっており、たくさん食べる人は心臓病や癌などになる確率が3倍にもなるようです。
これは食欲だけの問題ではありません。原発も生活を豊かにするということを是として作られ、福島の事故のような甚大な環境問題を引き起こしました。近代人は本能を礼賛し、マスコミ等を通じて欲望を刺激することによって市場を拡大してきましたが、その果てに、市場社会は経済危機や原発危機をはじめとする崩壊の危機に瀕しています。
それに対して、本能の背後にある自然の本来性(ナリ)を直観していたカタカムナ人は、自然とのバランスや調和が大切であることを<ヲスヒナリ>のサトリによって教えてくれています。先人の認識は本質を正確に捉えています。
第二十六句
カムナガラ スヒナヲスホミ
カムナマリ ミクラアマタマ
カヨフマリ アマナカネミチ
ヲスヒナリ
<スヒナ>とは、性(スヒ)のナ(代表するもの)つまり「性の機構」の意である。<スヒナ ヲス ホミ>とは相性の機構(スヒナ)と食べ物(ヲス)に、加着親和して居るミ(ホミ)といふ意味で、その「ミ」が何であるか?といへば、則ちカム(無限のチカラの世界)のナ(代表する名代)の支配するマリ(カムナマリ)であり、宇宙球(アマタマ)には、そのような「ミ」が、自由に(ク)あらはれて居る(ラ)、といふ意である。
この句の概要の意味は、『カムナガラ、性のしくみ(スヒナ)と食べもの(ヲス)に、親和賦存(ホ)して居る「ミ」は、無限界の支配する潜象の粒子(カムナマリ)である。宇宙球(アマタマ)には、そのような潜象の「ミ」が自由に充満し(クラ)、無限界(カム)と、始元界(アマ)を通って居る。それが、潜象と現象を兼ねたアマナのオコナヒ(アマナ カネミチ)によって、「食」と「性」の本来のナリ(本性)と成って居る。』
この示しは、「食」と「性」の栄養となる「ミ」は、宇宙広域に関連がある、といふサトリが基になって居る。則ち、食べ物や性のしくみにホミした、潜象粒子(カムナマリ)とは、ここでは宇宙に充満するサヌキ アワ(正反の電気粒子)の「ミ」のことである。したがって、人間の「食」と「性」の現象も、その本性は何か?といへば、要するに、このサヌキ アワの本性と、ヒトツカタ(相似象)である、といふ直観の表明である。
カタカムナ人は、本能の背後にある、食や性の本性、自然の摂理を対象化していたのでしょう。
実際、クロマニヨン人は壁画などを描いており、脳容量も現代人と変わらないため栽培や牧畜ができる観念能力を持っていたと考えられていますが、それをしなかったといいます。これは、自然のバランス(摂理)を直観的に理解し、それを乱すことをしなかったからだと考えられます。
しかしながら、採集時代以降の人類は、弓矢の発明によって自然外圧を克服し、地上に進出してゆきましたが、自然外圧の衰弱と同時に自然への同化力(カン)を低下させ、人口増加と気候変動(ヤンガー・ドリアス寒冷期)という外圧に直面した時に、自然の摂理に反した栽培や牧畜という生産様式に舵を切らざるを得ませんでした。
さらに近代社会では、楢崎皐月氏が指摘するように、食欲や性欲が生物の根源的な本能であると思い込み、その本能に従うことが生物の自然さであるかのように、人間に都合のよい解釈がまかり通っています。それが近代市場社会を拡大させてきた原動力ですが、現代文明が崩壊の危機にしていることから考えて、それは間違っていたと言わざるを得ません。
そして、昨今、大衆の意識として「もったいない」という節約潮流の高まりや、『食べなければ死なない』のような、本能を抑制する動きや問題提起を頻繁に見聞きするようになっています。
これは、大衆の意識が「もったいない」という節約意識を超えて、食欲をはじめとする本能の抑制に向かってゆくことを意味しています。そして、崩壊の危機に貧する近代社会がルネサンスの本能の開放から始まって欲望の刺激によって拡大してきたことと考え合わせると、それは正しい方向だと言えます。
では、カタカムナ人がいう本能の背後にある本来のナリ(本性)とは一体なんなのでしょうか?次回に続きます。
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