2011年08月24日

企業を共同体に変えるには?4~民主主義=会議というのは固定観念、対面会議の欠陥を超えて、全てをネットへ~

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この画像はこちらよりお借りしました
毎日のように参加している会議について深く掘り下げて考えると、意外と思える本質的な欠陥が見えてきました。会議は、みんなの合意を取り付ける重要な位置にあり、欠陥があるなど正直今まで思ってもいませんでした。今回はその会議の欠陥について取り扱ってみたいと思います。
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◆未明課題を扱う会議は、決して定例化してはならないようです
対面会議の原型は、敵を前にし緊迫した状況の中で開かれる臨戦会議と考えられます。現在の会議のようにソッポを向いている者はいないし、会議にもたれかかったり、ぶら下がったりする者もいなかった。
この会議に近いのが、定型課題を扱うミーティングです。ところが対面会議は、答えに容易に辿りつけない未明で難解な課題を扱うのには、問題があるようです。
るいネット「民主主義=会議という固定観念」より

とりわけ、最悪なのは、未明課題を突破すべき長時間会議が、定例化されているケースである。そうなると、答えを出せない大半の指揮官の下で、もたれ合いorぶら下がりが常態化する。それどころか、もっと恐ろしいことに、(何であれ対面会議は、何らかの共認を形成するので)当初の課題からズリ落ち、劣化した方針の共認が形成されてしまう。
要するに、各部門ごとに定例化された長時間会議を設けると、(本来は、皆に開かれた場である筈の)会議の場それ自体が、全社or他部門に対する密室空間そのものとなる。そして、全社課題に背反するorズレた共認集団が形成される。これは、営業的にも体制的にも、企業(全社)統合にとって、致命的な問題を発生させることになる。
冒頭に述べたように、会議の生命は課題の臨戦性にあり、未明課題を扱う会議もあくまで必要に応じて召集されるべきものである。従って、未明課題を扱う会議は、決して定例化してはならない。

◆そろそろ民主主義=会議という固定観念を見直すべき時がきたのではないでしょうか
民主主義といえば誰もが国会等の会議を思い浮かべると思います、その会議が民主主義と同じく誰もがその意義や存在を疑いもしませんでしたが、実は本質的な欠陥がある疑いが濃厚となってきました。

これまで、人々は、ホームルームから国会に至るまで、民主主義といえば「会議」と思い込んできた。ところが、どの会社でも、対面会議は上からも下からも嫌われ、厄介物となっているのが現実である。それも当然で、これまで述べてきたように、対面会議には様々な構造的欠陥が刻印されており、そろそろ民主主義=会議という固定観念を見直すべき時がきたように思う。

◆対面会議の欠陥を突破する場は、全社会議orネット会議の場ではないでしょうか
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この画像は「共同体 類グループの挑戦」「ブログdeなんで屋@東京」よりお借りしました
るいネット「集団統合の新たな仕組み:対面会議を超えて、全てをネットへ」より

サル~人類を貫いて、6000年前ぐらいまでは十全に機能していた対面共認(および会議という様式)が、欠陥だらけとも云える様な機能不全に陥った根本原因は、6000年前頃に人類が単一集団社会を超えた多重集団社会に突入した点に求められる。
対面共認は、互いに顔の見える範囲の単一集団においては、(他に移れる集団など存在しないことも相まって)十全に機能していた。しかし、集団と集団がぶつかり、ひしめき合う複層社会では、集団が抱える課題の難易度(or未明度)が高くなると共に、成員間に課題意識の温度差が生じる。
それでも序列圧力が強ければ、上意下達という形で、対面共認はそれなりに機能する。そして、より重要な共認形成の場である会議は、御前会議に姿を変える。しかし、顔の見えない地方や各部門では、会議という場は中央や他部門にとって密室空間そのものとなり、劣化共認や私的共認の温床となる。その上、課題の未明度が高くなればなるほど(or末端部門に下りれば下りるほど)誰も答えを出せなくなり、成員の会議へのもたれ合いやぶら下がりが常態化してゆく。
これらの欠陥を突破する場は、全社(劇場)会議orネット会議以外にはない。全成員が一堂(or一板)に集まれば、密室化を完全に防げるし、10人では答えを出せなくても50人なら答えを出せる(更に、50人では答えを出せなくても300人なら答えを出せる)度合いが高くなるからである。とりわけ、ネット会議は、成員の課題意識の温度差(という歴然たる事実)を包摂したまま、(問題意識の高い2~3割が率先して発信することによって)共認を形成してゆき、次第に全成員を巻き込んでゆくことが可能な力を持っている。従って、全社会議やネット会議によって、対面会議の欠陥の大半は、突破されるだろう。

◆このネット会議を「答えを出せる」もっと広い社会的な統合サイトとリンクさせることではじめてその機能を十分に発揮するのではないでしょうか
いつの時代でも最も活力を生み出すものは、可能性収束の力です。現在、最も可能性収束力があるものが、社会的な役割とすれば、広く社会に向かって発信し、社会的共認を形成してゆく場が不可欠になります。

しかし、社内で全員参加のネット会議が形成され、定着したとしても、それだけでは不十分である。なぜなら、現代(とりわけ、’04年以降)は、誰もが心底に収束不全を刻印され、「どうする?」という答えを求めて社会収束してゆく時代であり、社内のネット会議だけでは、社会的な広がりが感じられないからである。
いつの時代でも、最強の活力(引力とも云える)を生み出すのは、可能性収束の力であるが、現代、それが社会的な役割への可能性収束力であるとすれば、広く社会に向かって発信し、社会的共認を形成してゆく場が不可欠になる。その場が、社会に開かれたインターネットであることは、云うまでもない。
従って、類グループがそうであったように、おそらく社内のネット会議は、「答えを出せる」もっと広い社会的な統合サイトとリンクして、はじめて十全に機能するのではないかと思う。

会議の欠陥からネットへの流れを見てきましたが、次回は指揮系統の欠陥について扱ってみたいと思います。

List    投稿者 toshi | 2011-08-24 | Posted in 07.新政治勢力の結集に向けてNo Comments » 

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