魔術から近代科学へ8~キリスト教の欲望否定(封鎖)から欲望肯定(刺激)へパラダイム転換が近代思想と近代科学を生み出した~
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前回(近代科学の成立過程20~~に引き続き今回は山本義隆氏の『十六世紀文化革命』から「第4章 中世キリスト教世界」の部分を要約投稿します。
ローマ社会において、その語のキリスト教における磁石と磁力に対する姿勢、ひいては、自然力一般の理解の原型がほぼすべて形成されることになった。
第一に、磁石の働きを生物になぞらえて見る生物態的視点、第二に、磁石には物理的な作用があるだけでなく生理的な作用さらには超自然的な能力が備わっているという想念の普及、そして、第三に、自然万有のあいだの共感と反感の網の目でもって自然の働きが成り立っているという自然観の形成である。
そのローマ社会で形成された理解の原型がキリスト教世界ではどのように扱われたのかを見ていきたいと思います。
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第4章 中世キリスト教世界
1.アウグスティヌスと「神の国」
ロ-マに帝政が成立した時代にローマ属州になっていたヨルダン川のほとりのユダヤ人社会に弧々の声をあげたキリスト教は、やがて地中海沿岸一帯に広まっていった。ローマではキリスト教は、当初は下層の民衆のあいだで支持を広げていたが、権力からの迫害を耐えぬき、ローマ帝国の弱体化とともに社会の上層部にも支持者を独得してゆき、313年、コンスタンティヌス帝の時代に公認され、ついに380年、テオドシウス帝の時代に軍事国家ローマの国教となった。
当初、虐げられ蔑まれていた属州の民や奴隷や下層階級がキリスト教に救いを求めたように、滅亡の予感にうち震える末期のローマ帝国の支配層がキリスト教に社会秩序維持の手段を求めたと言えるであろう。
こうしてキリスト教社会が成立し、ヨーロッパ中世が始まる。その時代のキリスト教世界きってのイデオローグであったのが、北アフリカに生まれヒッポの司教になったアウグスティヌスであった。彼の思想はその後の中世思想の進路を決定し、一千年近くにわたってヨーロッパ人の精神にすくなくとも外面的には影響を及ぼしつづけたのであった。
アウグスティヌスは、プラトンのイデア界と天にある神の国を同一視し、現実の自然界と人間界をその下にある邪悪に満ちた世界と見なし、それゆえ自然研究を聖書研究の下位に置いた。その彼が異教徒を論破する目的で晩年に全精力を傾注して書きあげたのが「神の国」である。
彼が「神の国」を起筆したのは59歳のとき、西ゴートの王アラリックがローマを陥れ、神がローマを見放したか異教の神々がローマに復讐したかと思われた3年後の413年であり、全22巻を筆したのは実にその13年後であった。西口ーマ帝国滅亡の50年前であり、帝国はすでに「死に体」同然であった。
その所説は、都が蛮族に踏みにじられ帝国が滅ぼされようとも、そのことはキリスト教の神の不在や異数の神の勝利を証明するものではない、地上の国の盛衰に神はかかわらないし、もともと神の国は地上にはない、天上の神の国を信じなさい、ということに尽きている。
アウグスティヌはプリニウスとちがって磁気力と電気力が別物であるということはかなり明瞭に認識されていたようである。しかしこの点をのぞけば、事実認識としてはアウグスティヌスの議論はプリニウスをほとんど越えてはいない。両者の違いは、ただもっぱら磁石や琉柏に見られる不思議や驚異を人はどのように受けとめ、いかなる態度をとるべきかにある。
奇蹟や自然の不思議は神の啓示であり神の偉大さの顕現であり、有限で脆弱な人間精神のなすべきことは、その理由を解き明かすことではない。人間には、自然に示される神の救済の意志を読み取ることだけが許されるのである。ここには、磁石の力や鉄の磁化といった不思議にたいして合理的で理解可能な「説明」を求めようとする姿勢は端から見られない。それどころか、このような自然の不思議にたいして理由を求める心-現代風に言うならば「知的好奇心」―それ自体が、肉体的欲望と同類の忌むべき克己すべき欲求に他ならないと見なされているのである。
こうなると、研究それ自体のための自然研究というのは信仰と別ものというだけではなく、むしろ積極的に信仰に反することになる。
「告白」においてアウグスティヌスは「私は星の遅行を知ろうとは思わない」と表白しているが、現実に多くのキリスト教知識人のあいだでは、プトレマイオス天文学すら知られず、聖書や『ティマイオス』にもとづく稚拙な宇宙論が語り継がれていたのである。
2.自然物にそなわる「力」
このアウグスティヌスの思想は、中世の全期間をつうじて、ヨーロッパのとくに知的階層に絶大な影響を及ぼすことになった。不思議を不思議なままに受け容れよ、それ以上の穿撃は信仰に反するという、無知への居直りにたいしてアウグスティヌスの与えた容認、むしろ積極的な御墨付きは、表面的には自然研究をほぼ一千年の長丁場にわたってストップさせることになり、13世紀にいたるまで、ヨーロッパでは磁石と磁力についての合理的な認識はほとんど前進しなかったのである。
しかしそのことは、磁力への関心そのものを窒息させたわけではない。なるほどアウグスティヌスが「目の欲」と語ったそれ自体のためにする自然研究のようなものははとんど見られないが、自然の働きを知ろうとする衝動はつねに存在していた。そして自然物のそれぞれが物理的な力や生理的な作用だけではなく超自然的な働きをも有しているという古代以来の自然観は、中世をとおして語り継がれたばかりか、強められさえしたのである。
こうしてオリエントやローマ伝来のいくつもの奇怪な話が権威づけられ、後々まで語り継がれることになった。それにしても、磁石は婦人の不貞を見破り、ダイヤがその磁力を妨げ、そしてヤギの血がそのダイヤを破壊するというような自然物間の奇怪な関連―共感と反感―が、当代屈指の知識人たちを含んで一千年もあいだ信じられてきたというのは、現代人の感覚からすればかなり驚くべきことである。しかしアウグスティヌスを含めて当時の人々にとっては、それらは磁石が鉄を引き寄せるのと同次元の事実と見なされていた。
中世の人間のとっては、それらは同様に不思議なことであるが、しかし同様に事実であることは疑えなかったのである。こうして自然物は、物理的な力であるか生理的な作用であるかあるいは超自然的な働きであるかを問わず、それぞれ固有の力能を有していると信じられつづけたのである。というのもアウグスティヌスは奇蹟を認めたばかりか、ローマ社会から引き継いだ非合理な民間伝承を否定しなかったからである。
●中世キリスト教の欲望否定(封鎖)から近代観念の欲望肯定(刺激)へのパラダイム転換が、近代思想と近代科学を生み出した。
現実の自然界と人間界を天上の神の国の下にある邪悪に満ちた世界と見なしたキリスト教。それは徹底した現実否定の思想である。
古代人は敵対的な現実の共認圧力を絶対的な壁として不動視し、その現実を否定的に捨象した。
換言すれば、古代人は現実の共認圧力を捨象して全く対象化しようとはしなかった。そして専ら、頭の中の本源回路を代償充足させる為の、感応観念(価値観念や規範観念)に収束した。
彼らは、何故、現実の共認圧力を対象化できなかったのか?
それは、共認圧力というものが、単なる対象物ではなく、自分自身(の生み出したもの)に他ならないからである。
つまり、彼らが否定する現実とは、彼ら自身の私婚・私権の共認や、力の追共認に基づいて作られた現実である。従って、現実を否定する以上、自分自身の存在(自我や私権や力を求める下部意識)の否定に向かわざるを得ない。
実際、彼らは頭の中だけで自らの存在(下半身)を否定して、感応観念に収束した。観念の倒錯である。しかし、現実の存在(自らの下半身)を頭の中で否定することはできても、現実に否定することは出来ない。そうである以上、頭の中だけで現実=自らの存在を否定するのは自己欺瞞であり、その自己欺瞞の故に意識と存在(思想と現実)は必然的に断絶し、分裂することになる。
「現実否定の自己欺瞞」(リンク)
従って、キリスト教では全ての現実的欲望が否定される。奇蹟や不思議な現象は神の啓示であり、人間はそれらの現象をただ知るだけでよく、理解、説明をする行為は許されない。この知的探究心だけではなく、性的をはじめとする肉体的欲望についても否定的であった。
ところが、次の近代社会は、欲望を肯定(刺激)することによって市場を拡大させてきた。
次の近代市場社会は、人々を私権の強制圧力で追い立てた上で、私権拡大の可能性を囃し立て、あらゆる手段を駆使して人々の欲望を刺激し続ける社会であり、それによって私権闘争(利益競争)を加速させた社会である。そこでは、利便性や快美性を煽る情報によって人々の欲望が過剰に刺激され、その結果、移動や消費の回転スピードがどんどん高速化してゆく。むしろ、欲望の過剰刺激と生活回転の高速化によってこそ、市場拡大は実現されると言ってもよい。だからこそ、金貸しに操られた学者たち、とりわけ市場の指南役たる経済学は、人間の欲望は無限に拡大するという仮説を暗黙の大前提とした訳だが、それは、学者たちの錯覚に過ぎない。
「私権圧力と過剰刺激が物欲を肥大させた」(リンク)
中世キリスト教の欲望否定(封鎖)から近代観念の欲望肯定(刺激)にどのように変わっていったのか?が、新たな問題意識として浮上する。
近世ルネサンス期には恋愛観念をはじめとする欲望肯定(刺激)思想が登場する。ルネサンスの人間主義とは人間の欲望肯定思想に他ならない。
近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。とりわけ、「権利」とはただ要求することを正当化した架空観念である。
しかし、近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象したからである。そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。
しかし、(スリ代えられたものであっても)「現実」の可能性が開かれた以上、その出口を塞いでいる身分制度を解体すれば、「当然」新しい社会を実現することも可能に見える。こうして、社会運動が登場した。
「社会運動の自己欺瞞」(リンク)
つまり、十字軍による略奪した財を原資として市場拡大→私権の拡大可能性が開かれた結果、欲望否定(封鎖)から欲望肯定(刺激)へとパラダイムが転換したわけだが、ルネサンスで急に変わったのではなく、その前の中世に転換の萌芽があったはずである。
例えば、十字軍遠征開始直後の12世紀には、ギリシアの文献、とりわけアリストテレス自然哲学の翻訳運動がものすごい勢いで始まるが、これも欲望肯定の正当化の根拠を欲望肯定時代(ギリシア時代)に求めたからだと考えられる。
つまり、中世の自然認識から近世の自然認識への転換、すなわち近代科学の登場も、中世キリスト教の欲望否定(封鎖)から近代の欲望肯定(刺激)へパラダイム転換によって促されたものではないか。
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コメント4件
mbt moja | 2014.02.22 8:41
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