日本のマス・コミュニケーション史-3~明治後期のメディア~
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■商業新聞への転換
政党の解散或いは衰退によって、政論を主とした大新聞は、経営方針を改革して商業新聞への転換を計っていった。
明治19年「郵便報知」矢野文雄
①論説記者の自由執筆をやめ、矢野自ら監督、探訪をやめ教養ある人に取材させ外交員と名付けた。
②紙幅縮小・小型化
③紙面の大衆化:文章を平易に振り仮名を用い漢字を制限、連載小説掲載
④販売方法を改善:地方前金申込み・東京は直接配達制、料金引き下げ
発行部数:19年:6,700部→20年:12,000部→21年:22,000部
明治21年「東京朝日新聞」東京進出。大阪の「朝日」:村山龍平→「めざまし新聞」買収
創刊号には本誌4ページ+付録6ページ:明治天皇の肖像を載せ読者を驚かせる。「郵便報知」より安価+半年間はその半額。鉄道馬車買い切り無料で乗車させた。
これに対し、東京の17社は不買運動を展開→新聞売捌所に「東京朝日」の販売停止通告。5店の内4店が「東京朝日」の直属店へ寝返った。
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■条約改正と新聞の論争
明治18年2月 伊藤博文内閣誕生。
→対外政策には条約改正へ、対内的には憲法制定、衆議院選挙へ準備
伊藤と井上馨は条約改正の目的達成のため、欧化主義→華やかな舞踏会の開催(鹿鳴館)
→上流社会の退廃→保守派も含め激しく政府批判を展開
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各党派の有力者70名による『大同団結』
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保安条例(≒治安維持法)
明治21年4月 黒田清隆内閣:大隈重信外相が条約改正に着手、極秘裏に対外交渉を進めた
この条約の要旨がイギリスの「ザ・タイムス」に掲載されそれが、新聞「日本」にも記載された。
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大審院に外国人法官採用条項が記載
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旧自由党系+保守系の新聞の猛反対
政府擁護者:「報知新聞」、「毎日新聞」、「朝野新聞」、「読売新聞」など
行激論者 :「日本」、「政論」、「東京公論」、「東京朝日」など
■政党機関紙の復活
条約改正問題が一段落すると、今度は議会の開始をめぐっての政治的抗争が激烈となり、新聞は政党の渦中に巻き込まれた。
○大同団結派→自由党機関紙へ
政論(雑誌)―政論(日刊)―大同新聞―┐
├―国会
公論新報――――東京公論―――――┘
自由新聞(第2次)―自由―自由新聞
江湖新聞―立憲自由新聞―民権新聞
絵入自由新聞、あづま新聞、新東洋、関西日報(大阪)、東雲新聞(大阪)
○改進党系新聞:郵便報知新聞、毎日新聞、読売新聞、民報、都新聞、改進新聞
「読売新聞」は坪内逍遥、幸田露伴、尾崎紅葉を擁し、文学新聞として発展。
○長閥の機関紙:東京新報、東京日日新聞
○薩閥の機関紙:やまと新聞、朝野新聞、中央新聞
○中立系:日本、国民新聞、時事新報、萬朝報、東京朝日新聞、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞
「日本」は相場新聞の「東京商業電報」から「東京電報」と改題され、憲法発布の日に「日本」と改題。
「大阪毎日新聞」は「大阪日報」から明治21年11月改題。編集方針:「政治上は不偏不党にして大阪実業団の機関となること、内外の経済政治通信を迅速確実たらしめること、小説、商話掲載、定価の引下げ」日清戦争前に発行部数20,000部超
■日清戦争・戦況報道の速報戦
日清間の風雲が急を告げると、政争は解消し、新聞の論調もナショナリズムに転換して愛国心を鼓吹し、強硬外交を主張。
回線の火ぶたが切られると、各社は競って従軍記者を派遣し、戦況報道に全力を傾けた。
従軍記者は66社、114人、他に画項11人、写真師4人の総勢129人
戦況を一刻も早く知りたいという読者の速報性への要求と共に、各社猛烈な号外戦が展開され、号外連続発行という状態に。速報競争は大都市が中心、地方は新聞より警察の方が有力な情報源。
■戦後の紙面の変化
明治29年各紙の1日の発行部数
1.萬朝報 81,000
2.中央新聞 70,000
3.中外商業新報 49,000
4.東京朝日新聞 45,000
5.都新聞 36,000
6.国民新聞 36,000
7.やまと新聞 27,000
8.時事新報 23,000
9.報知新聞 21,000
10.読売新聞 18,000
11.日本 18,000
12.東京日日新聞 18,000
13.明治新聞 16,000
14.毎日新聞 15,000
大阪
1.大阪朝日新聞 94,000
2.大阪毎日新聞 70,000
戦時中に増加した購読者を維持するために、各社の経営方針は必然的に紙面に反映して、殆どが報道本位ないし娯楽本位となり、憲法発布後に始まった企業化の傾向は,一層拍車を加えられた。
①社会記事に重点:ゴシップ記事の登場
「報知新聞」は編集局内に「探偵部」を設け、腕利きの刑事を入社させ、警視庁を驚かせる程詳細な報道をして他紙を圧倒。「探偵部」は後の「社会部」の元祖。
②新聞小説に力点: 殆どの新聞が掲載。恋愛や家族問題をテーマにした家族小説が登場。
③経済記事に注力:各社こぞって商況を報道。
■通信社の発生
ニュースの種類ならびに取材範囲が拡大すると、新聞社独力ではニュースを収集することは出来ない。ここにニュース・サービスを専門とする通信社がうまれた。
明治20年「東京急報社」:六角政太郎:大阪の堂島から江戸橋電信局に打電してくる米相場を同社が受け取って、川向こうへ手旗信号で送り、また米相場の動きを文章で一般に通報。
明治21年「時事通信社」 益田孝が政府の後援で設立。政府の発表文書や政治ニュースを各新聞社や地方局に配信。
明治23年「新聞用達会社」(「郵便報知」の矢野)、「東京通信社」(警保局長清浦奎吾←政府の指示)
明治25年「帝国通信社」: 「新聞用達社」と「時事通信社」が合併。
その後明治25年~30年にかけて、群小通信社の割拠時代。
明治34年「日本電報通信社」誕生→「帝国通信社」との二大通信社の対立の時代へ
当時は国内ニュースのみの配信で外電は流していなかった。
明治初期は「ロイター」(明治5年~)が「デーリィ・ジャパン・ヘラルド」や「ジャパン・ガセット」に横浜で発行される英字新聞の外電を翻訳して掲載していた。これを日本の新聞社が転載。
明治26年「時事新報」がロイターと契約、その後、「大阪毎日」、「朝日」も契約
「電通」と「帝通」の二大通信社は「ロイター」が「ジャパン・タイムズ」に送ったニュースから配信を受けて地方へ送信。外電については新聞社のほうが早かった。
■主戦論と非戦論の対立
明治33年(1900年)北清事変の戦況報道で光彩を放ったのが「朝日新聞」。出兵決定と同時に特派員を派遣し、北京通信員、満州通信員と呼応して活動させ、「北京篭城日記」は「朝日」の紙上に30日間に渡って連載されて反響を呼び、国内新聞128紙にも転載、外国新聞にも掲載された。
この北清事変を巧みに利用し満州を領有しようとしたロシアと清の密約の詳細を「朝日」が詳報を伝えた。
35年日英同盟締結にて、ロシアの撤兵が決定されたが、翌年になっても撤兵せず、返って兵力増強を行う。
このため、各新聞の社説には開戦を主張するものが多くなった。「朝日」、「大阪毎日」、「時事新報」はその急先鋒。これに対し、「東京日日」、「毎日」(「東京横浜毎日」の後身)、「萬朝報」は非戦論を主張。
36年6月七博士が政府に開戦を提言→主戦論が支配的→「東京日日」なども翻って、各新聞挙げて主戦論へ。
■戦況報道と非講和条約
日露戦争の各社の従軍記者は日清戦争の数倍の人数に増加した。海軍は記者の乗艦を拒否したが、陸軍では一軍の従軍記者は大体30人以内と決められていたので、一軍から五軍まで150人、それに内外要地の特派員、通信員を合わせると大変な人数であった。
「朝日」は40人余り、「大阪毎日」は30数人、その他の各社も多数の特派員を送っている。
日清戦争同様戦況報道の取締りは厳しく、軍は詳細な規定を設けて検閲を行った。
そういう障害があったにせよ、各社の速報戦は激しく、日清戦争以上の号外競争が行われた。当時、街頭呼び売りの売り子の争いがいかにもの凄かったかは多くの書に載っている。
戦争が終わり講和会議がアメリカで開かれると、各社は特派員をポーツマスに送った。とくに「朝日」はイギリスの「デイリー・テレグラフ」の特派員ヂロンの通信を依頼して掲載した。ロシア全権ウィッテと同船したヂロンが船上で得た講和条件は、日本新聞界を驚愕させた大ニュースであった。一方、「大阪毎日」の社長原敬の依頼したオラフリンは、ルーズベルト大統領と交友があったので講和全文をスクープし掲載され注目を集めた。
ポーツマスの講和会議では、日本は賠償金も得られず、樺太の割譲も南半だけに留まったので、その内容が発表されると各地に非講和運動が起こった。新聞界でも「国民」と「中央」を除く各紙は、いっせいに講和反対を唱えた。
38年9月「大阪毎日」は直接天皇に訴える社説と政府首脳に反対する二本立ての社説を掲載。「報知」は首相桂太郎を攻撃、桂の妾宅通いや全権小村寿太郎の情事まで書きたてた。
市民の暴動も発生し、政府は戒厳令を布き、同時に新聞紙取締りに関する緊急勅令を公布した。内務大臣の発行停止権も復活し、30数紙が最低1日、最高27日の発行停止処分を受けている。
なかでも、「大阪毎日」は、3階の発行停止を受け、桂内閣は発行禁止も画策。
これが第二次世界大戦まで言論抑圧の武器に利用された。
■明治44年各紙の1日の発行部数
1.報知新聞 150,000
2.国民新聞 130,000
3.朝日新聞 100,000
4.やまと新聞 100,000
5.萬朝報 80,000
6.都新聞 60,000
7.時事新報 60,000
8.毎日新聞 30,000
9.読売新聞 23,000
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