共同体社会の実現に向けて-6~実現論 序2.私権時代から共認時代への大転換(その2) ~
これまでのシリーズ
共同体社会の実現に向けて-1 ~実現論 序1. 近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機~
共同体社会の実現に向けて-2 ~実現論 序1. 近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(その2) ~
共同体社会の実現に向けて-3 ~実現論 序1. 近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(その3) ~
共同体社会の実現に向けて-4 ~実現論 序1. 近代思想が招いた市場社会の崩壊の危機(その4) ~
共同体社会の実現に向けて-5 ~実現論序2.私権時代から共認時代への大転換(その1)~ 【現実世界を動かしている力の構造】
皆さん、こんばんは。前回は、新しい社会を実現するために必要な認識として、【現実社会を動かしている力の構造】を明らかにしてきました。これまでの社会は「私権社会」、すなわち力の原理で統合されている社会でした。時と共に支配構造は武力支配から資力支配へと移り変わってきましたが、常に大衆は制覇力を持った支配者によって支配されるという、力の構造に押さえつけられてきました。
では、どうすればこの力の構造を突破していくことが出来るでしょうか?
現代は「私権社会」が終焉し、「共認社会」へと転換しつつあります。共認社会では、これまでの私権時代とは異なり、誰もが社会を創っていく可能性が開けました。今回は、その新しい社会の実現可能性について明らかにしていきたいと思います。
【力の原理から共認原理への大転換】
この世界を変えるには、現実を動かしている力の構造を解明するだけではなく、さらに、その力の構造を根底から突き破ってゆくような実現基盤が、発掘され提示されなければならない。
その実現基盤は、何か?力の原理が働くには、一つの大きな前提条件がある。それは貧困(飢餓)の圧力である。貧困の圧力が働いているからこそ、誰もが私権に収束し、力の原理が貫徹される。
実際、古代~近代を貫いて、紛れも無く人類は常に貧困の圧力に晒されてきた。だからこそ、力の原理が支配する私権社会になったのである。
これまでの国家や社会構造は、力による統合に着目する必要があります。
古代国家の起源をみると、略奪闘争→武力による制圧→序列統合国家の成立と、力の原理によって、秩序化され統合されてきました。
近代の市場社会では、力の中身が武力から資力に変化し金融勢力が社会を支配していきますが、一貫して力の原理で統合されているという構造は変わりません。
ところが’70年頃、先進国では物的な豊かさがほぼ実現され、貧困の圧力が消滅してゆく。その先頭に立つことになったのが、日本である。
貧困が消滅すると、私権を獲得しようとする欲求=私権欠乏が衰弱してゆく。
従って、物的欠乏も衰弱し、市場は縮小せざるを得なくなる。
また、私権圧力が衰弱すると、誰も必死に働こうとはしなくなり、全般的に活力が衰弱し、指揮系統も機能しなくなってゆく。
この私権の衰弱を象徴しているのが、労組の衰退である。実際、賃上げを主要な目的としてきた労働組合は、’70年、豊かさが実現するやいなやたちまち衰弱していった。その原因が、私権圧力の衰弱にあることは明白だろう。
しかし、それは同時に、私権欠乏に基づく、統合階級に対する監視圧力をも衰弱させることになり、その後の(特に’90年以降の)統合階級の暴走とその結果としての格差の拡大を許す原因ともなっている。
こうして、豊かさが実現されたがゆえに(私権の監視圧力が衰弱し)、格差が拡大するという、分かり難い社会が出来てしまったわけである。
私権衰弱の様子は、戦後の貧困の時代と、現代のメーデーの盛り上がりの違いを見ることで明らかです。
1946年食糧メーデー 参加者25万人 | 2010年メーデー 参加者350人 |
画像はこちらからお借りしました。 | 画像はこちらからお借りしました。 |
私権獲得に興味がなくなった大衆は、悪辣な手を使って私権をむさぼる輩がいても、見逃しがちな状態になります。これに乗じて私腹を肥やしていったのが統合階級です。2000年以降の小泉内閣が特に酷く、郵政民営化をはじめとした自由経済化を押し進め、弱者切り捨て政策を断行してワーキングプア層を作り出し、格差を拡大させたのは記憶に新しいところです。
貧困の圧力に基づく、私権を獲得しなければ生きていけないという否も応もない強制圧力=私権圧力の衰弱とは、力の原理の衰弱に他ならない。
力の原理が衰弱していけば、人々が、その強制から脱して、人類本来の共認原理に回帰してゆくのは必然である。(※共認原理とは)
かくして人々は、’70年以降、最も深い潜在思念の地平で、次々と私権収束から脱して共認収束を強めていった。
この共認収束の潮流は、半世紀以上は続く大潮流であり、現在は転換の途上であるが、すでに10年以上前から、大多数の人々にとって、周りの期待に応える充足こそが、(私権充足に代わる)最大の活力源になっており、いまやこの期応充足の土壌から生み出された課題収束が、最先端の意識潮流として、顕現している。
さらには、このような共認収束の大潮流の中から、共認原理に則った共同体を志向する企業も次々と生まれてくるようになった。
周りの期待に応えることで得られる喜び、充足感はとても大きいです。
この期待と応合による充足が活力源となり、みなで共通の課題に取り組む活力いっぱいの様子は、現在いろんな場面で見られます。
また、共同体を志向している企業には下記のような事例があります。
■株式会社ナチュラルアート ■有限会社てっぺん ■大起エンゼルヘルプ |
|
つまり、この40年の間に、人々は、もっとも深い潜在思念の地平で、私権収束から共認収束への大転換を成し遂げたのである。
それは、社会の根底的な統合原理が、私権原理から共認原理へと転換したことを意味する。物的な豊かさが実現された以上、私権収束⇒私権統合の社会が終焉し、共認収束⇒共認統合の社会、すなわち、人々が、状況を共認し、課題を共認し、規範を共認し、それらの共認内容に収束することによって統合される社会に移行してゆくのは必然である。
現在の、意識潮流の先に人々が求めているものも、間違いなく共認社会(古い言葉で言えば、共同体社会)であると言えるだろう。
子どもたちは、みんなでいっしょに考えて活動することが、いちばん元気が出るようです。
若者たちは、みんなの役に立てる仕事を仲間と一緒に担える場を求めています。
中高年世代にとっても、みんなと一緒に地域の役に立てる事が一番の活力源となっています。
いまや、子どもからお年寄りまで、あらゆる世代にとって共認収束が一番の活力源であり、人々が共認社会を求めるのは必然と言えるでしょう。
今回の内容をまとめると以下のようになります。
・豊かさが実現され、貧困の圧力が消滅したことにより、力の原理が支配する私権社会が機能しなくなった。
・人々の意識は、私権収束から共認収束に転換しており、社会を構成する集団の一つである企業においても、共認原理に則った共同体を志向する企業が次々と生まれてきている。
・共認社会とは、人々が、状況を共認し、課題を共認し、規範を共認し、それらの共認内容に収束することによって統合される社会。
・人々は間違いなく共認社会を求めている。
いかがでしたか?普段あまり意識していませんでしたが、実はみんなの意識は既に共認原理に転換しているというのは、大きな気付きですね。みんなでこの新しい潮流に乗っていきたいですね。
次回は、共認社会=共同体社会を実現していくために、【必要なのは地に足をつけた共同体企業の建設】について追求していきたいと思います。では、さようなら。
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コメント5件
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むらかみからむ | 2012.10.31 23:45
【古代史は石渡信一郎から始まる】
と信じています。ぜひ 以下の文 感想聞かせてください。。
『大和民族大移動』
*日本書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治*
失礼無礼きわまりない話ですが、あなたが家系図を作成するとして、
実は、あなたのおじいさんが泥棒だったら、あなたはどうしますか?
昭和18年に隣の酒屋から酒5升盗んだ人だと正直に書けないですね。
でも、良心の呵責から、なんとかして泥棒行為を書き残したいですよね。
簡単です。じいさんに弟があり その架空人物が、盗んだ事にしましょう。
おっと、じいさんの弟はお墓が無くばれますね。では干支60年古くして
明治16年に、ひいひいひいじいさんの妹の夫が盗んだ事にしましょう。
書紀は天皇様の見事な万世一系の家系図を書いた推理小説です。
太古から日本を統治していた事としたい。でも本当の事も書きたかった。
そのため、架空人物を多数創造した。時代も原則60年単位で古くした。
これが、真実を残すために書紀が取らざるを得なかった編集方針です。
もちろん、真実そのままの事も、どうしても書けない真実もありました。
では、架空実在人物が新旧入り混じった小説からの真実の救出法は?
①実在したご先祖のお墓や使用物の年代を正しく求めましょう。
②貴重な金石文を正確に読みましょう。
③地名や人名の語源を冷静に考えましょう。
この3つを追求整理したあとで 初めて日本書紀を読むべきですね。
石渡信一郎は、まず先に、上記①②③を 徹底的に、探究しました。
①古墳や須恵器・土師器・埴輪の絶対年を正しく定めました。
(過去の気象や磁気の変化を考古学の原則で追及した後に)
例えば、弥生後期(5期)は260年頃から350年頃までとしている事
及び 稲荷山古墳550年頃 で、鉄剣の辛亥年=531年
②七支刀・隅田八幡鏡・武寧王陵碑・稲荷山鉄剣を正確に解読した。
(すみません。解読結果詳細は石渡氏と林氏の本を読んで下さい。)
③地名人名の語源を音韻変化の基本原則にのっとり追求しました。
韓(カラ)⇒加夜(かや)・軽(かる)・茶屋(けや)・秦(はた)
大韓(カカラ)⇒大軽(おおかる)・各羅(かから)
南韓(ナムカラ)⇒難波(なには)・長柄(ながら)・中(なか)
東韓(スカラ) ⇒菅谷・早良(さわら)・日十(そか)・蘇我(そが)
大東韓(カスカラ)⇒飛鳥・春日・足柄・橿原・八幡(はちはた)
大東韓(キスカラ)⇒一須賀・石川・鬼前(きせ)・去来紗(いざさ)
大東韓(クスカラ)⇒樟葉・太秦・宇治(うじ)・太(ふつ)
昆支(コンキ) ⇒誉田(ほむた)
今では信者のむらかみからむですが、石渡論の理解に半年以上です。
通説の古墳年代の根拠を知らず、通説年代は当たり前の事でした。
即ち、誉田山も大仙古墳も5世紀初頭と 無意識に思っていました。
さらに、百済皇子余昆が書紀では昆支だという事を忘却してました。
その昆支が倭の5王の武で、誉田山古墳に眠る応神でもある。
その弟が継体であり仁徳でもあり仁徳から武列までは架空である。
獲加多支鹵は欽明であり継体の子ではなく昆支の子である。
その息子がアメノタリシヒコで用明で蘇我馬子で聖徳太子でもある。
とくれば、なんでもありの飛んでも説をよくもここまでまじめに書くなあ。
石渡信一郎も林順治も トンデル人だ。と思ってしまいますよね。
しかし、音韻変化の原則から『飛鳥の語源は大東韓(かすから)だ』
の説明を熱心に 語っている文章の迫力には心を打たれました。
で、稲荷山鉄剣の辛亥年=531年で古代史を語る人は誰もいない。
の文章を読んだ時、この理論が他説を圧倒する事に気づきました。
通説の古墳年代を無意識に受け入れていた私がトンでいたのです。
なんと、小6の私の息子の社会の参考書にも書いてありましたが、
通説は稲荷山鉄剣の獲加多支鹵大王を書紀の中の雄略大王として
辛亥年=471年としてた。これを絶対基準に古墳年代を決めていた。
ワカタケルは大泊瀬幼武じゃない可能性の追求が甘いままでした。
おかしな話ですよね。書紀の記述が真実かどうか検討しているのに
書紀の記述の大泊瀬幼武の実在は真実からスタートしていたなんて。
結果的に、通説での全古墳の絶対年は60年以上古すぎたのです。
4世紀前半は弥生時代で、古墳時代はAD350年からなのです。
これは寒かった弥生後期5期が260年~340年頃でも裏付けれます。
『通説の古墳年代を 60年以上新しくして古代史を見直すべき』
との提案が石渡説の基本で他説との相違点で最重要ポイントです。
これが理解できないと石渡論はトンでる空想物語になります。
では、531年の根拠は?『完本聖徳太子はいなかった760円』より
①草冠ぬきの獲の字は 中国でも6世紀に初めて使用した。
②発掘関係隊長の斎藤忠も副葬品(銅わん等)から 531年説。
③稲荷山古墳と同年代の野々上窯の熱残留磁気測定結果。
④少し新しい江田船山古墳履が武寧王の墓の履と文様が似る。
石渡論は辛亥年=531年で須恵器や土師器や埴輪の年代を求めます。
典型例は『須恵器大成(田辺昭三)』を60年新しくしている事です。
で、全国の主要古墳年代を通説より基本的に60年新しく求めます。
さらに古鏡&刀の金石文と中国の文献で実存した人物の中から
その生存&死亡時期と照らし、各々の古墳披葬者を選び出します。
これで書紀に全く頼っていない石渡論の基本年表が完成します。
古墳------年代----被葬者
①箸墓-----385年頃-倭王旨(七支刀)
②渋谷向山古墳-410年頃
③行燈山古墳--430年頃-倭王讃(宋書)
④五社神古墳--440年頃-倭国王珍(宋書)
⑤中ツ山古墳--450年頃-倭国王済(宋書)
⑥石津山古墳--475年頃-倭国王興(宋書)
⑦誉田山古墳--510年頃-倭王武・余昆(宋書)・日十(隅田鏡)
⑧大仙古墳---520年頃-男弟王(隅田鏡)
⑨見瀬丸山古墳-570年頃-獲加多支鹵(稲荷山鉄剣)
⑩太子西山古墳-585年頃
⑪石舞台古墳--620年頃-阿毎多利思比孤(隋書)
⑫天武陵(旧)-645年頃-ワカミタフリ(隋書)
⑬持統陵(旧)-645年頃
で、ここから初めてこの年表を書紀の記述と照らして検証していきます。
このとき、先述の音韻変化の原則から求めていた語源が役に立ちます。
コンキ⇒ホムタ や スカラ⇒ソガ や ウズ⇒フツは典型例でしょう。
こうして以下の本当の大王様の家系図の一覧表が探し出せました。
古墳---被葬年-本名-書紀の中の名前【家系図】
①箸墓---393-旨-ミマキイリヒコ【初代】
②渋谷向山-409-?-イクメイリヒコ【①の子】
③行燈山--438-讃-イニシキイリイコ【②の子】
④五社神--442-珍-ワカキニイリヒコ&ワカタラシヒコ【③の弟】
⑤中ツ山--462-済-ホムタノマワカ&尾張連草香【③の孫】
⑥石津山--477-興-カワマタナカツヒコ&凡連【⑤の子】
⑦誉田山--507-武・日十・余昆-昆支&ホムタワケ【⑤の子の婿】
⑧大仙---531-男弟-ヲホト&オホサザキ【⑤の子の婿。⑦の弟】
⑨見瀬丸山-571-ワカタケル-アメクニオシヒラキヒロニワ&蘇我稲目【⑦の子】
⑩太子西山-585-?-ヌナクラノフトタマシキ【⑨の子】
⑪石舞台--622-アメノタリシホコ-タチバナノトヨヒ&聖徳&馬子【⑨の子】
⑫旧天武陵-645-ワカミタリフ-善徳&蘇我蝦夷【⑪の子】
⑬旧持統陵-645-?-蘇我入鹿【⑫の子】
大和民族は『うるわしの土地』を求め大陸から大量に移動してきました。
まずは西暦330年頃から半島南部を、460年頃からは百済を通って。
1回目の代表は旨(崇神)、2回目は武(応神)&男弟(継体)です。
で、各々の起因は1回目が楽浪郡の崩壊、2回目は高句麗の南下です。
書紀の隠したこの事実は、現代日本人には小説(書紀)よりも奇です。
というより、受け入れがたく、石渡論を無礼者と思いますよね。
しかし、考えようによっては当たり前だったのではないでしょうか?
大陸は寒かった。温暖な飢えない日本列島は『うるわしの土地』だった。
新羅を置き去り、自ら大和民族大移動し、海を渡り来ていたのですよね。
さあもう21世紀です。石渡論が世に出て4半世紀も経ってしまった。
ぼちぼち古墳を60年新しくして、真実を考え、受け入れませんか?。
隣家の酒樽から酒5升分のお金が入ったじいさんの名前の財布が
見つかった。稲荷山古墳の鉄剣・隅田八幡鏡・七支刀のことですよ。
じいさんはお酒を飲んでお酒を買いに行き転んだ。よかった。無実です。
ひいひいひいじいさんに妹夫妻はいなかった。雄略大王もいなかった。
まだまだまだまだ書きたいことありますが 最後にまとめを書きます。
石渡論は古墳年代を正しく求めスタートします。そのあとで書記です。
ところが 不幸な通説は架空雄略大王の実在からスタートし迷走中。
石渡信一郎が真にすばらしいのは 日本書紀編集者たちが持つ
・ひとりの実在人物をふたり・さんにん・・と分けざえるを得ない苦悩。
・架空大王をひとりふたり・・30人31人と創造せざるを得ない苦悩。
・時代を60年120年180年240年・・神話へと古くせざえるを得ない苦悩。
すなわち、『真実が書きたい』と言う叫びを痛切に理解している事です。
見事な万世一系の筋書とは異なる飛んでた真実があるのだから
書紀は真実を書けば書くほどでたらめになる自己矛盾を持つ。
書紀は でたらめではない。でたらめにならざるを得なかった。
石渡説がトンでるのではない。飛ばされた真実を探しているのです。
『飛ばして申し訳ないという良心の呵責を持った家系図』も眠るはず。
これを見抜き信じるから、真実が救い出せるのです。すばらしいです。
私は近日、以上を前書きに『大和民族大移動』という本を買きます。
石渡信一郎を東大か京大の古代史教授に推挙するために。。で、
副題は『書紀編集者の良心の呵責を見抜いた石渡信一郎と林順治』
で、聖徳太子と蘇我馬子と用明大王 そして アメノタリシホコは
すべて たった一人の人物です。その人を分けて書いているのです。
とにかく皆さん 両先生の本 読んで古代史考えましょう。で、早いのは、
『古代史の謎を探る』か『倭韓交差』か『むらかみからむ』でネット検索。