2012年02月02日

近代科学の成立過程17~金融勢力と一体となった海賊国家イギリスが科学革命を実現し、世界を征服した

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「イギリスの海賊ドレイク」
画像はこちらからお借りしました。
「金貸しが育成した特権階級(ジェントリ)が私権獲得の為に科学に収束した」では、
【1】イギリスのジェントリ(地主階級、大商人、法律家、官僚、上位聖職者、大学数授、医師)たちを主勢力として、17世紀イギリス民主革命が実現したこと。
【2】1688年名誉革命後も、ジェントリが支持するホイッグ党(後の保守党)の優位が続き、イギリス帝国の拡大を目指す重商主義政策が展開されたこと。
【3】彼ら特権階級ジェントリたちが自らの私権獲得という目的と国力の増強という目的を重ね合わせ、科学技術に強力に収束していったこと。
つまり、特権階級ジェントリを主勢力として、16世紀まで後進国であったイギリスが、世界の覇権国家になっていったことを明らかにしました。

今回は、その後イギリスが科学技術を発達させ、世界を征服してゆく過程を見てゆきます。
引き続き、山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房)の「第8章 16世紀後半のイングランド」の後半要約です。
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5.ウィリアム・ボーン
この時代のイングランドの科学書の書き手の多くは大学教育と無縁であった。彼らはレコードやディーやディッゲズの提供した数学的原理を実際の経験や知識に役立てることができた。ウィリアム・ボーンはそのような数学を独習し、大学教育とは無縁な書き手の一人として、航海術や測量術や砲術の著書を英語で著した。
彼は平時は宿屋を営みながら、1571~72年にはグラーヴェセンドの市長を務め、危急のさいには要塞にかけつけて防衛の任にあたる市民兵として、ふだんから砲術の訓練をうけていたようである。
彼は1574年には教育を受けていない船乗りのために『航海規則』を出版した。イギリス人の手になる最初の印刷された航海術の書物である。
ボーンはまたおのれの技術について無知な砲術師たちの間では技術教育がより必要なことを見出し、『大型大砲における射撃の技術』を出版している。また測量について論じた『旅行者の宝』を出版している。そこには、三角測量が図版をふくめて記されている。イングランドでは測量は、接収された修道院領地の再配分のためにも必要とされていた。
大学の外部にボーンのような人物を生み出したことは、大きな変化を言わなければならない。

6.ロバート・ノーマンとウィリアム・ボロウ
レコードとディーとディッゲズ父子は英語による数学書・科学書の執筆によって職人や機械工や船乗りや商人や軍人のために必要な知識を提供し、16世紀後半にイングランドで輩出した数理技能者を直接・間接に育てあげた。
しかし、職人や技術者が自分たちの言葉で著述を始めたのは、このような上からの働きかけだけによるのではない。実際、20年間の船乗り稼業ののちに航海用機器の製造に携わり、伏角を発見し『新しい引力』を出版した職人のロバート・ノーマンや、偏角の測定と論考を著述した英国海軍の会計検査官ウィリアム・ボロウたちの仕事は、レコードやディーの影響を受けてはいるものの、基本的にはおのれの経験と実践と考察から生み出されたものである。
ノーマンの伏角の研究は、それまでは定性的な科学でしかなかった自然哲学における、特別の測定装置をもちいた定量的測定のはじまりであり、自然学で実行された、はじめての自然的事物の定量的測定である。
ボロウはエリザベス1世の海軍の検査官であるが、大学を出ていない、叩き上げの船乗りである。16歳で北東航路の発見のための航海に向かう艦隊に水夫として乗り込み、40歳になるまでロシア沿岸への航海をおこない、主任パイロットにまで出世し、そのときまで天文学とラテン語をマスターしていた。
彼の「論考」の序文で、イングランドの旅行者、海洋航海者そして水夫に、「自分の仕事に習熟したいと欲するすべての船乗りや旅行者は、すべての科学とある種の技芸の基礎である算術と幾何学の知識をまずはじめに身につけるべきである」と呼びかけている。ここには、すべての科学の基礎が数学であるという新しい認識とともに、学習意欲にあふれたこの時代の船乗りの心意気が鮮明に記されている。
イングランドにおけるロバート・レコード以来の俗語科学書の存在は、イングランドの職人や船乗りの教育水準を押し上げるのに大きく貢献した。
また、広範囲にわたる偏角の測定と伏角の発見は、地球磁場という観念を生み出し、地球が巨大な一個の磁石であるというウィリアム・ギルバートの大発見につながってゆく。1600年の『磁石論』は、科学革命の時代にあってイングランドから大陸にむけてのはじめての発信である。地球が不活性な土塊ではなく他者への作用能力や自己運動の原理を有する磁石であるというギルバートの発見は、その時点ではコペルニクス理論に要求されていた地球の運動の自然学的根拠を与えるものと思念された。さらには、地球の磁力という観念はケプラーによって天体間の引力という観念を生み出すにいたり、やがてロバート・フックとニュートンによる万有引力の提唱と、それに基づく「世界の体系」の確立-17世紀科学革命の頂点-へとつながってゆく。
しかし、そのギルバートの発見にとってもっとも重要な契機となったのはロバート・ノーマンによる伏角の発見であった。ギルバートは、北半球では磁針の北端が下を向く伏角現象こそが、地球が球形磁石であることの直接の証拠であると捉えた。ロバート・ノーマンの仕事は、同時代のアンブロアズ・パレの外科学やボンベッリの代数学とならず、16世紀文化革命の頂点と言える。

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「イギリス王立協会」
画像はこちらからお借りしました。

7.上からの技術教育
しかしイングランドでは、16世紀後半の職人や技術者サイドでの学問的関心の高まりは、支配層のヘゲモニーでおこなわれる技術教育の推進に連動していた。
エリザベス朝イングランドで国家権力が強化され、経済が飛躍的に発展し、軍事が高度化し、海外にむかって政治的・経済的に関心が高まってゆくと、支配層のあいだでも技術者や船乗り軍人に組織的に数学教育と技術教育を施すことの必要性が痛感されるようになっていった。いや、支配エリート自身にもそれは要求されるようになっていたのである。「国益の増進」と「地上における栄達」を重ね合わせてみることのできる上流市民階層がすでに誕生していたのである。
ところが、イングランドの既存の大学は、海外進出にむけてのイングランドの技術力を向上させるという目的には到底おぼつかない状態にあった。「その当時、オクスフォードやケンブリッジで教授されていた科学は実際的な問題や探求とはかけ離れていた」のであり、そのため「16世紀にはイングランドの大学を卒業した者でさえ、自然科学においてはきわめてわずかな教育しか受けておらず、それらの問題の諸原理を理解するためには、通常は通俗書に頼っていた」のが実情であった。
軍人で植民地主義者のハンフリー・ギルバート(1539頃~83)による「貴族とジェントルマンの子弟」のための教育機関としての<エリザベス女王のアカデミー>の提唱は、そのような要求に応えようとするものであった。1572年に書かれたその趣意書には「大学においてはもっぱらスコラの学問が学ばれているが、本アカデミーでは戦争と平和の双方に関して現実の実践に適合する事柄が学ばれるであろう」と謳われている。土地所有者や商人や外交官などの子弟のために戦争や商業や航海知識を教育するための学校である。
上流階級の子弟のためのものではあるけれども、徹頭徹尾、実用知識の学校である。そこで教えられる知識は、いずれも16世紀に芸術家や技術者や数理技能者が案出したものに他ならない。それまで蔑んできた技術的知識の重要性を、イングランドの支配エリートは認識しはじめたのである。
そして、このアカデミーでの使用言語は英語と定められていた。
人文主義者が純粋なラテン語を過度に賛美し、中世スコラ学でなされていたような新造語の使用を野蛮として攻撃したために、ラテン語は新しい学芸に対処する力を失いつつあった。そして上流階級の子弟にとっても、単なる教養としての死語の習得に多大な時間を消費するよりも、軍事や航海に必要な実践的知識を俗語で身につけることの方がよほど重要になっていたのである。
このアカデミーの構想はすぐには実現しなかったが、1582年にはアメリカ植民地建設の提唱者リチャード・ハクルートが航海術の公開講座を開くように訴え、その2年後にはウォルター・ローリーがヴァージニアに最初の植民地を建設している。海外進出のための人材養成は急務であった。
軍人や船乗りのための数学の公開講座がロンドンで開催されたのは1588年のスペイン無敵艦隊の襲撃にそなえて、ロンドン防衛の市民軍が組織された時であった。枢密院とロンドンの商人グループと市当局が有効な都市防衛に必要な数学を講じるための基金の創設に賛同したのである。そして、無敵艦隊が撃破された後も、次の襲撃に備えて市民組織は維持され、この市民軍の教育を目的として講義は始められた。しかし、スペインのさらなる襲撃の危険性が薄れるとともに、講座は軍事技術のためのものよりも、海外進出を目論んでいた商人の利害と関心に合わせて航海技術のためのものに変質していった。いずれにせよ「スペインに対する勝利に続く好戦的な海の冒険と並んで、探検事業や新しい商売の調査や植民地計画が進められ、そのため多くの方面から数学者が求められていた」のである。ケンブリッジを出たエドワード・ライトが16世紀末に東インド会社で数学を講じたのはその例である。
商人トマス・グレシャム(1519~79)の遺志で1579年にグレシャム・カレッジが開校されたことで、ついに技術者教育のための機関がロンドンに確立された。グレシャムは「グレシャムの法則」で有名だが学者ではなく、1565年に王立取引所の設立を提唱したロンドンの大商人である。
グレシャム・カレッジは神学、天文学、音楽、幾何学、法律学、医学、修辞学の7講座からなる。その講義内容は実用性を最大限に重んじるものであった。「このカレッジは世界を測定するであろう」という17世紀のジョセフ・グランヴィルの一節が、それまでの大学との相違-講釈にかわるに測定によって、文書をではなく世界を調べるという研究の方法と対象両面の相違-を謳っている。そして実際に、グレシャム・カレッジは、一方で教育の面で実際の経験を重視したが、他方で経験だけに頼っていたそれまでの航海術を数学に基礎づけられたもの改めるのに大きく寄与した。
17世紀の初期には、グレシャム・カレッジの数学や天文学のスタッフにはイングランドの中のもっとも有能な学者が集まり、そこではスコラ学と異なる実践的な学問が教育され研究されていた。例えば、実用数学である対数の発明にいち早く着目して常用対数表を作成し、対数の実用化と普及に尽くしたヘンリー・ブリッグスは初代の幾何学教授であった。
この教授たちの集まりの中から王立協会が生み出され、それがイングランドにおける科学革命の中軸となった。しかしそれは、職人や技術者の運動ではもはやなく、以前には蔑まれていた技術に対する重要性を十分に認識した知識人の運動になっていたことを忘れてはならない。
イングランドにおける16世紀文化革命は、大陸のものと少々異なり、当初から知識人のヘゲモニーによって進められていた。そのことは、社会的に差別され知的にも疎外されていた職人たちの運動であった16世紀文化革命が大きく変質してゆく遠因でもあった。ジョン・ディーの「数学的序文」は国家の反映と国力の増進が科学の発達と手を携えて進むということのいち早い認識を示している。
先進的な職人たちの意欲的な運動が新しく形成された国民国家の支配階級(ジェントリ)と重商主義政策のもとで成長した産業資本家たちの指導する運動に絡め取られてゆくのは、最早とどめ難い。それがナショナルな色彩を帯びることも、なかば不可避であろう。「わがブリテン王国は人間が創造されてこのかた地上に存在してきたいかなる王国をも凌駕するのは当然と言えるだろう」と語ったのはジョン・ディーであった。
イングランドにおける知識人による俗語書籍による教化活動と、それに呼応した船乗りや技術者の側の意欲的な学習と執筆活動は、実用的な技術の考察が自然の研究にとって重要で有効であるという認識を広く受け入れさせることになり、大学で営まれていたスコラ学と異なる新しい学問の可能性を開くことになった。支配層の内部にも手仕事や機械的なるものへの蔑視を克服し、むしろ手工技術の重要性を積極的に認める機運が強まっていった。
かくして16世紀末にロンドンにグレシャム・カレッジが創設され、さらに17世紀中期にはロンドン王立協会が発足し、ロバート・フックやニュートンを輩出し、イングランドは17世紀科学革命の先頭に立つことになる。しかし、それは知識人のヘゲモニーで進められ、もう一度学問を支配エリートの独占に引き渡してゆく過程でもあった。

これが「近代の科学者は金貸しの手先だった」ことのもう一つの証拠である。「悪貨は良貨を駆逐する」と語った金融勢力グレシャムによるグレシャム・カレッジが母胎となって、イギリスの王立協会が成立し、17世紀の科学革命が実現したのである。
その過程を山本義隆氏の著『十六世紀文化革命』(みすず書房)「第10章 16世紀文化革命と17世紀科学革命」から要約する。

十七世紀初頭にアリストテレスをはじめとする古代の哲学を厳しく批判し「知は力なり」のスローガンのもとに産業社会の時代の科学のありようを声高に語ったのはフランシス・ベーコンであった。
ベーコンにとって自然研究の目的は「行動により自然を征服する」ことにあり、「技術と学問」は「自然に対する支配権」を人間に与えるためのものであった。『ノヴム・オルガヌム』には「技術と学問は自然に対する支配権を人間に与えるもの」と書かれており、「自然の秘密もまた、技術によって苦しめられるとき、よりいっそうその正体を現す」「技術が自然と競争することによって勝利を得ることにすべてを賭ける」と語っている。
それと同時にベーコンは、科学技術研究の近代的なあり方をはじめて提唱した。
彼は、近代科学技術研究のあり方として、選ばれた専門の研究者集団が国家の庇護のもとで先進的研究と技術革新を組織的かつ目的意識的に遂行するべきことを提唱した。晩年の『ニュー・アトランティス』において、その機関として「ソロモン学院」を描き出している。
それは選ばれて国家から俸給を得ている卓越した研究者集団が、国家の拡張主義的政策を推進し、その見返りに国家から研究費を得て研究に専念する組織である。その研究者たちは、全員が上流階級のみに許される特別な服を着ている。研究は国家に生活を保障されて研究に専念するエリート研究者の仕事であり、彼らだけが自然の秘密を握っている。彼らの得た情報や研究の成果は無統制に公開されるものではない。そのいずれを秘匿しいずれを公開するのかは、彼らが自分たちで決定するのである。
ベーコンにとっては、先進的な研究や技術革新は、選ばれた専門の研究者集団によって組織的かつ目的意識的に遂行さえなければならないのである。
17世紀にはベーコンの思想を指導理念として科学の組織化が進められてゆくことになった。1662年に発足したロンドンの王立協会は、このソロモン学院をモデルにして作られた。
これは王の勅許があるだけの民間の機関であったが、中枢会員は国家・公共のために研究を担っているという意識を強く有していた。1666年に発足したフランスの王立科学アカデミーにいたっては、れっきとした国家機関であり、ソロモン学院にさらに近い。実際、その会合はすべて非公開で、1667年には「アカデミーの業務は秘密に保たれ・・・機関の認可によってのみ外部に伝えられるべきもとする」という規約を定めている。
国璽尚書を親にもち、大法官にまで登りつめたベーコンは、知的・社会的に自分と同レベルの上流階層しか見ていない。ベーコンの言う協働も公開も、知的エリートや支配階級である「閑暇に恵まれた」ジェントリの間だけでの協働や公開であった。
16世紀文化革命の過程で職人たちの実践から自然発生的に生れていた研究の協働的推進と科学の累積的発展という観念を、ベーコンは国家の主導で推進するように主張し、その実践を高等教育を受け研究に専念するエリート科学者に託したのである。

そして、ベーコンの思想は、急速に工業化を進め帝国主義にむかって邁進している国家の指導層に強く訴え、科学者たちは国家プロジェクトに組み込まれていくことになる。
★これがイギリスが覇権国家になった理由であるが、なぜイギリスにおいてそれが実現したのか?
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エリザベス1世の時代のイギリスは、スペインの無敵艦隊に対抗するために国家ぐるみで海賊行為を始める。
「私拿捕船」「私掠船」 と云って、海賊船に国王の許可を与えたのである。国家公認の海賊船である。イチから自前で海軍を整えるよりも、手っ取り早く海賊たちにスペイン艦船を襲わせ、略奪した財宝を国家が吸い上げるという方法である。この海賊船にドレイクやホーキングといった名だたる海賊が参加し、当時のスペインの商船を襲いまくって大量の銀や財宝を略奪した。スペインはイギリスに厳重抗議したが、イギリスはこれを無視した。この国家ぐるみの海賊戦法によってイギリスはスペインの力を削ぎ、無敵艦隊を破ったのである。
このように、南米を略奪しまくったスペインの上を行く海賊国家がイギリスである。
近代につながるイギリスは1066年、海賊集団ノルマン人(ヴァイキング)が征服して建てた国家である。
ここからはじまるイギリスの王朝がノルマン朝で、この征服を「ノルマン=コンクェスト」という。
つまり、国家ぐるみで海賊行為を行ったのも16世紀が始めてではなく、その500年前に海賊行為によってイギリス王朝を建てているのである。
5500~2900年前の略奪闘争によってヨーロッパでは部族共同体が破壊されたが、イギリスではそれに加えて11世紀のノルマンの征服という二重の略奪闘争によってできた国家なのである。
そして、その後もイギリスは国家ぐるみの海賊行為によって世界中を侵略してゆく。イギリスは11世紀から同じことをやり続けてきたのである。
この国家ぐるみの略奪闘争(海賊行為)こそがイギリスの国家戦略であり、イギリスが世界の覇権を握った根本的な理由も、イギリスが最も侵略性の強い国家(民族)であったことにある。
但し、同じ国家ぐるみの海賊行為でも、11世紀の「ノルマン=コンクェスト」の時代と16世紀以降では違いがある。
11世紀は肉弾戦の武力そのものが制覇力であるが、16世紀以降は戦争の制覇力は科学技術に変わっている。

だからこそ、イギリスでは国家ぐるみで科学者を組織し、その科学技術力を武器に国家ぐるみの海賊行為を働いたのだと考えるべきだろう。
その背後にいたのはグレシャムをはじめとする金融勢力であることは言うまでもないが、イギリスの科学を推進させたのは金融勢力だけではない。その主勢力となったのは特権階級ジェントリであり、かつ、彼らは17世紀民主革命の主勢力でもある。
イギリスの王侯貴族がノルマン海賊の末裔であることは言うまでもないが、その下の特権階級ジェントリたちもノルマン海賊の将校や兵士クラスの末裔であろう。そして、彼らが主勢力となって17世紀の民主革命と科学革命を実現し、イギリスは世界を征服していったのであろう。
ノルマン海賊の末裔たち(王侯貴族と特権階級ジェントリ)と金融勢力が一体となって海賊行為と科学技術と民主主義に収束していった。これが覇権国家イギリスの構造(正体)なのである。
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List    投稿者 staff | 2012-02-02 | Posted in 13.認識論・科学論No Comments » 

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