今こそパラダイム転換が求められる時』シリーズ-4~社会運動の総括2 社会運動の自己欺瞞~
こんにちは。
『今こそパラダイム転換が求められる時』シリーズ第4弾です。
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福島第一原発は、1号機が炉心溶融(メルトダウン)し、2、3号機も予断を許さない状況になっています。事態はなお進行形かつ悪化の一途を辿っています。政府やマスコミがひた隠しにしていた原発の悪化状況も、もうゴマカシが効かなくなってきています。
1 福島原発の現状:ミニ水蒸気爆発でウランが粉末状になって飛散か?
2 福島原発では、核爆弾のような”核爆発”は起こらない
3 福島原発は”爆発”しても、しなくても、長期的な危険度は変わらない
人々は潜在思念のレベルでは、すでにこの国が危機的な状況であることを感知していると同時に、放射能という未知の外圧を前に、正直言って今は無力な存在であることを思い知らされています。
これは、第3弾で言及したように、かつて圧倒的な自然外圧を前に、ただ祈るしかなかった始原時代の人類に酷似しているように見えます。その祈りに似た思いが今、静かに高まっているのを感じます。
今回は、その思いが、これからどこに向おうとしているのか見ていきます。
いつも応援ありがとございます。
今、その祈りに似た思いは、具体的な行動へなかなか結びつかず、一部では、デモをはじめとする旧い社会運動に向かっています。前回でも触れましたが、これでは、せっかくの可能性の芽もつぶれてしまうことになります。
この旧い社会運動は、かつて市場拡大の可能性が開かれた近世・近代に盛んでしたが、実は、この社会運動では、現実の壁を突破できないという構造上の欠陥があります。
それはなぜか。以下、るいネット必読投稿「社会運動の自己欺瞞」より引用します。
近世・近代に至って市場拡大という現実(自我・私益の拡大)の可能性が開かれると、現実否定の感応観念の内部に自我・私益が取り込まれ、倒錯観念は自我・私益を正当化した欺瞞観念(恋愛・人間・自由・個人etc)に姿を変えた。とりわけ、「権利」とはただ要求することを正当化した架空観念である。
しかし、近代思想家は古代宗教家と同じく、現実そのもの(=自我・私益・力そのもの)を直視しようとはしなかった。なぜなら、それらの都合の悪い本質部分は、あくまで否定すべきものとして捨象したからである。そして、開かれた現実の可能性を、欺瞞観念(恋愛・人間・自由etc)の実現の可能性だと都合良く錯覚した。これは、明らかに「現実」のスリ代えである。
しかし、(スリ代えられたものであっても)「現実」の可能性が開かれた以上、その出口を塞いでいる身分制度を解体すれば、「当然」新しい社会を実現することも可能に見える。こうして、社会運動が登場した。
近世・近代に興った社会運動は、一見、旧い社会を解体し、新しい社会を出現させたかのようですが、そうではなく単に運動者らの私益獲得の拡大を実現させただけでした。建前は「社会のため」を謳いながら、本心は「私益獲得=自分第一」を求めている。社会運動には、こうした自己欺瞞が内在しているのです。
●しかし、都合の悪い現実を捨象している限り、意識と存在が断絶した自己欺瞞の運動になることは、古代の思想運動と変わらない。(注:半ば現実に開かれているが故に、その欺瞞性がより強く意識される)
●また、都合の悪い現実を捨象している限り、現実から乖離した思想(or社会)が実現される事は有り得ない。
●社会変革と云いながら、社会の構造については(あるべき社会の空想図以外)殆ど何も考えていない(注:これも古代以来の現実否定⇒現実捨象の倒錯思考の故である)。
そこにあるのは、単に自らの欺瞞観念の出口を塞いでいる身分制度や資本制度を破壊せよという要求だけである。つまり、単に自分に都合の良い要求をつきつけることを、「社会を変えよう」という言葉にスリ代えただけである。
●つまり、「社会変革」という言葉それ自体が、欺瞞観念なのである。だからこそ、人々は「社会運動」の奥に、何かしらいかがわしさを嗅ぎ取ってきたのであろう。又、だからこそ、「社会変革」の旗の下には、壮士~活動家に至るまで、(ごく少数の例外を除いて)自己欺瞞の強い不満分子しか集まらなかったのである。(注:この点は、現在、ネット上で社会系サイトに発信している者たちも、大半が同根である。)
社会運動を総括する上で、以下のリンクも参照ください。
『史上、社会運動が一度も実現されなかった必然』
『既存の「社会運動」という運動は幻想だ』
社会運動がこのように全く実現されなかった原因を、再度整理すると、
1.意識と存在の断絶(本心は私益を欲しているにもかかわらず、建前として社会善化を謳う)
2.現実から乖離した思想に立脚(自由や平等という決して実現しない思想に立脚)
3.社会の構造を殆ど考えていない(理想郷としての空想図くらいが関の山)
以上の3点に括ることが出来ます。
これらに対して、貧困を克服し、充足基調⇒本源収束の時代となった現在の人々は、自分のことよりも、まわり・みんな・社会の充足を第一に考えるようになりました。それは以下のようにまとめることができます。
人々は、今や人より多くの私益を求めることに(自我に立脚しても)、活力を見出せない。
人々は、あるべき理想よりも、事実や具体的な情報・突破口を渇望している。
人々は、周りの人たちが何を考え、何を求めているのか知りたいと思っている。
さらに原発事故を受けて、人々は「社会みんなのための充足とはなにか?」というまさに本源収束を加速させていこうとしています。
かつて人類は、祈りの先に、精霊(=自然の摂理や法則)を見出し、それを基に観念を生み出しました。
現在の人々も、観念を生み出した時の人類のように、今の状況を注視し、事実と、その先の突破口を見つけたいと思っているのではないでしょうか。
ネットでは、ブログもツイッターも、明らかに原発や放射能汚染の状況を、あらゆる情報を駆使して、鮮明にしようとしている人たちが多くおられます。しかもそれは原子力に精通している専門家ではなく、普通の人たちなのです。自分ひとりではどうしようもない程の不全状態でも、ネットでつながることで、その困難を共有でき、そのことが、「どうする?」と可能性を追求していける原動力となります。
これは、かつて真猿が、恐れや危機逃避を乗り越えて、プラス共認収束し、闘争集団を形成してく過程のようでもあります。 (実現論)
人々は今、どうしようもない状況に遭遇しているが故に、現実否定発の自我・私権にまみれた観念の無効さを感じ取っています。さらには、連日の政府やマスコミの報道と、自分達の実感との乖離にも気付いており、政府やマスコミといった従来の機関は、全く頼りにならないこともわかっています。
これが、人々の事実収束を加速させる契機となるでしょう。
「報道と実感の乖離から事実収束の大潮流が巻き起こる!?」
一方で、ネットでの原発関連の書き込みや、対面での会話では、単に「原発はダメだ」という否定意識の論調でいくら語っても、人々は共感しないどころか嫌悪感まで顕わにします。それは、現実否定意識を嗅ぎ取って、そこに可能性がないことを感じているなによりの現象と言えるでしょう。
つまり、現実を直視した上で、突破口を探索しようとする過程に入ったと言えます。
今や、人々はこの厳しい現実を直視した上で、事実を知り、そして今後どうするのか、という可能性探索に向かっているのです。
時代はすでに「現実否定から現実直視」へと、「欺瞞観念から事実認識へ」と転換している。それは思考パラダイムの転換と、事実を追求し可能性を見出すための観念への欠乏、即ち観念収束がまさに急加速していることを意味しています。
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コメント4件
unimaro | 2012.04.07 19:26
お疲れ様です。
支配者には資質が必須です。
今の世、支配者に「なってもらいたい」人たちは?
と考えたら(首相とか大統領ではなく、絶対権力者=支配者、です)、、、、
日本の天皇
タイのプミポン国王
が、私の少ない知識の中で、民草を考えて善政を行ってくれる方々だと信じられます。
それくらいです。
我々愚民には、支配者=主権者、になる資質は全く無いと愚考します。
とてもそうだと思いたくない事実があったとしても、それを直視しなければ、「正しさ」はありません。
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http://jordansshoeses.bloggersdelight.dk/ | 2014.03.12 23:10
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Hanako | 2012.03.24 0:36
非常に感動しました。
日本人の心底に流れる意識を的確に分析されているとおもいます。
こういった認識をほんとにひとりでも多くの人に伝えていきたいとおもいます。
ありがとうございました。