2009年05月19日
日本のマス・コミュニケーション史-3~明治後期のメディア~
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■商業新聞への転換
政党の解散或いは衰退によって、政論を主とした大新聞は、経営方針を改革して商業新聞への転換を計っていった。
明治19年「郵便報知」矢野文雄
①論説記者の自由執筆をやめ、矢野自ら監督、探訪をやめ教養ある人に取材させ外交員と名付けた。
②紙幅縮小・小型化
③紙面の大衆化:文章を平易に振り仮名を用い漢字を制限、連載小説掲載
④販売方法を改善:地方前金申込み・東京は直接配達制、料金引き下げ
発行部数:19年:6,700部→20年:12,000部→21年:22,000部
明治21年「東京朝日新聞」東京進出。大阪の「朝日」:村山龍平→「めざまし新聞」買収
創刊号には本誌4ページ+付録6ページ:明治天皇の肖像を載せ読者を驚かせる。「郵便報知」より安価+半年間はその半額。鉄道馬車買い切り無料で乗車させた。
これに対し、東京の17社は不買運動を展開→新聞売捌所に「東京朝日」の販売停止通告。5店の内4店が「東京朝日」の直属店へ寝返った。
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日本のマス・コミュニケーション史-2~明治中期のメディア~
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■西南戦争と新聞
1877年(明治10年)の西南戦争は新聞界に大きな変化をもたらした。西郷隆盛の威望とその去就に関心を抱いていた民衆は、戦況を一刻も早く知ろうと競って新聞を買い、新聞は飛躍的に発展した。
西南戦争にいは各社は競って特派員を送って報道の万全を期した。
「日日新聞」の福地源一郎は、「戦報採録」として20回前後にわたって掲載。明治天皇に戦地の状況を奏上するなど活躍。
「報知新聞」の犬養毅も「戦地直報」として104回連載。
西南戦争の報道で注目すべきは、西郷隆盛の戦死のビッグ・ニュースを即日「読売新聞」の号外で読者に知らせたこと。
内務省図書局調査による全国新聞の発行部数
1年の総発行部数 1日の発行部数 人口1万当りの部数
明治7年 8,370,269 23,306 6.90
明治8年 15,897,680 43,555 12.95
明治9年 28,979,049 79,395 22.44
明治10年 33,449,529 93,286 26.00
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日本のマス・コミュニケーション史-1~明治期以前から明治初期のメディア~
写真はこちらからのいただきました。
日本のメディアの歴史について1970年に出版された『日本マス・コミュニケーション史[増補]』(山本文雄編著 1970年 第1刷発行、1995年 増補版第6刷発行)という書籍を紹介します。
●明治期以前のメディア
■外国新聞の翻訳新聞(官板新聞)のスタート
・1862年(文久2年)1月:日本最初の新聞である「官板バタビヤ新聞」発行(→「官板海外新聞」(改題))
バタビヤのオランダ政庁の機関紙「バヤッシェ・クーラント」の外国記事と題する国別記載のニュースを蕃書調所(後、洋書調所と改称)という翻訳機関を設けて発行した。
長い間幕府要路者の独占していた海外情報を開放したのは、攘夷論が盛んだった当時、開国論にイデオロギーを統一する必要に迫られ、その政治的宣伝機関としての新聞の発行に踏み切ったと考えられる。
■外字新聞と外国人経営の邦字新聞
・1862年(文久2年)外字新聞「ナガサキ・ショッピング・リスト・アンド・アドバイザー(のちの「ジャパン・ヘラルド」)」が、ジョン・レッディ・ブラック(のちの日本新聞界で活躍)を主筆として創刊される。
これを契機に外字新聞が10数紙生まれた。いずれも在留外国人を対象としていたが、治外法権の特権から日本の政治批判も掲載された。
日本の初期の新聞は、官板新聞からスタートしたが、実質的には外国人によって開拓された。宣教師であれ商人であれ、新聞がニュースを主要な内容とすることを示唆したのは、これら外国人に負うところが大きい。
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