魔術から近代科学へ12 十字軍侵略とアリストテレス翻訳を先導した主勢力(ノルマン人+クリュニー修道会+イタリア商業都市)
「キリスト教の欲望否定(封鎖)から欲望肯定(刺激)へパラダイム転換が近代思想と近代科学を生み出した」
その契機となっているのは、
【1】11世紀から始まる西欧による外部世界の侵略活動(十字軍やレコンキスタ)と、
【2】ほぼ同時期に始まる古代ギリシア文献、とりわけアリストテレスの翻訳運動である。
そして、侵略活動と翻訳運動は連動していると考えられる。
今回は、11~13世紀のヨーロッパにおいて、なぜ外部侵略が始まり、同時にアリストテレスの翻訳運動が始まったのかを考察する。
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まず、当時の社会背景から紹介する。
山本義隆著『磁力と重力の発見』(みすず書房刊)「中世社会の転機と磁石の指向性の発見」から引用する。
1.中世社会の転換
魔術的とも呪術的ともいうべき色彩のまとわりついていた中世ヨーロッパ人の磁力理解は、十三世紀に大きな大転換をむかえる。その転機は、ドミニコ会修道トマス・アクィナス、「磁気書簡」を著したペトロス・ペレグリヌス、そのペトロスを師と仰ぎ「経験学」の創始者と称されるフランチェスコ会修道士ロジャー・ベーコンの三人に代表される。彼らが活躍したのはいずれも13世紀後半、とりわけ1260年代末である。
トマス・アクィナス
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ロジャー・ベーコン
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この時代にこの三人が文字通り踵を接して登場した背景には、ヨーロッパ社会が大きな変わり目にさしかかっていたということがある。磁気認識に注目すると、航海用コンパス(磁気羅針儀)の使用の始まりが磁気のそれまで知られていなかった性質を明らかにしたことが挙げられる。新しく発見された磁石と磁針の指向性(指北・指南性)のは北極星ないし天の極が磁石に力を及ぼしていると考えられた。その影響は極めて大きい。
社会的変動から歴史をみると、外部世界との関係で言えば、8世紀以降イスラーム教徒の支配下にあったイベリア半島のレコンキスタ(再征服運動)において、スペインがコルドバとセヴァリを略奪(1236年と48年)、同様にシチリアとナポリの王国をアンジュウ伯シャルル(ルイ9世の弟)が乗っ取った(1266年)。こうして13世紀中期にはイベリア半島の大部分がキリスト教に確保され、現在の私たちが理解するヨーロッパの輪郭が浮かび上がりつつあった。
他方、ギヨーム・デ・リュブリュクがモンゴルに赴き帰国し(1245年と55年)、マルコ・ポーロ(1254-1324)が父とともに中国に旅立つ(1271年)など、ヨーロッパ人がそれまで知らなかった東方世界と接触しはじめた時代でもある。
そして、内的にはパリに高等法院が設立され(1250年頃)、イギリスで議会が成立し(1265年)、近代国家の機構がすこしずつ姿を見せ始めている。この世紀が終わる頃には「人々が帰属意識として、教会共同体にかわってしだいに国家が登場してきた」と言われ、ヨーロッパ世界全体が新しい相に入り始めた時代と言える。
実際これに先立つほぼ2世紀の間、ヨーロッパは大きな変動を経験してきた。12世紀後半の英仏の王権強化に加え、「中世における産業革命」とも言うべき技術的発展、イスラームおよびビザンツ世界との接触による古代ギリシャの科学と哲学の発見であった。
技術面では、水車の使用の増加・拡大が見られる。特に、農業における技術革新が著しく、農機具の改良や鉄製農機具の登場、とくにアルプス以北の湿気の多い気候と重い土質に適した馬の農耕への使用拡大、11世紀以降はで二圃制度から三圃制度への切り替え、比較的安定した高温の気候によって、生産性が大きく向上した。そのうえ開墾と干拓による農地の拡大も進み、11世紀中葉から14世紀初頭(とくに13世紀)にかけて人口も飛躍的に増加する。
11世紀から13世紀にかけてヨーロッパにおいては産業革命と農業革命がすすめられたのであり、それは都市の形成と発展を促すことになった。すなわち、農業生産性が飛躍的に向上した結果、自給自足経済から余剰生産物の交換経済への移行が始まり、都市が建設され重要な役割をはたすようになっていった。こうしてヨーロッパは11世紀から13世紀にかけて空前の都市化が進み、13世紀には全人口の約1割が都市に集中していたと言われる。
この傾向は13世紀に入るといっそう顕著になり、フランスでは、都市に住む人口が増加するとともにその活動領域が広まっていった。これに加え、王は中央集権を強めるために支配気候内部に都市市民のエリートを登用し、知識階層として官僚層が生み出されていった。さらに、王権は力をつけた町人階級との結びつきを強化し、その見返りとして都市自治体の発展を支援し、都市にいくつもの特権をあたえた。
ドイツにおいても1190年にはじめて都市自治体が誕生し、以降、都市化の波は13世紀中つづいた。かくして12世紀から13世紀にかけてヨーロッパには、従来の三身分に関わらず、都市を生活基盤とする官僚や商人や製造業者(将来のブルジョアジー)がその存在を主張しはじめたのである。そして彼らは商業的目的からであったが読み書きを学び、聖職者だけが文字文化の担い手であった時代が終わる。
都市の発展に並行して、12世紀にはパリをはじめ、これまでにない教育機関として大学が登場する。これらの大学は、当初「学生と教師の組合」として発足したが、13世紀なかばまでにその組織を確立させていった。特筆すべきこととしては、それまでの修道院と異なる、都市を活動基盤として、世俗社会と積極的にかかわりを求めるフランチェスコ会(1209年)とドミニコ会(1216年)のような托鉢修道会の創設が挙げられる。高度な学問研究を重視したことによって、生まれたばかりの大学に有用な人材を供給することになる。以上がトマスやペレグリヌスやベーコン登場の社会的背景である。
そして12世紀以降、古代ギリシア文献、とりわけアリストテレスの翻訳活動が活発化する。
2.古代哲学の発見と翻訳
知的・思想的な面では、ヨーロッパ人の自然の見方と自然に接する姿勢を転換させた決定的な契機は、先進的イスラーム社会にヨーロッパ人が接触し、イスラームの学問とともにアリストテレスの諸著作を発見したことである。中世におけるヨーロッパのイスラーム社会との接触といえば、私たちは十字軍を連想しがちであるが、1154年にロジェー2世がアル・イドリーシーに実証的な地理学の「ロジェー王の書」を編著させ、カスティリアとアルフォソン10世が天文学者に「アルフォソン表」を作成したことが象徴しているように、十字軍運動の喧騒とは別のところで多くのことを学んできた。
イスラーム科学の先進性をいち早く認めて、その吸収と移植に尽力したのは、ジェルベール(後の法王シルヴェスデル2世)であった。10世紀半ばに貧しい農民の子としてうまれたジェルベールは、修道院に入り教育を受けた。その後967年から3年間、彼はカタロニアの修道院でさらに学習を続け、数学と天文学と音楽を学び、イスラームの科学に接した。その後、ローマ法王に認められ、ランス大司教座聖堂付属学校の校長、999年にはフランス人で初めて教皇の座につき、1003年教皇シルヴェステル2世として死んだ。
彼は、正統信仰の徒でありながら「神は人間に大いなる賜物を授けたもうた。信仰を与えたまい、同時に学術も禁じたまわなかったからである」と語り、信仰と理性を結合しようと望んだ。科学におけるジェルベールの貢献は、イスラームの天文学と数学をヨーロッパに紹介したことにある。
彼は、天文学では、イスラームに伝えられていたプトレマイオス天文学を学び、それにもとづき精巧な天球儀を作成した。数学では、それまで扱いにくいラテン数学にかわって、アラビア数学表記法を導入し、「アバクス」とよばれる古代の計算盤をヨーロッパに復活させたとも言われる。
もう一人の先駆者は、ヨーロッパ最大の修道院クリュニーの院長に若くして就任した尊者ピエールであった。彼は西欧が文化と情報の量で圧倒的に劣っていることを自覚し、ギリシャやイスラームの文献を購入し、翻訳者を集め、紹介作業に努めた。「コーラン」のはじめてのラテン語訳も彼のもとでなされた(1143年)。
その翻訳者の一人、チェスターのロバートは、「代数学」を訳し、ヨーロッパにこの学問の名称と方法を伝えたことでも知られている。
もちろんこのような人たちが現れたことは、現実にイスラーム社会との接触・交通が存在していたイベリア半島、シチリア半島においてであった。
11世紀以降、西欧は外部侵略へ向かう。一つはイスラム世界へ(十字軍)。二つ目は東ヨーロッパへ(奴隷狩り)。三つ目はイベリア半島へ(レコンキスタ)。
その主勢力は、ノルマン人とクリュニー修道会とイタリア商業都市(初期はジェノヴァとピサ)である。
とりわけ、11世紀中ごろにイングランドと仏ノルマンディー、南イタリアとシチリア島を征服したノルマン人が、西欧が外部侵略を始める契機になっている。
再び、山本義隆著『磁力と重力の発見』(みすず書房刊)「中世社会の転機と磁石の指向性の発見」から引用する。
イベリア半島においては、イスラーム教徒が713年に西ゴート王国を滅ぼして以降1492年にグラナダが陥落するまでイスラームスペイン社会が存続した。同様にシチリアは、西ローマ帝国崩壊後の一時期、東ゴート王国の支配下にはいり、その後三世紀に及ぶビザンチン支配ののち、902年にアラブ人に征服され、以来11世紀後半にノルマン人によって再征服されるまで、イスラーム教徒の統治下にあった。
その結果、イベリア半島やシチリアは経済的にも文化的にもヨーロッパをはるかに凌駕することになる。実際、アラブ人は、イベリア半島においてもシチリアにおいても農業生産性を飛躍的に高めることに成功し、鉱山の開発、養鶏や馬の育種、絹織物の生産にのりだし、9・10世紀にはイスラーム教徒はパレルモを中心として地中海の海運を完全に制圧した。こうしてパレルモとコルドバは大都市に成長し、両都市は10世紀には人口30万を擁したと言われる。当時のラテン・ヨーロッパ最大の都市といわれるパリやローマでさえ、この足下にも及ばない。
著しいのはその豊かさだけではなく、専門家によれば「イスラームに征服されても、キリスト教教会はそこでの市民権、信徒たちへの精神的指導者としての立場を保持し、また資産についても保持・獲得したり寄進を受けることができた。教理・信仰・教会規約などについて、ムスリムがキリスト教は、奴隷で無い限り、イスラーム世界でも異教徒の国でも、完全に自由に移動できた」とある。だからこそ、ジェルベールがイスラーム支配下のイベリア半島で学ぶことができたのであろう。
もともと遊牧の民であったアラブ人が、七世紀以降に大規模な征服活動を展開して拡大し、経済、文化ともに急速に成長をとげたのは、征服した異教徒にたいして宗教的にも寛容である上、積極的にその文化や技術を学習し自分のものとしていったからであった。イスラーム社会は、ビザンチン経由でギリシャの哲学、医学、その他の学問を、インド文明からは数学、天文学を学び、翻訳をすすめた。こうして、ラテン世界では見失われていたギリシャの哲学や科学が、イスラーム社会では大切に保存され熱心に研究されていた。
ヨーロッパ人のイスラーム文化との接触と、それを介しての古代文明の再発見はイベリア半島とシチリア半島の再征服を機に本格化する。1031年の後ウマイヤ王朝の崩壊により、1085年のアルフォソン6世によるトレドの攻略によって、半島のほぼ北半分がキリスト教に明け渡された。こうして、イスラーム、キリスト、ユダヤ文化の交錯するトポスが出現した。
他方シチリアでは、ノルマン人の一旗組がイスラーム教徒の支配を打ち倒した。彼らがシチリア攻略に乗り出したのは1061年、「ノルマン・コンクエスト」の直前であり、シチリア全島を制圧したのは1091年である。ノルマン人頭目ロベール・ギスカールとロジェーの兄弟が1072年にパレルモを征服したとき、彼らは賢明にも異教徒・異民族の宥和をはかった。その政策は、ギヨーム1世・同2世と王位が継承されて以降も変わることはなかった。
1142年のヨーロッパの状勢
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ノルマン人支配下のシチリアではラテン、ギリシャ、アラビア語が公用語に使われ、西暦とアラビア暦が併用され、ローマ法、コーラン、ノルマンの習慣法が尊重されていた。行政の中核はアラブ人、ギリシャ人が占め、国軍の主力はイスラーム教徒の部隊であった言われる。これを「トレランス(宗教上の寛容)」とも解釈できるが、それだけでなく、経済活動の中核をアラブ人に握られていたという現実的な打算も働いていたと予測される。なぜなら、大商業都市を経営していくにはアラブ人に依拠しなければならず、教皇を完全に信用していない彼らにとってイスラームの軍事力を配下におくことはどうしても必要であったからだ。したがって、宗教上の寛容ではなく、強力な王権がアラブ人を必要とし、彼らに対する攻撃を制御するためといったほうが正しい。
●ノルマン人とイタリア商業都市国家の結託
ノルマン人は東欧で奴隷狩りをした。それがヨーロッパからイスラムへの主要な輸出品だった。ノルマン人が狩ってきた奴隷を売買していたのがイタリアの商業都市国家、とりわけジェノヴァである。
また、イタリアの商業都市国家はノルマンの力を借りてイタリア内のイスラム勢力を駆逐する。1086年ノルマンによる南イタリアとシチリア征服によって、イスラムの支配は終わり、ピサとジェノヴァはティレニア海から外に出る航路を確保する。
そして、第一回十字軍の主力は南イタリア・シチリアのノルマン人とフランス人(その中心はフランス系ノルマン人か?)であり、第一回十字軍に協力したのがジェノヴァとピサであり、その見返りにジェノヴァとピサは十字軍征服地における特権を手にしている。
このように、侵略者ノルマン人とイタリアの商業都市国家が結託して、十字軍や東欧侵略を進めたのである。
シチリア王国
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●ノルマンとキリスト教好戦派クリュニー修道会の結託
十字軍やイベリア半島のイスラム駆逐(レコンキスタ)を進めた勢力はもう一つある。キリスト教勢力、とりわけクリュニー修道会である。
ノルマン人は征服地であるイングランド支配のために教会のお墨付きを必要としていた。そこでクリュニー修道会と結託し、クリュニー修道会はノルマン・コンクェストを支援した。
イタリアでは、教皇ベネディクトゥス8世(在位1012~1024年)は、ノルマン人と同盟を結んでイスラム勢力をイタリアから駆逐しようとしたが、ベネディクトゥス8世を援助したのがクリュニー修道会である。
ノルマン人とクリュニー修道会は利害が一致していたのである。
そして、イベリア半島のイスラム勢力駆逐戦争(レコンキスタ)を奨励したのがクリュニー修道会であり、十字軍を始めた教皇ウルバヌスⅡ世もクリュニー修道院長を勤めている。ウルバヌスⅡ世が集めた第一回十字軍の主力は、南イタリア・シチリアのノルマン人とフランス人(その中心はフランス系ノルマン人か?)
★このように、11世紀から始まる西欧の侵略活動(十字軍・レコンキスタ・東欧侵略)の主勢力は、ノルマン人-イタリア商業都市国家-キリスト教会(クリュニー修道会)の3者連合である。
イスラムの武力に拮抗し得るノルマンの武力を手に入れたことによって、大々的な侵略活動が開始されたということだろう。
言い換えれば、ノルマンの武力と、イタリア商業都市の資本力、クリュニー修道会の観念支配力が結託して、十字軍やレコンキスタや東欧への侵略を開始したのである。
●古代ギリシアのアリストテレスの翻訳運動を推し進めたのも、この勢力、ノルマン+クリュニー修道会+イタリア商業都市の三者連合である。
例えば、クリュニー修道会の院長ピエールは、大金をはたいてギリシアやイスラムの文献を購入し、翻訳者を集めて、紹介作業に努めた。
シチリアのパレルモで育ったロジェー2世(シチリア・ノルマン王朝の初代の王)はたくみな外交によってシチリアを安定させ、西ヨーロッパで最も豊かな王国が出現した。彼は、学問を愛好する教養人であり、イスラーム世界から数多くの学者を呼び寄せる。パレルモは、キリスト、ビザンツ、イスラーム文化の融合するヨーロッパ随一の国際都市となった。
こうして、11世紀から12世紀にかけてヨーロッパ人は高度なイスラーム文化とともに古代ギリシャの哲学と科学の圧倒的な遺産に出会った。イスラームの文化や技術とともにギリシャの学問的水準の高さを知り、ラテン語への翻訳にきそって取り組んだ。12世紀初頭に始まるこの翻訳運動は13世紀中期まで継続される。こうして1260年代にいたるまでのほぼ150年間にアリストテレスをはじめギリシャの科学と哲学の大部分がアラビア語ないしギリシャ語語原典からラテン語に翻訳された。
そうしてこの古代ギリシャとイスラームの高水準の学問と思想の流入がその後の西欧における科学の発展の基盤を形成することになる。また、大学とは膨大な量にのぼる新知識を西ヨーロッパが組織し、吸収し、拡充するたての制度的な方策であり、共通の知的財産を形成し、世間に広めるための道具だった。しかし、そのことは中世の大学が科学を観測や実験からではなく、もっぱら書物から学んだことを意味し、やがて科学のさらなる進歩と発展にとって桎梏と化していくことになる。
教会支配から支配権を奪取し、近代国家(金貸し支配国家)への移行を推し進めたのも、この勢力だと考えられる。
実際、ノルマンの初代シチリア国王の孫であるフリードリヒⅡ世は、神聖ローマ皇帝とシチリアとナポリ国王、エルサレムの王位を兼ねるという強大な権力を手にするが、彼がやったことは、15世紀イギリスや16世紀フランスの絶対王政に先んじること300年前に、最初の絶対王政を実現している。さらに教会の息のかからない国立大学ナポリ大学を創設したのも、フリードリヒⅡ世である。
●なぜ、彼らはアリストテレスの翻訳運動をやったのか?
【1】クリュニー修道会の院長ピエールは、その翻訳活動の動機として「イスラムの汚らわしき謬説を暴き出すことによって、理論的・思想的にイスラムに勝利するためである」と記している。つまり、イスラム侵略の正当化が第一の動機であろう。
【2】当時の西欧に比べて圧倒的に豊かなイスラム世界を目の当たりにして、富国強兵を図ってイスラムに勝つために、イスラムやイスラムが翻訳した古代ギリシアの文献を吸収しようとしたのであろう。
実際、それまで欲望封鎖で比較的平和だったヨーロッパが、11世紀後半から欲望肯定→富国強兵・侵略路線に転換している。そして、その200年後にイタリアルネサンスが始まる。
欲望封鎖のキリスト教が観念支配する中で、ノルマン+イタリア商業都市は、欲望肯定→富国強兵・侵略の正当化観念を求めていた。それに応えて侵略を正当化したのがクリュニー修道会である。
また、欲望肯定観念の一つが恋愛観念であるが、欲望肯定するだけでは欲望は充たされない。
欲望を実現するには富国強兵が必要で、そのために自然認識が必要になる。
ところが、キリスト教は徹底した欲望否定・現実否定思想であるが故に自然認識は欠落させている。
富国強兵のために欠落した自然認識を獲得するために、アリストテレスの翻訳に励んだのだと考えられる。
まとめると、十字軍をはじめとする外部侵略を進めた主勢力はノルマン+イタリア商業都市+クリュニー修道会の三者連合であり、彼らが欲望肯定を正当化し、富国強兵→侵略を実現するために古代ギリシア文献(アリストテレス)の翻訳に躍起になったのである。
これが、「キリスト教の欲望否定(封鎖)から欲望肯定(刺激)へパラダイム転換が近代思想と近代科学を生み出した」契機であろう。
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コメント8件
みるる | 2013.06.25 9:43
うちの舅は肺癌で片肺摘出しました
その後再発はないようなのですが
少しの運動で息切れをするようになりました
好きな釣りも出来ないと泣き出すこの頃です
癌摘出が良かったのか悪かったのか悩むそうです
そして自分の親しい人が次々に死んでいく(82歳だから当たり前ですが)
孤独感じわじわです
読売新聞朝刊24日の人生案内に
85歳の老婦人からの相談が掲載されております
「自然に逝きたい」
麻生さんの過去の発言を思い出しました
延命よりも自然に逝きたい
尊厳死を望むのですね
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honyarara | 2013.06.23 22:29
初めまして、ためになる記事を有難うございました。
良く理解出来たつもりでいますが、実は私はリウマチです。
つまり免疫不全症候群で、免疫力をあげるとリウマチ悪化してしまうという困った状態が起きてしまうのです。
ガンのリスクか、リウマチで苦しむかという二者択一で、
今後もどのような治療がベストか悩むところです。