『超国家・超市場論 第11回』 ~生存圧力に基づく同類闘争から、同類圧力に基づく同類闘争=認識競争へ~
本シリーズでは、国家や市場を超える新しい社会統合機構について展開した、「超国家・超市場論」を連続して紹介している。
(画像はコチラからお借りしました。)
前回のエントリーでは、人類は生存圧力を克服し最大の外圧が生存圧力を背景にした私権闘争から同類圧力(社会からの期待圧力と評価闘争)に転換したことで、人々の関心が社会へ収束し共認闘争(評価競争)が、私権闘争を凌駕する(評価闘争に勝てば、私権闘争にも勝てる)位置に既に来ていることを明らかにした。
しかし、現在はその社会的評価共認を独占し、一手に担っているのがマスコミである。その意味ではマスコミは既に国家(官僚体制)や市場を越える存在となっている。今回は、現在「マスコミに代わる新たな共認形成の場」が顕現化していくその実現可能性基盤を探っていきたい。
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共認形成の場が顕在化し拡大してゆく実現可能性があるのか否かは、人々が認識収束するのかどうかということとほぼ同義であり、認識収束が始まれば、認識追求とその評価競争の場である認識形成サイトが、何ら新しい認識を生み出せないマスコミを、必然的に凌駕する場となってゆく。
ではこの問題を扱う上で、重要な切り口を提示している投稿を、まず紹介したい。
‘70年代貧困の消滅から90年代の私権崩壊が人々の収束不全を引き起こし、本能を直撃、20年の蓄積を経てまず収束したのが秩序収束である。そこ
では若者に代表されるように共認収束を経てまずは人=仲間収束した。
その後、02年以降私権崩壊が決定的になると、仲間収束だけでは納まらず、課題収束を引き起こす。遊びどころではないという状況から仕事や勉強という課題に向かった。しかしそこでの課題収束とは不安発ではなく「役に立ちたい」「喜んでもらいたい」「評価が欲しい」といった充足発である。この充足発の課題収束はしばらく続き、現在の充足基調を生み出し、なんであれ充足したものが勝っていく時代に入ってきている。
この充足基調によってそれまでの(私権時代の)代償充足である解脱充足、遊びといったものが、ほとんど姿を消し、仲間達と成果を生み出し充足するといった課題充足の地平に移行してきた。
そして現在、その先にようやく向かおうとしている。
その充足を仲間や身近な処から社会空間に広げていく過程である。
この段階がようやく認識収束、観念収束の地平になる。
┌本能─┐ ┌共認─┐ ┌観念─┐
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収束不全===⇒秩序収束===⇒課題収束===⇒認識収束
70年 90年 10年 ?年
「課題収束を社会空間に広げていくきっかけも「充足」である。」より引用
‘70年に貧困が消滅し、生存圧力が衰弱すると、人々はそれまで万人の収束先であった「私権(地位やお金)獲得」の目標が曖昧となり、収束先を見失い、社会は迷走状況に陥っていく。そしてそれまでの序列体制に基づく序列秩序は崩壊し、社会秩序はガタガタとなっていく。即ち、国家は赤字まみれとなり、企業の指揮系統は衰弱し、家庭における家父長件は消えうせ、家庭は真っ当な教育能力を失っていく。この状態を収束不全と呼ぶ。
社会的な目標が見失われ、統合軸を失った社会は本質的に秩序崩壊の危機にあるが、上記投稿はこの収束不全の危機を受けて、人々がどちらの方向に舵を切り、どのようにして秩序を再構築していくのかを最も根底的な地平から明らかにしている。
①「本能次元」の秩序収束
(対立と協調:画像はコチラとコチラからお借りしました。)
‘70年生存圧力の衰弱がもたらした収束不是の状況下で、人々が真っ先に向かった方向は、安定志向である。具体的には、対立よりも調和、冒険や挑戦よりも安定といった意識潮流である。それは具体的には反体制・反権力(その象徴が60年代末の全共闘運動)意識の急速な衰弱や労使対立から労使協調への転換であり、マイホーム主義の蔓延である。
この安定志向の潮流は、バブル崩壊後の秩序崩壊の危機に直面するや、その延長上でついに、秩序収束とも呼ぶべき意識潮流を顕在化させる。具体的には公務員志向や、資格志向であり、マナーファシズムともいえるセクハラ叩きや嫌煙権の喧伝、更には厳罰主義の潮流である。
この安定志向に始まる秩序収束は、収束不全という危機を受けて、いわば本能的にそれに対応しようとしたものである(生物には秩序本能とも呼ぶべき本能が明かに備わっており、同類の対立を抑制するのはその典型的な現われの一つである。)
しかし本能的なものとは言え、人々が、社会収束・認識収束するのかという観点から見て注目すべきは、人々(一般庶民)が社会秩序の再構築に主体的に参加し始めたという事実である。
(遊びと課題:画像はコチラとコチラからお借りしました。)
②「共認次元」の課題収束
それに平行して顕在化したのが85年代中盤以降の共認(充足)収束の大潮流である。それは若者における仲間収束や、中高年における家庭収束(家庭における共認充足への収束)としてまずは顕在化した。
私権時代は万人が敵であり、共認充足は抑制封印されていた、しかし私権闘争が衰弱するとともに、共認充足が徐々に再生され始め、共認充足こそが人々の中で、第一価値となってゆく過程である。
それにつれて、とりわけ若者を中心に課題収束の潮流が(’00頃から)顕在化する。
それはまず、大学生の授業出席率が急速に上昇したことから顕在化した(それまでは大学はレジャーランドと呼ばれており、授業に出る学生はバカにされていた時代さえあった)。それは当初は経済危機を受けての既成秩序への収束いう側面が強かったが、次第にそれは(仕事や課題を通じて)人の役に立ちたいという、より共認充足発のそれへと転換し始める。例えば就職における、社会貢献の比重の増加であり、介護や農業など社会の役に立つことが実感できる仕事への志向である。そして、この課題収束の潮流は、8割以上の人々が「デートよりも仕事」という職場意識を、既に作り出している。
人々が認識収束するのかどうかという観点から見て、この課題収束が注目されるのは、課題収束、仕事収束が進めば、とりわけこの不透明な状況下では、新しい答えが必要となり答え探索が始まり、答えが出せる人間に期待が集まる(評価も当然集まる)ということである。
③「観念次元」の認識収束は顕在化するのか
(社会企業家:画像はコチラからお借りしました。)
サルは本能では同類闘争に対応できなかったがゆえに、本能を超えた「共認機能」を生み出した。人類は過酷な自然圧力に、本能や共認だけでは対応できなかったがゆえに、本能を超えた「観念機能」を作り出した。
収束先が失われたというのは人類史初の出来事であり、その意味で人類は、ゼロからの適応を模索しているとすれば、人類が進化史の中で自らを形作って来たように、本能機能⇒共認機能⇒観念機能の順に探索を塗り重ねていくことになり、上記の様に本能・共認回路上の探索が既に開始されているとすれば、次には観念探索が開始されるのは、必然ともいえる。
これが原理構造上の一つの大きな実現基盤である。
事実現在の意識潮流は、課題収束⇒答え期待までは顕在化しており、答え探索がおそらく既に開始されている。しかし、課題収束(仕事課題への収束)だけでは観念探索や認識収束は顕在化してこないのも事実である。何故なら顔が見える集団内の統合だけなら共認機能だけでも十分であり、真に観念を必要とする地平は、社会統合の次元だからである。従って、認識収束は、社会(への可能性収束)収束を条件とするからである。
その意味では、前回のエントリーで明らかにしたように、生存圧力の衰弱は社会収束を必然化させるのであり、認識収束は構造上必然である。
ではこの認識収束はどのようにして顕在化するのだろう?ここから先は未来論だが、一つの可能性を提示したい。
市場の縮小と既存企業の行き詰まりは、必然的に新分野への新事業と何よりも新分野での起業を必然化させる。新事業の開拓や起業のためには、何よりも時代の流れと意識潮流を読むことが必要になるが、既成観念はその地平では殆ど役に立たない。従って先駆的な人々から観念探索⇒認識収束が開始され、新たな突破口が提示されるたびにその裾野が広がってゆく。
平行して、社会の混迷がますます深まり、それまでの手本であったアメリカの力が衰弱する(場合によってはアメリカ経済が崩壊する)につれて、特権(統合)階級(官僚・マスコミ・学者)の暴走と無能振りがますます明らかになり、既存の統合階級では駄目だとする人々が、既成勢力に取って代わるべく新認識の探索=理論追求に乗り出す。
そうなれば、より新しい可能性を提示する、新認識を巡る理論系サイトはマスコミ(と大学)に代わる新しい認識形成機関に、必ずやなるであろう。
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コメント2件
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