『超国家・超市場論 第10回』 ~生存圧力に基づく同類闘争から、同類圧力に基づく同類闘争=認識競争へ~
本シリーズでは、国家や市場を超える新しい社会統合機構について展開した、「超国家・超市場論」を連続して紹介している。
(心の豊かさを重視:画像はコチラからお借りしました)
前回は序列統合の限界、すなわち序列上位者に圧力が働かなくなり、その結果遊興階級に転落することで、秩序崩壊を招くという序列原理の致命的欠陥について触れた。
現在先進国では、生存圧力からほぼ解放されることで、序列統合は機能不全に陥り社会秩序はガタガタとなっている。
今回のエントリーでは、序列統合に代わる新たな社会統合様式の姿を求めて、本論の中心的な視点である「置かれた状況を貫く現在の中心的な圧力」について見ていきたい。
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その基本的な答え=実現基盤は、既に実現論4_1_07実現論4_1_08『人類500万年のパラダイム転換』に示されている。生存圧力から同類圧力への大転換が、それである。(注:同類圧力とは、人々の課題共認や規範共認や評価共認が生み出す共認圧力であるが、その最先端は常に同類闘争の圧力へと収束してゆく。)
人類は、既に物的な生存圧力から脱却した以上、生存圧力を背景とする同類闘争(掠奪闘争や私権闘争)から、同類圧力を背景とする同類闘争へと脱皮するしかない。その新しい同類闘争こそ、この社会統合板で1~2ヶ月前に明らかにされた新しい潮流、即ち人々の外向収束(社会収束)⇒認識収束が生み出す認識闘争(評価競争)である。
つまり人類は今、史上はじめて、人類本来の共認機能に基づく共認闘争によって掠奪闘争や私権闘争を止揚し、社会を再統合し直す段階に来たと云えるだろう。
「超国家・超市場論6 生存圧力に基づく同類闘争から、同類圧力に基づく同類闘争=認識競争へ」より引用
「生存圧力」から解放された現在、人類を取り巻く主要な圧力は既に「同類圧力」へと転換している。
「同類圧力」とは同類(人類)同士の関係の中で生み出される圧力のことである。つまり人々の課題共認や規範共認や評価共認が生み出す共認圧力であり、集団間においては同類闘争(集団間闘争・競争)の圧力である。
(脳容量の変化:画像はコチラからお借りしました。)
サル及び人類はこの同類圧力を主要な活力源とし、進化の原動力としてきた(詳しくはシリーズ第5回)。
サルは樹上という特権的な空間を手に入れたため、外敵闘争は二義的となり、同類集団(サル集団)同士の縄張り闘争が主要な活力源となる。同類同士の戦いは本能的な能力に大差がないため、常に僅差の闘いとなる。従って、サルは共認機能(相手の心に同化する機能、いわゆる心と呼ばれる領域の本体)を著しく発達させ、他動物に比べて著しく知能を発達させた。
人類とは樹上で暮らせなくなったカタワのサルである。他動物に比べて本能的に劣る人類は、サル時代に形成された共認機能を唯一の命綱とし、共認充足(仲間同士の心の充足)を活力源として、サル以上に著しく共認機能を発達させ、知能を発達させた。そして観念機能を生み出し、道具を発明することで過酷な自然圧力を突破していった。
サル→人類が共認機能→観念機能を武器に進化してきた動物であり、その生存と進化の前提条件の一つであった物的生存圧力(自然圧力と外敵圧力)⇒物的生存課題をほぼ克服し得たのだとすれば、あるいは少なくとも動物的な生存圧力はもはや主要な活力源たり得ず、従って物的生産はもはや第一義課題たり得ないとしたら、残るのは同類圧力の活力源しかない。人類は、これまで500万年に亙って自然圧力・外敵圧力だけを対象とし(そして期待・応望の同類圧力を生命源として)、共認機能と観念機能を進化させてきた。そして5500年前(日本は2000年前)、同類闘争圧力が加わるや否や、わずか数千年で、自然圧力・外敵圧力をほぼ克服してしまった。
これから先、人類は同類圧力(同類闘争圧力も含む)を主活力源として、共認機能・観念機能を更に進化させてゆくしかない。元々サルは、同類圧力を主活力源として共認機能を進化させてきたのだから、それは基本的には充分に可能である。
「実現論4_1_8」より引用
ではそれ(同類圧力を主要な圧力とする社会)は具体的にはどのような姿になるのか、同じく実現論から引用してみよう。
また、既に動物的な生存圧力を克服した共認社会では、環境その他の人類的課題に対する期待・応望の同類圧力=共認圧力が解脱充足と並んで主活力源となり、人々の期待に応える政治や哲学や科学や芸術が主活動となる。そして、期待・応望を主活力源とするそれらの活動は、評価収束によって必然的に創造闘争=共認闘争の圧力を形成し、それが期待・応望の主活力を加圧する。つまり、共認社会の同類闘争は、人類的課題に応える創造競争=共認闘争となる(政治であれ哲学であれ科学であれ芸術であれ、提起された認識は共認の獲得を目的としており、最終的には社会共認となることを目指しているので、創造競争は本質的には共認闘争である。)
「実現論4_2_7」より引用
(三原じゅん子当選:画像はコチラからお借りしました。)
現在既に私権闘争は本質的に共認闘争へと転換している。例えば企業間競争は、今や社会的評価の獲得こそが第一義となっている(その典型がブランド競争である)。だからこそ各企業は人材募集上も、営業上も、企業イメージの形成・向上こそが最重要課題となっているのだ。政治の世界においても同様である。今や財力や地位の力よりも良かれ悪しかれ知名度(社会的評価)が最も政治家に必要な条件となっている。
既に現在共認闘争(評価闘争)こそが私権闘争の上位に立ち、それを制御する時代に突入しているのだ。
このような時代になったのは何故か。
人類にとって、共認欠乏(相手から認められる欠乏、評価欠乏)こそが最大の欠乏であるが、それは長年、生存圧力によって封印されていた。より正確に言えば、生存圧力を背景とした私権闘争によって封印されていた。
私権社会は万人が敵の社会である。従って安易に心を開くことは許されず、共認欠乏は封印抑制されざるを得ない。従って生存圧力の衰弱に伴う、私権闘争の衰弱は必然的に、人類本来の共認欠乏を再生させる。
同時に生存圧力の衰弱による私権闘争の衰弱はそれを力によって抑制していた、序列統合を衰弱させる。その結果、必然的に力に基づく強制共認ではなく、みんな(下から)の判断によって評価が決定付けられていく。
同時に生存圧力の衰弱は、人々の社会空間への収束を必然化させる。事実、人類史では生存圧力が衰弱すれば必然的に社会空間へと収束するということを示してくれる。まず、哲学や科学や芸術等は生存圧力から解放された統合階級(or富裕階級)から登場した。また近世、生産力の上昇に伴う生存圧力の弛緩は、市場(都市)という集団を超えた社会空間を拡大させた。そして日本において貧困が消滅した1970前後、社会運動(全共闘運動、反公害運動など)が著しく活発化し、世界放浪の旅に出向く若者が激増した。
何故か。人類の最大の活力源は同類圧力である。従って、人類にとって最大の関心事は、同類他者であり、とりわけ未明の対象ということになる。
生存圧力が強い時代には、最大の課題は生存課題であり、生存を確保するための集団(内)に主要な関心が向かざるを得ない。だからこそ生存圧力の桎梏から解放されると、必然的に集団を超えた社会空間に関心が向かうのであろう。
人々の社会収束が現実化すれば、必然的に集団を超えた社会的評価の空間が登場し、社会共認が顕在化する。そして、社会的な共認(評価)闘争を生み出し、それこそが最大の引力を持つこととなる。
この人々の社会収束→社会空間の登場と拡大は、その副産物として社会共認の担い手マスコミの発達を必然化させた。
そして、このマスコミは今や政治家や財界を上回る第一権力へと君臨している。換言すれば、既にマスコミはすでに国家や市場を越えた存在となっている。
(画像はコチラからお借りしました。)
以上見てきた様に、共認闘争によって私権闘争を止揚しうる条件(実現基盤)は既に整いつつある。そして社会的な共認形成の場が国家や市場を既に上回るという状況も既に現実化させている。
従って、あとはこのマスコミという一方的な洗脳機関を、本来の双方向の「みんなの共認形成の場」に転換できるかどうかだけが問題となるのだ。
次回のエントリーでは、それを現実化させる実現基盤=意識潮流がどこに向かっているのかを見てゆきたい。
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