新概念を学ぶ6 雌雄に役割分化した方が、みんな(種や集団)が充足(適応)できる
これまでは、生物は雌雄の役割分化が安定と変異の軸上で、性の差別化を拡大する方向で進化してきたことや、その安定と変異をつくりだす生命の仕組みについて学んできました。
過去の投稿はこちら
新概念を学ぶ1 可能性への収束=統合(内圧=外圧、逆境こそ進化の源泉)
新概念を学ぶ2 生物はより高い適応を求めて進化する
新概念を学ぶ3 生物は、種として適応するための成功体験の塊(塗り重ね構造体)である
新概念を学ぶ4 雌雄に分化は適応可能性を増大させ、生物の急速な進化を可能にした
新概念を学ぶ5 生物の進化は安定と変異の両立によって成し遂げられた
今回はその進化の最先端にいる私たち人類の男女関係について、『実現論』「第一部 前史 ロ.雌雄の役割分化」を引用しながら、学んで行きます。
事実、この系統の生物は雌雄の差別化をより推進してゆく方向で進化してきた。それは、雌雄が同じ役割のままでいるよりも、安定性の求められる生殖過程はメス、危険性の高い闘争過程はオスという風に役割分担を進めた方が、より種としての環境適応が高くなるからである。例えば脊椎動物の系統では、魚のメスは卵を産み落とすだけで子育てなどしないが、爬虫類になると卵を温めて孵化させる種が現れ、更に哺乳類になると胎内保育をし、その上かなり長期間子育てに携わる様になる。
つまり、進化するにつれてメスの生殖負担がどんどん大きくなってゆき、そのぶん闘争負担は小さくなってゆく。他方のオスは、それにつれて生殖負担が小さくなり、そのぶん闘争負担が大きくなってゆく。
例えば哺乳類は、一般に内雌外雄の集団編成を取っているが、これは外敵には闘争存在たるオスが対応し、その集団(オスたち)に守られて生殖存在たるメスと子供が存在するという、外圧に対する二段編成の構造(=同心円の構造)である。だから、オスが子育てをする哺乳類など、殆どいない。
この様に、哺乳類は(自然界でも一般には)メスが生殖過程を主要に担い、オスが闘争過程を主要に担うことによって、メスとオスが調和し、種としてのバランスを保っている。それが、オスとメスを貫く自然の摂理である。
(現在、男女同権論者たちは「男と女の役割分担は、社会によって作られた悪習である」と主張しているが、それは生物史の事実に反する嘘であって、上述した様に人類が登場する遥か以前から、オス・メスの役割分化は進んでいる。それは数億年に及ぶ進化の塗り重ねの上に成り立っており、たかが近代二〇〇年しか通用しないイイ加減な理屈で変わる様なものではない。人間は、自然の摂理を冒涜してはならない。その意味で、男女同権論に惑わされた現代の男女が、差別化という進化のベクトルに逆行して中性化しているのは、種にとって極めて危険な状態である。)
生物進化の歴史は、オスとメスが分化し、それぞれが違う役割を担うことで、助け合い高度化してきた歴史でした。その生物史の頂点にいるのが人類です。男女同権論が生物史の事実に反するのだとすると、人類の男女関係はどうしたら互いに助け合い、高め合い、充足出来る関係になるのでしょうか。可能性を感じる投稿を集めてみました。
①生物進化を踏まえた男女の分化と統合
まず、生物進化の中で人類の男女はどのように進化してきたか整理してみます。雌は安定と言う軸上で進化し、生殖存在から、充足存在へと進化しました。雄は変異と言う軸上で進化し、外圧適応をになう存在から、闘争存在へと進化しました。そして、お互いに違う存在だからこそ、互いに必要とし統合されるのです。
■女の「充足役割」とは何か?
そもそも何故、女は充足存在なのか?生物史上、雌が「生殖存在」として進化してきたことから来ていると思います。
また、猿や人類のように群をつくり高度な子育てを行う=より生殖負担の重い種では、雌自身の意識状態も安定していることが重要になります。だから、雌は常に充足状態に自らの身を置くべく本能・共認回路のアンテナを磨き、順応性や肯定性、或いは「自分自身が充足することで周りにも充足を与える」という“充足の能力”を発達させてきたのではないかと思います。
■雌雄分化における統合
オス・メス分化における統合の仕組みは、オス・メスが相互に惹きあう事によってそれは成立しています。分化という差異化=遠心力の形成に対して、相互に惹きあう(という仕組みを作る)ことによって求心力をつくり、統合しているといっていいと思います。
②未開民族に見られる、男女の充足関係
未開民族の男女関係では、生物進化の軸上にある自然な男女の役割を、お互いに誇りとし、お互いに尊敬しあって、助け合っています。男女同権をもとめていがみ合う現代の男女関係より、よほど充足出来る関係ではないでしょうか。
■【インデックス】男と女の新しいカタチ☆①~ナイショブログで男と女の教科書を追求中♪~
今まで男と女の追求を体系化したものがなかったので、充足イメージたっぷりな性の教科書がほしいね☆ということで、男と女のナイショ話リンクの『男と女の新しいカタチ』シリーズにて追求してきました。シリーズ佳境に差し掛かり、一旦整理してインデックス+気づきや概略・オススメポイントをまとめました\(^o^)/
■ネイティブアメリカンに見る「女性への賛歌」
ネイティブの社会において女性は「尊敬」されている。それゆえに女性は女性としての価値を知り、その役割の重要性を認識している、「自らの務め」を知っている。
私権社会において女性は商品として「評価」されている。それゆえに女性は個人としての価値にのみ関心があり、その価値を高めるため、より広い「自らの権利」を主張する。
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■エスキモー族に見る性関係
彼等の中で、権力者と呼ばれる者の尺度は女性で決まっていた。つまり、女性を通じて人を動かす影響力を持っている者がそれに値した。彼等にとって結婚とは、愛や恋とは無関係のものであった。女は、狩りに出て獲物をとり、舟を作り、犬の世話をする男を必要とし、男は、皮をなめし、肉を貯蔵し、炊事をし、衣服を作る女を必要とした。男と女は、担当する仕事の種類こそ異なれ、同様に働く意義は家族の充足にあった。
③男女同権を超えた男女関係
そして、近代の不自然な男女同権思想を見直して、現代における男女の役割を創出しようという動きが始まっています。充足存在としての女性の役割も、闘争存在としての男性の役割も、未開民族と現代人では違って来ます。近代の男女平等は男女関係を破壊する行為でした。新しい男女関係を創造することとは、現代の男女が自然に充足できる互いの役割を明らかにする事なのです。
■女性の社会進出
平塚雷鳥の女性運動は、男女同権を求めるものでも、女性の権利を主張するものでもなかった。私権時代に抑圧されてきた女としての役割を、社会においてまっとうに果たしたいという思いが根底にあった。『 ~前略~ 無暗に男性を羨み、男性に真似て、彼等の歩んだ同じ道を少し遅れて歩もうとする女性を、私は見たくない。 ~中略~ 然らば私の希う真の自由とは解放とは何だろう。潜める天才を、偉大なる潜在能力を十二分に発揮させる事に外ならぬ。 ~後略~ 』
■同権より能力拡大
“男”“女”という性別は、ただの属性なんかじゃなく、生物の遺伝子にすでに組み込まれた能力なんだから、むしろ「これを活かさなくてどうする」って思います。 「天性の才能は伸ばしたらいいんじゃない?」って素朴に思ってます。
■“同権”でなく“同一視”が男女関係の根幹
エゴを排した男女関係にはもうひとつの可能性も開けています。互いの同一視を土台にした共感関係です。男女同権やジェンダーフリーが常に男女の“差”を取り上げて“対等”でなければならないと主張してきたのに対し、同一視は相手と自分を重ね合わせて喜びや悲しみ、感謝の気持ちなどの人間感情の共有を土台にして各々の期待に応えようとするものです。
■男女の特性を認識しているから勝てる
「男女平等」の考えは最近では薄れてきたようです。むしろ、男女の役割は違うものと感じている人が増えてきました。類グループでは、全社員が「男女の役割を明確に分けた方がうまくいく」と本気で考えており、それを既に実践しています。それは、サル社会や生物史の追求を通じて、「闘争存在である男と充足存在である女の役割」を明確にすることができたからです。だから類グループは、逸早くそれぞれの特性を最大限に活かせているのです!それが社員の活力の高さに繋がっています。
④まとめ
このように、未開部族の事例でも現代の男女関係の事例でも、男女の役割分担を共認し、それによって当人はもとよりみんなが充足しています。男女の役割を肯定した方が充足するのは、何故でしょうか?
これまで、生物の起源から現代の男女関係まで、雌雄分化の歴史と未来を展望してきましたが、忘れてはならない重要な視点があります。種や集団が外圧に適応するために、生命は雌雄に分化し男女へと進化してきたということです。逆に言うと、雌雄・男女の役割分化という自然の摂理に則った方が、集団や社会のみんなが適応できる、充足できるということです。実際、未開部族の事例も現代の事例も共通するのは集団(みんな)第一で、集団が外圧に適応するために男女の役割を共認しているからこそ充足しているのです。
それに対して、男女同権論は「個人が原点」を前提にしています。「個人が原点だから性的役割などどうでもよい」ということです。しかし、雌雄分化をはじめとして、生物は全て種や集団を原点として進化してきたのであって、生物史上、個体が原点であったという事実はどこにも存在しません。それでは、みんなが適応・充足できるはずがありません。それに対して、集団(みんな)第一で、雌雄の役割分化という自然の摂理に則った方が、みんなが適応できる、充足できるということを上記の事例は教えてくれているのです。
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