2009年10月28日

どうなる?ネットの可能性~るいネット・共認革命に学ぶ9「強制共認と発信階級の犯罪」

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民主党への政権交代を実現した8月の衆院選挙を、マスコミはほとんど報道しませんでした。(「民主党政権下でのマスコミ」http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=600&t=6&k=0&m=214136

報道しないことによって間接的に自民党を支援した形ですが、国民は自民党政治に明確な「ノー」を突き付けます。マスコミは「人々の味方でも、代弁者でもない」ことが白日の下に晒されたのです。

なぜマスコミや文化人は、「大衆の一員」の様な顔をして発信を続けてきたのでしょうか。そして、その欺瞞は何故通用しなくなったのでしょうか。

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「発信階級の犯罪」について書かれた8年前の投稿「強制共認と発信階級の犯罪」(http://www.rui.jp/ruinet.html?i=200&c=400&m=9560&pgh=1)を紹介します。

人類が共認動物である以上、私権社会と云えども人々の共認によって社会が統合されるという原基構造は、不変である。しかし、私婚・私権の共認にしても、その延長上の市場拡大(=豊かさ追求)の共認にしても、私権社会を統合してきた共認の中身は、全て外から(‘掠奪闘争=戦争によってor上から’統合階級によって)押し付けられた共認、つまり強制共認でしかない。人々は、自分たちの集団や社会を統合する共認形成の場(それは本来なら最大の共認充足の場)を剥奪され、ただ上から一方的に与えられた観念や制度を受け入れるだけの存在に貶められてきた。

その際、私婚や私権や市場拡大を正当化する観念を作り出して人々を教導し、強制共認をあたかも自主共認であるかの様に思い込ませる役割を担ってきた者たちこそ、倒錯観念で武装した牧師や学者・文化人・マスコミetcの発信階級に他ならない。
彼らは、「我こそ、人々の味方であり、代弁者である」という顔をして、講釈を垂れる。だが、騙されてはならない。彼らは思索し表現することを専業とする特権階級であり、明らかに統合階級の一員なのであって、仕事に追われて思索・表現に専任できない普通の人々とは、決定的に立場が異なっている。

事実、彼らは教会や学校やマスコミを通じて常に支配観念を押し付け、一方的に人々を染脳し続けてきた。それで、どうして「大衆の一員」などと云えるのか?現に今も、彼らは体制によって与えられた特権の場=教宣機関に陣取り、圧倒的な情報量をもって古い支配観念(恋愛・自由・個人・人権etc)を押し付け、人々の意識を支配し続けている。その結果、社会は全面閉塞状態に陥って終った。

にも拘らず、「大衆の代弁者」である筈の彼ら発信階級は、何の突破口も示せずに、相も変わらず旧観念を垂れ流し続けている。そこには、自己反省のカケラも見えない。自分たちの言説(ドグマ)が社会の為になっていると信じ込んでいるからである。

しかし、もはや人々を騙し続けることはできないだろう。なぜなら、我々=素人は、彼ら発信階級が押し付ける旧観念(=近代思想)こそが社会を閉塞させ、人類を危機に導いている張本人であることに、既に気付いて終ったからである。

今回の選挙報道(の無さ)を通じて、発信階級の化けの皮は剥がれたのです。彼らが依って立っている旧観念(=近代思想)の欺瞞性もまた明らかとなるでしょう。

マスコミの発信内容が、実は強制共認であり、決して自主共認ではないことも、ネットでの様々な発信を通じて、すでに多くの人が知るところとなっています。

自分たちの集団や社会を統合する共認形成の場を構築する必要は、もはや誰の目にも明らかです。これまで剥奪され続けてきた「共認充足の場を実現する」機は熟した、と言えるのではないでしょうか。

List    投稿者 blogger0 | 2009-10-28 | Posted in 11.世論形成の場、ネットの可能性14 Comments » 

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コメント14件

 市南義僚 | 2010.05.06 12:36

いつも高説、拝見してます。
愚生が思うに、
「反復千回」の教育の欠陥は、中国の「科挙官僚」の多くが「既得権を喰い散らかす小役人」に終わったことで充分に指摘できます。
が「素読」「反復千回」も確かに有効であろうと確信もしてます。
理解を欲するする感情がなければ、誰が苦労して「学問」をするのでしょうか?
誰が「反復千回」などするのでしょうか?
まあ「理解」からせめても、所詮この程度の学力・言語能力なのですから、
まあですが所詮理解・向学心からでも限界があるのはわかります。
王陽明が「わかることが大切。理解も二次的なものにすぎない」という趣旨の発言をしていたように思います。
「良知を発現すると、「手足を舞い躍らせる」ような喜悦がある」とも。
所詮、愚生やそれと同レベルの「暗記・暗唱」の教育や、「理解至上」の教育は、すべて害悪を生むものでしかない。とだけは確信でき留斗思います。
無明の人間の教育論などすべては罪作りの道具に杉なのでしょうかね。

 国語教師 | 2010.05.08 12:18

 小学1年生から小学6年生まで、教科書は12段階の難易度で構成されています。たとえば、6年生に理解される内容を1年生に読ますということになれば、教育的合理性に反することになります。そうしたレベルの議論をすっ飛ばして、「論語」暗記が一番というのは、暴論以外の何物でもありません。
 「論語」暗記だけで国語教育が済むというような無責任な言論はここだけにしてください。お願いします。

 SSS | 2010.05.08 13:52

割り込みですが、コメントさせていただきます。国語教師さん、コメントありがとうございます。
質問させていただきますが、ではその教育的合理性とはいったいなんですが?それは確たるものですか?
また、国語教師さんがおっしゃっていることは一見、理屈としては通っているように見えますが、では、国語教師さんが言われている教育的合理性によって何が実現されてきたか確認してみましょう。
そうすると一目瞭然でしょう。中学生くらいから顕著になりますけれども、内容の理解をきちんとしようと努めている生徒など標準レベルの生徒はいないでしょう。まず寝ます。高校生くらいになればかなり文章が難解になり、普段本を読んでいる私でさえ難しいと感じる内容になります。それを理解させようとするには相当の時間と努力が必要でしょうし、センスも問われてくることです。故に生徒は寝るし、教師はその大変さを理解しないまま、授業をするのです。
今現在の教育論で何も実現できていないのに、「暴論」と称するのは失礼です。それを言えるだけの強い根拠と確信をお持ちなら、今の学生の授業の受け方をご覧ください。
その状況を解決できるだけの対案をお出し願います。無いのであればもっとも「可能性」を秘めているのは「暗唱」ということになるのです。

 国語教師 | 2010.05.08 15:23

 漢字配当表を見ても分かるように、基本的な漢字から複雑な部首を持つ漢字へ学年別に振り分けられています。
 作文も、テニオハの使い方から指導して小学3年生ごろから400字の原稿用紙に向かわせるのが普通です。
 読書指導も、宮沢賢治なら「やまなし」程度の簡単なものから、「セロ弾きのゴーシュ」「夜だかの星」「銀河鉄道の夜」「虔十公園林」等々、大人の理解力が必要なものに向かうのが普通です。これはどの童話作家にも言えることです。
 難易度にしたがって、1年生でも理解できるものを1年生に与え、2年、3年と難しい作品をあてがっていく。それが「教育的合理性」というものです。
 今は分からなくても、大人になったら分かればいいなどとは、現場からすれば話にならない議論です。齋藤孝なども、音読至上主義から同じようなことを公言しているようですが、どれほど本を精読しているか疑問です。
 ためしに難易度にしたがって宮沢賢治や新美南吉等の作品を並べられるのでしょうか?それも出来ずに、「後で分かればいい」などという言い草が無責任というのです。ただ、自分がろくに教材を読んでいないというだけですから。
 私も言葉が過ぎたかも知れませんが、親の「どんな本を読ませたらいいでしょう?」という質問に、「論語」しか示し得ないとすれば情けないことではないですか。

 SSS | 2010.05.08 16:43

>国語教師さんへ
コメントありがとうございます。
一連の記事を読んでいただければわかることですけれども、その「セロ弾きのゴーシュ」やら「夜だかの星」とやらが、では現実の役に立つのですか?という問題なんです。
論語、論語とおっしゃりますが、ではなぜ、一連の記事で論語が出てくるかと言いますと、私権時代と呼ばれる時代、「役に立っていたから」です。記事にするまでもなく、論語は昔から読み継がれたものでありますが、それは一重に「役に立っていたから」です。では論語はどういう使われ方をしたとお考えでしょう。「反復」して覚えていたのではありませんか?
有名な文豪の中には数学は嫌いとか理系を毛嫌いしていた方もおられますが、漢文や古文は腐るほど読んだ、なんていう方は多くおられますね?古いパラダイムにいたとは言え、それら優れた文章群を生み出し続けられたのは、役に立つテキストを何度も反復し思考や現実の捉え方に活かしていたからです。
じゃあ、今の教科書はどういう内容で、どういう教え方をしているのか?それは現実に役に立つのか?その基準でお考えになったことはありますか?
親が別に「どんな本を読ませたらいいでしょう?」などと言う質問に答える必要はないと思います。読「ませたら」などという大人の価値観を押しつけたりするような教育のどこに「合理性」があるのか、私には理解できません。
もっと言えば、「分かる」「分からない」の基準で考える必要もありません。「役に立つか」「役に立たないか」で考えています。であるならば、極端な言い方をすれば、子供のウチに分かる必要はないし、社会に出た時に役に立てば良いのです。
「わかる」かどうかで考えてしまえば、「わからなく」なった時、先生は個別に指導して「わかる」ように指導してくれるのですか?そんな時間あるのでしょうか?
いえ、国語教師さんにお聞きするまでもなく、今の学生は教師に「訳してもらわねば」理解できない程度です。私の両親は教師で母親は国語の教師ですが「県内トップの公立高校」でさえそのような状況だそうですよ?父親は数学の教師で若い頃は教育委員会に所属していたようですが、同僚の悩み事は「それ」だったようです。
だけど、「暗唱」は違う。量の差こそあれ、「暗唱」ができない人などいません。その「暗唱」しているものが役に立つテキストであれば、「暗唱」して身についた分だけ現実に「役に立たせる」ことができるし、その時初めて、その分だけ「理解できる」
私は高校生ですが、論語をまともに読んだことはありません。けど妹は「暗唱」できます。小学生を卒業したばかりですが私と「日本辺境論」に関して会話しました。難解な文章や概念も「暗唱」してさえいれば「なんとなく」は理解できるようですし、「暗唱」した分だけ、情報を吸収できるようです。
反対に学校で国語どんなこと学んだん?と聞いても口を濁します。なんか眠かったとか、たぶんこんな感じ、、、。という程度で意見を引き出そうとしても会話が広がりません。
社会に出て、色んな人の話が理解できるというのも能力ですし大切です。コミュニケーションですから。けれど、どうです。授業で得たものなど、所詮、妹の様な反応でしかありません。だからこそ、教師はどうやったら「理解」してもらえるのかと苦心しているのでしょう?私は生まれてからずっと母親や同僚の方のそういう姿を見てきました。
最後に。私は学校を否定するつもりもないし、授業を蔑ろにすることを正当化するためにコメントしているわけではありません。けれど「変わる」必要があると考えています。先生がそのように排他的になられることが残念でこの記事を書いた本人ではありませんが、コメントさせていただきました。
今の学生の反応がいったい何を意味するのか?
それが「転換」のサインと取るか、教師の「技術不足」と取るか?
答えは出ているように思います。

 国語教師 | 2010.05.08 20:16

 >SSSさんへ
 みなさん、素晴らしい国語の先生が居て、素晴らしい国語の教科書があったから国語が出来るようになったのではないのですか? もう一度よく思い起こしてください。
 たしかに、日本の教育の現在が100%正しいとは申せません。しかし、だからと言って、みなさんが「国語」総体を否定してかかる必要はないでしょう。だって、それは自己否定そのものではないですか。
 みなさんの血なり肉なりは、教育の結果ではないですか。何をルサンチマンを抱く必要がありましょう。日本の国語教育に限れば、基本線では問題はないと思っています。みなさんを一生懸命指導した学校の国語の先生にぜひ感謝して下さい。
 感謝の心を忘れては「論語」の精神にも反するでしょう。日本の子供達のために多くの優れた童話を生み出してくれた先人の努力に、どうか厚い敬意をお願いしたいと思います。                 
 国語教育について発言するのが数学者の藤原正彦さんだったり、決して専門とは言えない教育学の齋藤孝(こいつは商売人でしかないと思ってます)だったりで、とかく国語教師の仕事というのが理解されていない面があります。
 これは大きな反省材料です。子供に「論語」を読ますのは大いに結構として、子供の手の届く本棚にでも置いておいて、子供が興味を示した時、一緒に読んでやるくらいにして、決して強制はしないで頂きたいと思います。それは多分、子供にとって不幸なことになるでしょうから。
 もう一度言います。みなさんは「論語」を読んで国語が出来るようになったのではなく、国語の先生に従い学校の国語の教科書をしっかり読んだから今があるんです。それを忘れないで下さい。
 拙文失礼。

 一般読者☆ | 2010.05.08 20:51

論語は強制しないでほしいといいながら、国語は強制するんですね。。。
同じ強制なら、「役に立っている」という歴史的事実のある論語の方がいいなぁ♪
役に立つという実感があれば、強制ではなくなると思うけど(笑)

 hoop200 | 2010.05.11 23:16

 市南義僚さん、国語教師さん、SSSさん、一般読者☆さん、コメントありがとう御座います。
 
 4/29なんでや劇場では、「観念力とは何か?」を追及する中で、言語能力とは何か?を明らかになってきました。言語能力が年々低下している中で、江戸時代以前の人々の言語能力は現代人よりもはるかに高かったことに着目しました。
 そのテキストはほとんど論語で、それだけを10年~20年と繰り返すこと=論語千回が、戦前までで言語の学習方法であったようです。これは、意味内容を理解しているかどうかは関係なく、反復によって覚える。つまり、論語千回による暗唱で完全に脳に定着してしまえば、他の書物を読むことも書くこともできるようになるということではないかと考えられます。
 これについては、日本人で始めてノーベル賞を受賞した湯川秀樹は、5、6歳の頃、祖父・駒橘より漢籍の素読を習っており、自伝の中で「私はこのころの漢籍の素読を決してむだだったとは思わない。…意味もわからずに入っていった漢籍が大きな収穫をもたらしている。その後大人の書物をよみ出す時に文字に対する抵抗は全くなかった。漢字に慣れていたからであろう。慣れるということは恐ろしいことだ。ただ祖父の声につれて復唱するだけで、知らずしらず漢字に親しみその後の読書を容易にしてくれたのは事実である。」と記しています。
(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E5%B7%9D%E7%A7%80%E6%A8%B9)
 また、『幼稚園で論語を教える』(http://blog.goo.ne.jp/nande_ya/e/c127b9438d341fe21e5fb24e76e6899d)
にも、優れた文章を反復することの効用が書かれています。
 上記のように、現代においても、論語の効用は有りそうですが、時代とともに反復千回するに値するテキストを人々は必要としているのだと思います。
今後も、なんでや劇場等を通じて「観念力とは何か?」が追究されると思います。皆さんとともに勉強していけたらと思います。

 国語教師 | 2010.05.12 0:17

 >一般読者さんへ
 湯川秀樹がそのように発言されているのは事実ですが、おそらく80歳を越えてからのことと思います。失礼ながら、そこまで来ると幼少期のことはお忘れになっているのではないかと思います。湯川秀樹に限らず、戦前、戦後を通じて日本語の基本的な指導(つまり、国語の授業)は変わりありません。
 湯川秀樹は、国語の勉強をしっかりしたから国語の能力を高め、そしてついには京都大学に入学し、物理学の最高峰となるような「中間子理論」を世に出すことになったわけですね。それは一にも二にも、彼の国語の先生が素晴らしく、彼の固有の才能も素晴らしかったということ似すぎません。
 彼の国語の能力の80%は、国語教師(あるいは反面教師)によるもので、親から論語や四書五経を読まされたからというのは、失礼ながら、湯川秀樹さんの老人ボケでしょう。
 本当にみなさんは江戸時代と同じく、「論語」や「四書五経」を教科書代わりにすれば、日本人の国語力は高まるとお考えなのでしょうか? いくら素人の謬見といえ、酷すぎるのではないでしょうか。
 もう一度、小学校の全教科書を再読されることをお勧めします。大半の日本人で国語の教科書以上に熟読したテキストはないはずですよ。湯川秀樹も藤原正彦も齋藤孝も一般読者さんも一緒のはずです。素人の暴論、極論はここだけにして下さい。

 ごんぶと | 2010.05.12 15:51

>もう一度、小学校の全教科書を再読されることをお勧めします。大半の日本人で国語の教科書以上に熟読したテキストはないはずですよ。
こんな根も葉もないことを思い込んでいる国語の教師(なのでしょうか?)がいること自体に驚愕してしまいます。
国語が得意な人ほど、教科書では全く物足りず、教科書以外の書籍を自ら読み進めていたのだと思いますよ。

 国語メン | 2010.05.12 17:55

国語は得意でしたが、正直「国語の教師」と「教科書」から学んだことは皆無に近いです。まあ文法と古文くらいですかね、少し授業を聞いたのは。
ですから、国語の教科書が本当に素晴らしいなどと先生が思っているようじゃ、この業界は終わりだなと感じます。
それと、本を読むのが好きになったのも「国語の教師」あるいは「国語の教科書」のおかげではありません。むしろ国語の授業のおかげで国語嫌いになる人は多いのではないかと思います。
こうなると、テキストの問題もありますが、現状の「国語を教える」という行為そのものに疑問を持ちます。国語教師が生徒に教えることとは一体なんなのでしょう?正直、全く記憶にないのですが。
つまり、百歩譲って国語の教科書が一定のレベルがあるとしたところで、それと現状の国語の授業のレベルとはなんの関係もないということです。本が好きな人は言われなくても勝手に読みますから。
僕は、論語にこだわるつもりはないですが、下手な授業を受けるよりは暗唱のほうに僕も可能性を感じます。

 hakuhaku | 2010.05.13 21:10

横レスですが、本文とコメントの主旨がズレているように思います。
国語教師さんは、ひたすら「国語は素晴らしい」と語っていますが、今の若者の国語力低下を事実として捉えておられるのでしょうか?
また、本文の主旨をそもそも捉え違いされているコメントから察するに、失礼ながら、あまりにも国語力が無いのでは?と思ってしまいます。
そもそも、本文は、
論語や四書五経は、私権時代に必要な書物であったものの、私権時代が衰退した現代において替わる書物が見当たらない。
そこで、どうする?
だったら、過去(江戸等)を見習い、「実現論」を使って、反復1000回を実施してみよう。
と書いている。
国語教師さんのコメントは、最初から、
「「論語」暗記だけで国語教育が済むというような無責任な言論はここだけにしてください。お願いします。

と、捉え違いをしているコメントを出されている事に気付いた方が良いのではないか。

 国語教師 | 2010.05.14 4:29

 どうも高校生の投稿が多いようだねw
 要するに、江戸時代と同じ国語教育にしろということ? それじゃロクな国語教育も出来そうもないから、たとえば島崎藤村や芥川龍之介、志賀直哉、有島武郎、宮沢賢治、小川未明、新美南吉というような当代一流の作家たちが日本の子供達のために、赤い鳥運動などを通じて珠玉の童話作品を書き残してくれたわけですよね。
 そういった過去の歴史を吹っ飛ばして、江戸時代に逆戻りしろというようなご意見がどれほど常軌を逸したものか、あるいはこの国の歴史と先人の努力を愚弄するものであるか、諸君は考えたことがあるかい? 実はその程度の浅はかさで、湯川秀樹も藤原正彦も齋藤孝も、古典を読ませろ、論語を読ませろと騒いでいるわけだよ。
 そういう素人の荒唐無稽さを、このサイトにも見つけて少々苛立ったということだ。口が過ぎたらスマンと思う。国語を教えようと思うなら基本的読書は必要だし、教材研究も必要だ。作文を書かせりゃ丁寧な添削も欠かせない。そういう細部の難しさは全く考えずに、自分の不勉強を差し置いた無責任な言い草が多すぎると思う。
 君ら、上に私が挙げた作家の本は読んだことあるよね? しかし、プロは一つ一つの作品を一回読めば、どの学年相当かきちんと割り振りができなきゃダメ。おそらく、老人ボケの湯川とか藤原にはその程度のことも出来ない。齋藤孝に至っては、音読第一中身二の次で、不勉強を誤魔化しているだけだろう。
 君らなんかより、政治家は不勉強で教養が無いだろうから、藤原や齋藤といった門外漢のいうことを真に受けてしまう恐れは多分にある。だから、機会を見ては発言しなけりゃならんと思っているんだがね。日本の小中学生が江戸時代の寺子屋並に、論語なんかを教科書にしだしたら、この国は終わりだね。
 一つ思い出した。論語好きの作家に武者小路実篤が居る。読んでみなさい。論語好きなんてのは、あの程度のものと分かるから。

 hermes danmark | 2014.02.01 5:13

hermes bags germany 日本を守るのに右も左もない | 4/29なんでや劇場レポート「観念力とは何か?」(3) 「興味関心発の理解」は近代のダマシ

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