暴走の源流=平安貴族6 平安貴族(受領国司)の不正を告発しない朝廷・天皇
前回までの記事は、平安貴族たちの悪行として、貴族たちが行ったありえないほどのえげつない収奪(税の徴収)や自分達の都合が悪いことを隠蔽、口封じした(殺しまくった)ことなどについてまとめました。
平安貴族たちの悪行を地方豪族たちは命をかけて告発しようとしましたが、告発しようとしたものは家族を皆殺しにされたり、見せしめに指をおとされたり脚をへし折られたりするのですが、朝廷はそれでも平安貴族たちを取り締まることはありませんでした。唯一例外で悪徳貴族を罷免をした「尾張国郡司百姓等解」さえも、別の理由からでした。
今回は、地方豪族たちが命をかけて平安貴族たちの悪行を告発したことから、それでも悪行を見逃す朝廷(天皇までも)についてまとめます。
画像は信貴山絵巻からお借りしました。
『王朝貴族の悪だくみ―清少納言、危機一髪』告発者の親兄弟を皆殺しにするより抜粋引用します。
【受領国司の不正を告発を試みた多くの地方豪族たちは排除された】
受領国司の不正を告発する多くが地方豪族であったことは疑うべくもなく、またそうした告発者たちがしばしば受領たちによって暴力的に排除されていたことは間違いないのでした。
たとえば、「但馬の百姓」と称する団体(豪族)が関白藤原頼通の邸宅の門前にて数夜に渡って大声で但馬守藤原能通の不正を訴えるというようなことが続きました。これは「小右記」によると、但馬守藤原能通に恨みを募らせる橘俊孝という中級貴族の仕業でした。しかし大声を出していたのは不正に悩むまさしく但馬の豪族たちであっただろう。小右記によると豪族たちは「昼間に関白様に訴えればわれわれが告発しようとしている人物にわれわれは殺させる、だから夜中に訴えているのです。告発しようとしている相手には知られたくないのです」と言っていたとのことです。これは告発しようとする豪族を受領国司は暴力的に排除した(殺した)ということを示しています。丹波国の豪族たちが最も危惧したのは、但馬守藤原能通に殺害されるかもしれないということでした。
丹波国の豪族たちは、丹波守藤原頼任の不正行為を告発しようと大内裏の陽明門の前に立ったところを、頼任の手下に追い散らされたのですが、ここで悪徳受領が告発を阻止するために動員したのは「騎馬兵」と呼ばれるような武装した郎等たちだったのです。
【善政だったといわれていても実態はどのようなものだったのか ~悪行丹波守藤原頼任の事例を紹介】
丹波守藤原頼任は、大内裏の陽明門の前で告発しようとした丹波国の豪族たちに対して、自分の悪事の露見を防ぐために武装した郎等たち「騎馬兵」を動員しました。それでも丹波国の豪族たちは大内裏の陽明門の内側にうまく逃げ込むことができ、丹波守藤原頼任の悪行を大内裏にて大声で暴露しました。大内裏内に勤める多くの人々は丹波守藤原頼任が任国で不正を行っていることを知ることになりました。
その対応として2ヶ月後に頼任は自己宣伝(自己演出)を計るのです。2ヵ月後に丹波国の豪族たちが陽明門前で丹波守藤原頼任の善政を喧伝(大声でさけぶ)していたのです。藤原頼任が仕組んだものであることは誰の眼にも明らかなことであったでしょう。この件で藤原頼任は丹波守を解任されるようなことにはなりませんでした。
その後、お咎めのなかった藤原頼任は丹波国に戻ってもう2度と告発者が登場するようなことがないよう、疑わしき告発者を徹底的に弾圧したのではないでしょうか。藤原頼任は善政だったということになっていますが、これが本当の実態だったということです。
【地方諸国の豪族たちが頼みの綱として見ていた朝廷は告発者を助ける気などまったくなく、実は見捨てていた】
苛酷な状況に置かれていた地方諸国の豪族たちは、それでも朝廷への告発を続ける以外、方策をもたなかったわけですが、地方諸国の豪族たちが頼みの綱として見ていた朝廷は必ずしも味方ではありませんでした。
「御堂関白記」によれば、加賀守源政職から任国の豪族による納税忌避を報告する文書と、加賀国の豪族たちから受領国司による不正行為が多いことを告発する文書の2つが公卿会議(朝廷の事実上の意思決定機関)に提出されました。そこではどうあつかうかについて少し頭を痛めたのでした。そしてその会議では両者を呼んで後日審問にかけることが決定されました。ようするに保留にしたということです。
審問までの期間が少しあったために豪族たちは加賀守源政職に抹殺されないように自分で身を守らなければならなかったのです。誰にでも彼らが危険であることは想像できたはずですが、朝廷は彼らを守ろうともしなかったのです。告発者である豪族たちに始末する猶予機会(殺す期間)をあたえたかのような対応であったのです。
その結果、豪族たちは審問の場に姿を現すことはなかったのです。朝廷は審問の場に登場しなかった豪族を来なかったという理由で、加賀守源政職の言い分を採用して加賀守源政職を無実とし、豪族たちを罪人にしました。朝廷は地方の豪族たちの味方ではなかったということです。
【賢帝と言われていた一条天皇も悪徳受領の不正行為に眼を向けることはなく、逆に庇っていた】
受領国司の不正行為に関する地方豪族からの告発を聞く準備は、朝廷にはまったく整っていなかったのでした。もちろん受領国司の不正行為は十分承知していたことでしょう。しかし当時の朝廷は、一部の特別な場合を除いて、悪徳受領をめぐる現実から努めて眼を逸らそうとしていたのでした。
たとえば関白藤原頼通のもとに届いた丹波国の豪族たちからの告発状も朝廷において公式に審議されることはなかったのです。頼通の判断で握りつぶされてしまったのでした。「日本紀略」によると、丹波守藤原頼任の事例では6月19日に丹波国の豪族たちが告発のために大内裏の陽明門に現れたのですが、「小右記」によると関白藤原頼通が取り上げたのは7月9日でした。
こうした悪徳受領を庇って、告発者を蔑ろにするかのような判断は、摂政や関白によってばかりか、天皇までが下していたのでした。「御堂関白記」によると、賢帝と言われた一条天皇は尾張守藤原中清の不正を告発した豪族を即座に追い返せと命令し、再び告発のために上京した場合にはその豪族を処罰するように命じたのでした。賢帝と呼ばれた一条天皇も、悪徳受領の不正行為に眼を向けようともしなかったのでした。
【例外的事例として「尾張国郡司百姓等解」では、尾張守藤原元命は尾張国の豪族たちが朝廷に藤原元命の不正行為の数々を告発した結果により罷免されたが、実は別の目的があった】
唯一例外的事例として、尾張守藤原元命は尾張国の豪族たちが朝廷に藤原元命の不正行為の数々を告発した結果により罷免されました。「尾張国郡司百姓等解」として知られる嘆願書(告発書)が朝廷を動かしたのでした。
通常の朝廷の対応としては、たとえば尾張守藤原中清の場合は豪族たちからの告発で逆に豪族たちを威嚇・処罰したし、丹波守藤原頼任の場合は告発を無視し、加賀守源政職の場合は告発状を受理しながらも、加賀守源政職に告発者を始末する機会をあたえたかのような対応でした。こうした事例からも明らかなように、王朝時代の朝廷というのは、受領国司が不正行為を告発された場合、告発の真偽も確かめもせず、受領たちを庇おうとしました。処罰するどころか、告発者たちの声に耳を傾けることさえほとんど例のないことでした。
そんな朝廷が例外的に告発者の言い分を聞き入れたのが「尾張国郡司百姓等解」の事例です。悪徳受領国司の不正行為を問題視したのではなく、尾張守藤原元命は権力闘争上の都合で中級貴族の要職から排除が目的で、「尾張国郡司百姓等解」という告発を口実として罷免したのでした。一条天皇の父親であった円融法皇が自分の側近であった藤原文信を昇進させたいということで、尾張守であった藤原元命を罷免し、藤原文信を後任にしたいという理由があったのでした。一条天皇の父親であった円融法皇にならば、受領の人事に介入するくらいのことは十分に可能だったはずなのです。
【悪徳受領藤原文信の残忍性】
藤原文信は一条天皇の父親であった円融法皇が後ろ盾にいたことで藤原元命の後任尾張守に選ばれましたが、そしてまた藤原文信は藤原元命と同じく不正を行っていたようです。
安倍正国は藤原文信の不正を握ったということで両親や兄弟、姉妹などの家族を皆殺しにされたようです。「小右記」によると、安倍正国は復讐を誓い藤原文信を狙って負傷させますが、基本的には不発に終わり、安倍正国は捕獲されたのです。正国は身柄を引き取られた時には、両手の指を切断され、脚をへし折られていたらしいのです。正国の重症を負わせたのは、そこに居合わせた藤原文信の郎等たちの仕業だったであったのでしょう。王朝時代の悪徳受領たちの隠し持った残虐性が「小右記」に余すことなく記されているように思われます。この後、藤原文信が再び復讐者に生命を狙われたという記録はありません。藤原文信の残酷な逆襲は、正国につづく人々に効果的な見せしめとなったはずなのでした。
上記のような平安貴族の悪行には驚くばかりです。平安貴族は、「税務署」と「警察署」と「やくざ」の権力が一体となったような組織です。任侠の世界に生きていた「やくざ」さんにはいっしょにするなと怒られるかもしれませんね。平安貴族すなわち朝廷は藤原氏が作り上げた組織、支配した集団です。
それでは朝廷=藤原氏は平安貴族の悪行をなぜ見逃していたのでしょうか。受領国司から朝廷=藤原氏に対して上納があったのは誰もが想像がつくでしょう。朝廷=藤原氏にしてみれば、取り締まれば上納が少なくなるので、取り締まるはずがないわけです。悪行を尽くしてでもたくさん上納してもらう方が、メリットがあるということになります。
平安時代、朝廷を支配していたのは藤原氏や貴族たちが、自分たち集団のためなら人を殺しても、指を落としても、脚をへし折っても、どこまでも収奪するというような悪行を平気で行えたというのは、日本的縄文体質からはありえないことではないでしょうか。藤原氏は、朝鮮(百済)から来たと考えるとすっきりしてきます。
日本人の縄文的気質については、るいネットの[10/30なんでや劇場4 民の「お上捨象」とお上の「民の生活第一」という日本人の特異な体質]から紹介(一部引用)します。
奈良・平安時代から日本の庶民たちは支配階級のことはどうでもよいと捨象してきた。
日本の庶民は縄文体質(受け入れ体質)であるが、長年中国に服属することでその地位を保ってきた朝鮮の支配階級は悪しき力の原理が骨身に染み付いており、上にはとことん隷従し下にはとことん横暴に振舞うという最悪の支配体質であった。その後の朝鮮における両班と呼ばれる支配階級が中国や朝鮮国王には屈従する一方で、大衆からはエゲツナイ収奪を繰り返したことからもそれは伺える。
悪しき力の原理主義者である朝鮮発の支配者と縄文人の体質は水と油である。従って、縄文人は朝鮮から渡来してきた支配者を表面上は「お上」として奉りながら、心の底では「自分たちとは無関係なもの」として捨象してきた。つまり、日本人のお上意識とは正確には、お上を捨象する意識なのである。
「藤原氏の正体」関裕二 著書 (るいネットで内容紹介)で、藤原氏(中臣鎌足は豊璋嘩である)は朝鮮(百済)から来たと紹介されています。
■るいネット: 中臣鎌足は百済王という証拠が出てくる。日本へは名前を変えて登場する 今井勝行
■るいネット:日本書紀も中臣鎌足の存在を示せば示すほど、矛盾は深まってゆく。 今井勝行