次代に求められる共認形成力とは 第6回~「自らが村を守っていく自主性」を育んだ共同体教育~
今回のシリーズでは「次代が求める生産力=共認形成力」をテーマに、その能力について追求しています。
~プロローグ~
第1回~共認とは何か?~
第2回~私権時代の共認の中身とはどのようなものか~
第3回~世界的な本源回帰の潮流と世界を先導する日本への期待~
第4回~共認形成力の根幹、共認回路を育む日本の子育て~
第5回~幼少期の“遊び”の本質とテレビ脳の危険性~
「乳幼児期のスキンシップ」を通して形成される“共認回路の土台期”。
「幼少期の遊び」を通して形成される“共認回路の発達期”。
今回は、その次の成長過程として、“共認回路の確立期”に当たる青年期における「地域の教育組織」に注目したいと思います。
日本古来の文化は、氏族制で代表される北方的要素と、若衆組で代表される南方的要素とが重層しており、その濃淡は地域によってさまざまだったように思える。
であるのに、日本の古代から中世にかけての社会は、氏族制を重点として観察され、解釈されすぎるきらいがあった。
(中略)
日本の原始氏族制が中世になるとぼろぼろになってしまうのは、さまざまな政治的経済的要因にもよるが、一つは氏族制の胎内に重層して存在していた若衆組の原理-無階級意識-を基本的な矛盾として抱え込んでいたからではないか
全集49 『街道をゆく 熊野・古座街道』/司馬遼太郎
若衆組(若者組)とは、明治以前西日本を中心に村落の暮らしに深く根付いていた若者団体の組織です。上記引用は、司馬遼太郎が日本の歴史、社会の正体を探る手がかりとして南方要的要素の”若衆組”を追いかけ、日本の古代以来の社会と文化について思案した文章です。
古来より、日本の地域教育には、二種類の系譜があり、統合階級に見られる氏族制を下敷きとした教育規範(儒教教育)と農村共同体で見られる若衆組に代表される教育規範(共同体教育)とに分けられ、それらが重層的に織り成しています。
西洋国家や他の東アジアの国家は氏族制が浸透していったのに対して、日本の社会や文化を特徴づけていたのは「南方的要素である農村共同体の原理」であり、それが日本社会に残り続け、影響を与えてきたという事実は非常に興味深い。したがって、今回の記事でも共同体教育を扱うにあたり、農村共同体の教育規範に着目して、紹介していきたいと思います。
それでは、いってみましょう。
■地域の教育組織(子供組・若者組・娘組)
一定年齢から一定期間加入する「子供組」「若者組(若衆組)」「娘組」などの集団が各地に存在していた。これらはいずれも同世代の青少年が集団生活や共同作業を通して教育・訓練される社会教育組織であった。
たとえば「子供組」は、普段は遊び仲間と変わらないが、年中行事や祭礼の際には特定の役割を果たした。最年長の指揮によって行動し、厳しい上下関係や一定の掟の中で指導・教育され、掟を破れば仲間はずしなどの制裁もあった。
また「若者組」は、構成年齢や組織形態がさまざまだが、おおむね15歳以下の成年式を終えた青年が加入する組織で、加入の際には保証人となった先輩・知人に付き添われて「若者宿」などの集会所へ行き、リーダーや先輩から掟を聞かされたうえで杯をかわし、正式な加入が認められた。新米のうちは雑用や使い走りをさせられ、さらに先輩から徹底したしつけや教育を受けることで、子供心を拭い去って自立した大人へと成長していった。
若者組は、地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係などに深くかかわり、その責任も裁量も大きなものだった。いったん若者組に加入すれば内部事情は一切口出ししない決まりで、周囲の大人たちも口出しすることは無かった。
このように、江戸時代の子供たちは、大人の仲間入りをするまでの間、様々な人々との重層的な関係や集団の中で育てられたのであり、そこには大勢の人間が深くかかわって一人の子供を育て上げていく、網の目のような教育システムがあったのである。
このように江戸時代の教育とは、地域社会の生産活動(生活)に根ざした人格教育が共同体の中に組織化され、またその生産活動に必要な基礎知識を習得するための場として機能していました。
面白いと思ったのは、(少なくとも男子は)この教育の場に、『家庭や親は全く関与していない』、
ということです。それは、ここで行われている教育が村のみんな(社会)の生活のためにあるということが明確だったからだと思います。
また、農村共同体の規範には、もう一つ特徴的なことがあります。それは「性」を集団課題として捉え、男女の役割規範として共同体の運営に組み込んでいたことです。
■夜這(オコモリ)は女性から若衆への期待
当時、村落共同体の生活は決して豊かではなかったでしょう。そんななか、村の若衆が一人の落ちこぼれもなく「一人前」になることは、大変重要なことだったに違いありません。一人前の若衆が育たなければ、村の存続が危ぶまれる。これは大げさな話ではなかったと推察します。
若衆が「一人前」になる道筋には、男性同士の関係で学ぶ闘争的な側面も多分にあります。しかし、村の存続という意味では女性との充足関係=性も重要です。そこで採用されたのが、性的に成熟した年配女性の性の手ほどき=筆おろし。女性の特徴を自覚し、性教育に足る正しい知識と経験を身をもって伝授するのは、若い女性ではどうしても役不足です。
これにくわえて、オコモリに年配女性が適役とされる重要な視点があると思います。それは、年配女性ゆえに可能である、若衆への深い期待です。
オコモリというと、どうしても性的な側面が(性的な興味を伴って)強調されますが、それだけでは多分うまくいかない。必要なのは「この子に立派な大人(一人前)になってほしい」という気持ち。いうなれば、母性であり、慈愛。そこから生まれる深い期待です。
このように、江戸時代までの(地方によっては、昭和の20年代初期まで残った)農村地域の共同体には、少年少女を一人前の男、女に育てる仕組みが備わっていました。地域における祭礼や芸能・消防・警備・災害救助・性教育・婚礼関係まで様々な役割を担わせ、「自らが村を守っていく自主性」を育んでいた共同体教育。
現代の言葉で言えば、ベンチャースピリットは農村に存在していたのではないでしょうか。
そういえば、明治維新で活躍した伊藤博文や西郷隆盛も郷士(半農半士)出身、山形有朋は中間の子、勝海舟も三代前の米山検校は貧農の生まれでした。坂本竜馬も三菱の祖となる岩崎弥太郎も郷士です。なにより近代経済に最も影響のあった渋沢栄一は大農家の生まれです。
このような地域共同体における教育組織は、明治時代の学校制度の始まりによって衰退の一途を辿ります。
興味深いことに、明治の初め、国家の教育制度に対して、「学校一揆」や「学校焼き討ち」が起こったようです。なぜ、庶民はここまでの強硬な行動に出たのでしょうか?
■学校教育は村落共同体を破壊しかねないものだった
明治生まれの民俗学者・柳田國男は、若者を教育する方法を「平凡教育」と「非凡教育」の二つに大別し、「平凡教育」の必要性を説いている。
「非凡教育」は書物を読むことを特色し、現実的には学校教育を指している。「非凡」であること、つまり他より優れていることを求める教育であるから周りの者はみな競争相手。西洋個人主義に基づく教育で、結果的に順位や序列を生む。
これに対して「平凡教育」とは、古くから日本の社会で綿々と引き継がれてきた教育法。周りの人々と同じように秩序を乱さず一人前に生活できる能力の養成を目指す。そこで一番嫌われるのは手前勝手、横着、自分さえよければいいという態度、人に迷惑を与えて顧みないという行為。年長者を見習い、土地の慣習、先例に従う日常の生活を通して行われる教育。
このように「非凡教育」(学校教育)は、伝統的な「平凡教育」とは相容れないものであり、共認原理で統合される村落共同体を破壊しかねないものだった。
当時の庶民にとって学校教育は、現実の役に立たないどころか、村落共同体を破壊しかねないものでした。その学校教育を押し付ける国家に対する反発が、「学校一揆」や「学校焼き討ち」だったのではないでしょうか。
村落共同体において、共認充足を育んできた「平凡教育」は、西洋個人主義に基づく学校教育の問題点を考える上で、非常に大きな示唆を投げかけているように思います。
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