2011年11月08日

カタカムナに学ぶ ~「異性親和の相事象」から双極的世界(分化と統合の原理)が生れる~

前回「カタカムナに学ぶ~素粒子も個体もみんな同じ、アマとカム(みんな)の分身」 では、第一句から、その後半、
【1】<イマ>とは「イのマ」、つまり、「微分されたアマ」といふ思念で、「今」や「時間空間」といふ現象の本質である。つまり細かく分かれた潜象粒子マリ「イマ」が変遷する姿の集合系、言い換えれば「トキトコロのマリ」が刻々と、光速よりはるかに早い超スピードで、発生と消滅を繰り返している統計的存在であること。そして現象界の全てのものは、「イマ」の変遷であること。
【2】生物や人間の個体もみんなカム→アマの分身であり、その根っ子ではみんな同じこと。
という内容を紹介しました。今回は第二句~第四句の三つの句を紹介します。
引き続き、相似象学会誌『相似象』五号(1973年3月 シーエムシー技術開発㈱発行)から紹介します。
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〔弾丸銀河団〕 (画像はリンクよりお借りしました)

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■第二句
カムナガラ  タカマカシキネ
トヨカブシ  チカラムスクラ
アラカミチ  メグルアマタマ
カムナミチ
 この句の概要の意味は、『カタチこそ、人間の目に見えないけれども(カムナガラ)、宇宙球の外域は、タカマ(宇宙球)をカタチづくる根(カシキネ)であり、厚い球冠(トヨカブシ)である。そしてそこは一切のチカラを発生する場(ムスクラ)であり、宇宙球を構成するアマ始元量が、循環運動を起す場である(メグルアマタマ)。則ちそれが宇宙創成のアラカミチであり、カムナのミチである』といふサトリの表明である。
(タカマ カシキネ)
とは「タカマ(宇宙球)をカタチづくり、シキって居る(構成する)ネ」といふ意味で、「ネ」とは、植物の根、屋根垣根等のように、長々とねはり拡がる感じの思念である。従って、タカマカシキネとは、「宇宙球の外側の壁のような根」といふ意味になる。ただし、壁とか根とかといっても、目にみえる物質ではなく、クモのようなオシクモネ(第一句)であり、言ひかへれば、
 
(トヨ カブシ)
である。、「トヨ」とは統合(ト)正反四相(ヨ)の思念から「豊か」の意になる。「カブシ」とは「かぶって居るもの」の意であるから、「トヨカブシ」は、「宇宙球の豊かな冠(カンムリ)といふ形容でカムの力がアマ界に統合して四相となり、万物を生成する物理を示している。
(チカラムスクラ)
とは、「チカラを発生する(ムス)場(クラ)」の意である。神話やノリトに屡々出てくる「ムスビ」は、通例「結び」と解されて居るが、それは二次的に発展した意味で、もとの上古代語では「産ス玄」則ち「発生する根元」といふ意味であった。
(メグルアマタマ)
とは、「アマ始元量そのものや、アマ始元量によって成り立つタマ(宇宙の天体)は、マワリテメグル(自転しつつ公転する)運動体である」といふ意味である。天体の自転公転等は現代人も知って居るが、カタカムナ人は、アマの運動系についても、アマノウツメ、アマハヤミ、アマウツリ、アマウツシ等といふ直観を示して居る。
 さて、第二句の示しは、『アマタマ(宇宙球)は、旋転循環の運動体であり、そのような運動を起す原動のチカラは、アマタマの外域(タカマソトハラ)のカシキネのトヨカブシで創成される』といふ直観が基礎になって居る。則ち『宇宙の外側は、無限のチカラの壁である』といふサトリである。このような「力の壁」といふ直観は、現代科学に於る「現象粒子の外側に、エネルギー障壁が存在する」といふ相似象の、原象を示したことになる。
▼(チカラムスクラ)
宇宙のソトハラは則ち(カム)の世界であり、チカラを産すクラであり、すべての森羅万象を発現する宇宙の運動の根源は、このカムのチカラに基くものである、といふこの直観は、実に驚嘆すべき洞察である。我々も、地球、月、太陽、彗星等の運動は知って居たが、その力がどこから出、どうして動いて居るのか?は知らなかった。又、電気や磁気などのエネルギーの出所も行方も、知らなかった。カタカムナの物理が成り立つモトには、このような大きなチカラの洞察があったからであり、カムナガラノミチも、そのような根拠があったからこそと、うなづかれるのである。宇宙のソトハラが、無限のチカラの壁であるとは、真に鋭い直観である。
このカムのチカラが、アマ界に於て、イキ(生気)やイノチ(生命)やイキホヒ、エネルギーとなり、電気や磁気や力の素量(イカツミ、マクミ、カラミ)等ともなり又粒子(マリ)に変遷して、電子(イカツ)となり、電磁波、輻射波にもなり、原子を構成して、各種の元素となる、といふ直観物理が展開するのである。
 宇宙(アマ界)にあらはれるすべてのモノは、人間も、地球も、太陽系も、そして宇宙全体が、マワリテメグル循環系であり、その運動のチカラを発生するクラは(カム)にある。(カム〉は、カタチはみえぬけれども((カムナガラ)、つねに(アマ)と重合し、刻々に宇宙球(アマタマ)を生み、宇宙球は刻々(カム)に還元する、大きな循環系である、といふ直観である。 科学の「エネルギー障壁」といふ見解は、カタカムナ人の示して居る、この巨大な(カム)の「チカラのカベ)の存在を、極微の、相似の現象に於て、とらへたものと言へるであらう。
 又、現在の天文学は、「宇宙の膨脹」といふ見解を発表して居る。膨脹する以上、膨張する余裕といふものが、その外域になければならぬ筈である。
そこで、今までアイマイに宇宙は無限だと思って居た一般の人々もその宇宙が、実は「有限の球態(アマ)である」といふカタカムナ人の直観物理を、一応みとめる気にはなれるとしても、しかし、(アマ)が、宇宙の万象を生み、万象は又(アマ)に還元するといふ循環を行ひながら、その(アマ)自身が刻々に(カム)から生れ、又(カム)に還るといふ、カタカムナ人の大きな「循環系のサトリ」は、理のみで解するには、あまりにも人の能力を越えて居る。殊に(カム)が(アマ)と循環して居る複合糸の潜象であり、無限の潜態である、といふ物理は、現代科学の思考では、「ついて行かれぬ考へ方」であらう。どうしても従来の固定観念を切りかへてみなければならない。
▼(メグルアマタマ)とは、「アマタマ(宇宙球)の運動」の意である。則ち旋転循環の運動がなければ、アマの物理はあり得ない。アマの状態を動的にとらへれば「旋転循環」であり、静的にとらへれば「膨張収縮」である(第五句)。そして、そのような運動を起すチカラの源泉が、(カム)にあり、(カムナミチ)に.よって(アマナ)に通じるといふ直観である。
(アマ)はすべての万象を生む始元であり、現象界に於ては、(アマナ)が物質構成のチカラの、究極的な原動として把握されて居る。しかしその(アマナ)は、(カムナ)の相似象である。つまりーアマナはアマの分身として物質内に入りこんで居る「内核」であり、潜象ながらあくまで球状的なもの(ミナカヌシとよばれ、原子核はその相似象)とされて居るが、(カムナ)の方は、いはば「外核」であるから球状ではない。したがって核的な名称ではなく「ホラミチ」とか「カクレホラ」等とよばれ(空洞はその相似象)、より高次元のものとして示されて居る。
現象界に於るすべてのエネルギー、(位置エネルギーをはじめ、電気、磁気、圧力、熱、光等としてあらはれる)の源泉は、宇宙をつつむ(カム)の、チカラの璧からあたへられ、その経路はアマナによってカムナのミチが通じて居る、といふ直観である。
 カタカムナの物理は、現代科学の理論には受け容れられ難いであろう。しかし、もし彼らの把握が正当なものであるなら、その物理に基いて、現代の科学技術とは別体系の、新しい技法が切りひらかれる筈である。私達は、この上古代人のアマー力ムのサトリを、現代人に理論的に説明する事は無理かもしれぬが、新しい技術の開発や、ごく身近な生活生産技法の再認識等によって、その正当性を実証する事は、不可能とは言えまい。

 現代物理では説明できない、エネルギーの出所や、天体を動かしている力。カタカムナの直感物理は、大きな力のモトは、カムにあり、そこから生成しまたカムに還元するという循環運動をしているという。
 
 上古代人は、現代人からすれば、とんでもない鋭敏な感覚で、宇宙やその背後(カム)の動きを感手していたことになる。近代科学が行き詰った今、自然の摂理に沿ったカタカムナの直感物理の体系から学び、見直す点は無数にあるのではないだろうか。

■第三句
カムナガラ タカマナリフネ
サネタチネ カムナアマナノ
アラカミチ タカマミハシラ
カムナミチ
 この句の概要の意味は、「カタチこそ、人間の目には見えないけれども(カムナガラ)、宇宙球(タカマ)の、成り立つ二つの根元(ナリフネ)は、カムナといふ雌性の根(サネ)とアマナといふ雄性の根(タチネ)である。宇宙体(タカマミ)を保つ柱(ハシラ)は、現象の始元界(アマ)と、客観背後の無限界(カム)とによって刻々に創成されて居る』。といふサトリの表明である。
 この示しの根底観は、『万象に於る、オメタグヒ(すべてのものに、雌雄の性の種額がある)といふ、『異性観和」の相似象』を洞察したところにある。即ち万象の雌雄の性の根元に、客観できない核(サネ)と核で生産される種(タネ)との、二つの本性(ナリフネ)があり、その二つの本性が合体して四相(トヨ)になる事で、新しい生命が発生するといふサトリである。 
(ナリフネ)
 とは、「タカマの成り立つ二つの根」といふ思念であり、二つの根(フネ)とは、サネ タチネをさして居る。(トリフネと同じく古事記などの舟のあて字からは意味のとりようがない。)
(タカマミ ハシラ)
とは、「タカマ(宇宙)の実体(ミ)を保つ柱」の意、「ハシ」とは、橋、箸、端等の如く、正反(ハ)を渡すもの、「ラ」とはそのあらはれの思念、したがって「ハシラ」に「柱」の意味が出るのであらう。「ミ」が「御」の意になるのは、後代の引伸義である。
▼サネタチネ 「サネ タチネ」とは「雌雄性の根」の意味であり、カタカムナ人はこの事実を、又「オメ タグヒ」とも言って居る。西欧やインド等の民族の言語に、男性、女性、中性等の別のある例は珍しくないし、その起源(カミ)の探求も、研究に値すると考へられるが、日本語にはそのような発想はみられない。則ちカタカムナ人の雌雄性(オメタグヒ)の思念の根底にあるものは、単に漠たる情緒的なものではなく、又、海や月が女性であるとか、太陽や山が男性である等といふような人情的、一面的なものでもなく、明らかに、カタカムナの直観物理を生み出した、彼らの直観のサトリである。彼らは、動物、植物はもとより=石も山も、万物はすべて両性をもち、そしてその「性」の本質は、電気的な素量(イカツミ)のオメタグヒ(サヌキとアワ)であると観じて居た。
すべてのモノにイノチがあり、イノチの持続は、この両性の電気的結合によって保たれ、結合が解ければ崩壊する。部分的にそれを言えば「新陳代謝」であり、個体としては「死」である。自然の落花や落葉はごしの結合力のなくなったことを意味し、新しい野菜が美味しく感じられるのも、両性の結合力が強く、イノチが豊かに保たれて居るからであり一日が経つにつれ味が落ちるのは、結合がとれてイノチが失はれてゆくからに他ならない。
そしてカタカムナ人は、このように万象にみられる「サネ タチネ」の二つの根の「原象」は、(アマーカム)の対向(ムカヒ)にある、と直観したのである。
 則ち、現象界に於ては、(アマ)は「母性」の象徴であるが、アマを産むカムは、より高次の雌性(サネ)の原象であり、(カム)に対しては(アマ)は雄性(タチネ)の原象として示されて居る。

 このように、男性、女性といふような、現象面にあらはれた、ゆるぎない区別とみえるものも、実は固定したものではなく、環境の支配によって、それぞれ男、女、の位相を示しては居るが、実は、それぞれ、二つのネ(フネ)をもって居る(男性にも「サネ タチネ」の要素があり、女性にも、「サネ タチネ」の要素がある。丁度男女のホルモンのように…)。従って、位相が固定するまでは、自由に転換しうるものであり、又、男性にも女性的な位相、女性にも男性的な位相があるといふような、生命現象の本質に関する、極めて高度の達観が、カタカムナ人にあった事が判るのである。(四相のサトリ)
 又、(カム)は、アマの現象界の背後界であるが、同時に、カムはつねにアマと共役して居る。則ち、(カム)は無限に遠い客観背後界であるが、同時に、我々の細胞の中にも、原子の核内にも、アマナとして潜在し、アマナは刻々にカムナに通ひ、(アマ-カム)は、つねに、我々の「内外環境」となって居る。このように、彼らの直観は、融通無碍にふるまふ天然自然の本質本性を、見事に把み、すべてを変遷の過渡状態(イマタチ)と喝破して居る。

 この句を一言で言えば、『異性親和の相事象』。万物は全て両性を持ち、その性の本質は電気的な素量であり、その根は宇宙球の根本(アマナ)、(カムナ)にあるという。生物に広く見られる、雌雄分化もその相事象であるという。
 
 古代世界でみられる陰陽道の対極的世界観も、この世界観に近い。
 
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        〔陰陽道の対極図 〕
(白い部分にも黒い点があり、陽の陽たる存在も、その中には陰の要素を含み、やがては陰に移り変わっていき、陰の陰たる存在も、その中には陽の要素を含み、やがては陽に移り変わっていく。世界はこの循環を繰り返し、続いていく・・・・。)
 

■第四句
カムナガラ タカマムスクラ
カハルクラ アワセカサナル
アラカミチ アマカクルホラ
カムナミチ
 この句の概要の意味は、カタチこそ人間の目にみえないけれども(カムナガラ)、宇宙球の外域の無限界(カム)は、宇宙(タカマ)を創成し、又還元してゆく場である。即ち、アマは次々と分化し変遷(カハル)して万象を生む母体(ムスクラ)であり~互換(カハル)重合(アワセカサナル)の場であるが、万象はやがてアマに還元し、アマはカムに回帰して(カクル)ゆくのである』といふサトリの表明である。
(アマカクルホラ)
カクルとは、隠れるとか、馳けるとかの意であるが、ここは「アマがカムに帰って隠れるホラ」の意。「カムナミチは、刻々に、アマがアラタに生れてくるアラカミチ(創成の道)であると共に、又、アマが、刻々に回帰して隠れてゆくホラのようなミチである」といふ意味である。「ホラ」とは、単なるアナではなく、アナが、どこまでも続いて、ホラアナの道になって居る・・・・つまり宇宙(アマを包む(カム)の「無限のホラ」の感じである。
 この示しの根底観は、万象が始元量(アマから分化し、万象は始元量(アマ)に還元するといふ相似象の、「原象」を把握したところにある。そして、すべての現象に、互換性(カハリ)と、重合性(アワセカサナリ)が、本来性としてうけつがれて居るといふ、『互換重合性のサトリ』を述べた歌詞である。互換重合性のことを彼らは(トコタチ)といひ、又(イマタチ)ともいって居る。
▼「互換重合性のサトリ」については、屡々述べたが、「何と何が互換し重合するのか?」といふ事を常識的な例でいへば、静と動、表と裏、陰と陽、又、愛と憎、ウソとマコト………等といふように、互ひに相反する面が、ひとつのものに共存し、重なりあひ、換りあって表はれる、といふ事である。カタカムナ人は、それらのさまざまな、互ひに矛盾する正反性を、相似象として抽象し、次のような、いくつかの基本型を示して居る。則ち、
 アカ アヤのムカヒ (確定性と不確定性の共存)                              
 サネ タチネのムカヒ (男性、女性の配偶)                                 
 ソコ ソギのムカヒ (膨脹性、収縮性 ― 第五句)                             
 ナギ ナミのムカヒ (粒子性、波動性 ― 第六句)                             
等である。そして、そのような、すべてのモノにそなはって居る「正反対称」「互換重合」 といふ本来性は、どこから由来して居るか? といふ、「相似の原象」が、(アマーカム)の対向(アカ アオ ムカヒー第五句) にあると、サトつたのである。
▼タカマ ムスクラ 
カムが、タカマ(宇宙)を産む(ムス)場(クラ)であるといっても、所謂神話物語のように、神が、太古に一度産んで、それでおしまひといふ類いではない。
 カタカムナ人は、刻々に(アマ)と(カム)は交流し、一方では生れ一方では還元し、そのような新陳代謝が、永遠的につづき、そしてアマ界の中では、諸々の天体や、天体上の万象が、それぞれ一方で生れ一万で死んでゆく相似象を呈して居る、と観じたのである。ただその〈アマ〉と〈カム〉の交流のスピードは、非常な超光速(光速どころではない)である為に、人間の能力では認識できないだけであって、丁度、我々の身体が、刻々に一方で古い細胞が死んで崩壊しながら一方で刻々に新しい細胞が生れて、数十年の問個体を存続させて居るが、我々は誰も、自分の身体の細胞の交換を意識する事はできい。しかしそれは、紛れもない事実であるのと相似象である。
 「地球が、ものすごい速さで、自転しつつ公転して居る」という事実、かっては、死をかけて争はねばならぬ程のことであった。そして、今でもこの事実を、人間が感覚する事はできないにもかかわらず、現在では誰もこの事実を疑ふ者はない。
 
 私達も、我々の宇宙のイノチが我々のイノチと相似象で、刻々にカムと互換重合を続けて居る統計計的存在である」などといふ事は、カムナガラノミチに教へられるまで、ハッキリとした物理の認識はなかった。しかし、どうやら、上古代人の宇宙観は、正鵠を得て居るとしか考へられない。この事は、以下の句を読み進むにつれ、ますます鮮やかになるであろう。

 全てのものに備わっているという、『互換重合性』という原理、この相似の原象はアマ-カムにあるという。このことは何を意味するのだろうか?
 
 先ほどの第三句と併せて考えると、未開部族によく見られる双極的世界観が近いように思えた。異性に分化したものが、さらにカワリ(互換)、アワセカサナリ(重合)して、多面的な様相を示しながら一方ではカム世界に還元していく。そして、そのように分化した多面性を見せながら、同時にそこでは常に調和と再統合(トヨ)のための仕組みが形成されている。
双極的世界観 より以下引用

アフリカの古代国家の中には二つの都を持つものが多くあり、片方に男王もう片方に女王が就任している事例がある。男王が政治・軍事を女王が祭事(神事)を司っているいるようである。また別の角度から見れば闘争過程を男王が、解脱・生殖過程を女王が統率しているようである。(栗本信一郎「光の都市と闇の都市」参照)
これはおそらく採取生産時代の男長老と女長老の役割分担を踏襲したものと考えられるが、これだけではなく世界観(認識)全般に例えば男原理・女原理という双極的な二つの動因とその調和を見ていた節がある。
この双極的世界観は単にアフリカだけに留まらない普遍性を持っている。例えば中国の「陰陽」五行道などはその典型であろう。(世界が5つの要素より構成されており、かつ全体を貫く根本原理として陰と陽の双極を措呈している)
また西洋の言語にも男性名詞・女性名詞と自然界に存在するものに性別を表現しているものが多い。
これらの双極的世界観は明らかにその後登場した、一神教的世界観と全く性格を異にするし、天子と悪魔、善と悪等の対立的二元論とも明らかに性格を異にする。
おそらくこれらの世界観は狩猟・採取民族から始まって古代私権国家に至るもなおその色を濃厚に残した、彼らの秩序原理を表現したものではないか?と思う。
以下は全くの仮説だが、例えばそれは「分化と統合」という秩序原理を反映したものではないだろうか、生命体において分化=差異化は活性若しくは高度化のために行われる、同時にそこでは再統合のための仕組みが問題となる。例えば「男と女(雄と雌)は最も始原的な分化と統合の実現態である。いずれにせよこれらの双極的世界観を探ることによって、狩猟・採取部族の世界観を掴み同時に近代の認識論に欠けている領域のヒントを掴むことが出来るのではないかという予感がする。

 このように、双極的な世界観・秩序原理は、古代までは普遍的に存在していたことが分かる。更に古い上古代のカタカムナ人は、その根本がアマナとカムナにあることを悟っていたということになる。
現代は、男女平等とか自由と言った近代思想(価値観念)によって、『異性親和の相事象』や『分化と統合』のといった宇宙や生物にあまねく存在する根本的な原理も忘れ去られて、さまざまな悪弊をもたらしているのだと思う。
次回もまたしばらく、カタカムナ人に学ぶ追究を続けていきます。お楽しみにしていてください。
(by Hiroshi)

List    投稿者 ihiro | 2011-11-08 | Posted in 13.認識論・科学論2 Comments » 

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コメント2件

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