構造認識の現況3 既成観念の全的否定
(コチラよりお借りしました。)
前回に引き続き、るいネットの投稿「構造認識の現況」シリーズを紹介する。
前回(10月7日)までのエントリーで、以下の構造を明らかにした。
①古代・中世から近代市場社会への移行に伴い、集団を超えた社会空間を捉える必要が生まれ、構造認識の追求が進んだ。しかし貧困と抑圧の現実の前に、「否定と自我」に基く、誤った構造認識しか生み出せなかった。だから近代思想は現実を切り開く武器とならない。
②70年以降、貧困の消滅により、構造認識=近代思想は大衆から見捨てられた。
しかし社会が共認原理へ転換したことにより、発信階級であるマスコミ・学者は第一権力として君臨した。そして大学人の特権化が進み、現代の構造認識=近代思想は知識人たちの飯の種としてのみ残存し続けている。これが現代の構造認識の現況である。
では、この否定と自我に立脚した現状の構造認識(社会理論)から脱却し、現実を切り拓くための理論を作っていくには、どうすればいいのか?
今回は「構造認識の現況」シリーズ第3弾、既成観念の全的否定の紹介を通じて、その可能性を明確にしていきたい。
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5.’70年から始まった私権の衰弱によって、’90年頃からようやく人々の潜在思念が、否定や自我から離脱して、本源充足の可能性へと収束してゆく。
そこで、潜在思念が感じる可能性と、否定の裏返しにすぎない既成観念に対する不信をバネにして、既成観念(=自分の観念世界の全て)を全的に否定し、否定から実現へと思考ベクトルを明確に逆転できれば、思考は実現基盤を求めて必然的に潜在思念そのものを対象化=構造化して新しい『構造観念』を作り出すことが出来る。それは、真の探求者なら’70年からでも可能なことであった。
(学生運動。近代思想が最後の輝きを放っていた時代。)
既成観念とは、愛・自由・平等・個人といった、私権の現実を否定して架空の(現実に存在しない)理想状態を観念上で措定しただけの、都合のいい観念である。(宗教、近代思想とも共通の構造。詳しくはコチラ)。あるいは私権闘争を美化し正当化するための観念である(近代思想)。
ではこれまでの宗教や近代思想は、なぜ現実を否定することしかできなかったのか?
私権時代は万人が私権を共認し、私権に収束することによって成立した。従って、例え支配権力を倒したとしても、結局は私権圧力に基づく序列体制によって統合するしかない。(そのことは例えば民衆の解放を掲げた社会主義の末路を見ても明らかである)つまり万人が私権を共認している限り、私権の現実は変革不可能であり、その状況判断に立つ以上、古代宗教も近代思想も現実の否定と頭の中だけの理想に立脚せざるを得なかったからだ。
ところが70年以降、貧困が消滅し、私権圧力が衰弱したことで、万人が私権に収束するという私権時代を成立させていた前提条件が崩れ、遂に私権の現実を変革しうる可能性が生まれたのである。
従って、現実の下部構造が私権欠乏から共認欠乏へ変化した以上、後は残存する既成観念を全的に否定できさえすれば、自我と否定のパラダイムから脱却した新たな構造認識を生み出すことができる。そしてその構造認識によって新しい現実を切り開くことができる。
この、「現実を変革する、その実現基盤はすでに存在する」という現実の変化を、まず押さえておく必要がある。
しかし、その様な知識人は殆どいない。なぜなら、既成観念の全的否定とは知識人にとって自殺行為に等しく、全ての既成観念を否定して大学に留まれる訳がないし、一般企業にさえ居るのは困難だろう。
それは、潜在思念の実現回路が発達しており、現実の可能性を直観しているが故に特権知識階級への道を選ばず、現実を(否定も捨象もせず)直視し続けることができた者にしか、出来ないことである。
では、既成観念を「全的に否定」するにはどうすればいいのか?
まずは意識的に自らの頭の中に巣くった既成の観念群を、一つ一つ「意識的」に否定していくことが必要になる。
とりわけ既成観念の特徴は、価値観念、つまり、それ自体が善悪やこうあるべきという価値判断を孕んだものがその中核を占めている(例えば「自由こそ最高の価値」など)ことである。しかしこれらの価値観念は生物学的事実や歴史的事実に照らし合わせて、それが確かに正しいといえる根拠など一つもない。
従って自らのあらゆる観念(とりわけ価値観念)に対して、「はたしてそのように断ずる根拠があるのか?」、と一つ一つ問う作業となってくるであろう。
他方、普通の人々は全般的に観念を捨象して、潜在思念による充足可能性の実践模索に収束した。その結果、不全→課題も流産して、観念への期待圧力が極めて薄い状況が現出して終った。
しかし、不全(危機・閉塞)を完全に捨象し切ることは出来ず、もう一方では潜在思念の社会収束(つながり・やりがい志向や変革期待や社会探索・事実吸収)が強まってきている。
但し、自分で考えるのは無理で、もっぱら答えが与えられる事を求めている状況にある。
注:前者(探求者)と後者(普通の人)の違いは、既成観念を全的に明確に否定したか、全般的に何となく捨象したかの違いにすぎない。しかし、何となく捨象しているだけでは、無意識の内に既に染脳された既成観念に支配され続けることになる。従って、既成観念から脱却する為には、明確に否定し切ることが、決定的に重要になる。
そもそも、なぜ既成観念を「全的に」否定し切る必要があるのか?
人間の意識は観念によって統合されている。そして観念の観念たる所以は、瞬間瞬間に生起する流動的な意識内容を固定化することにある。しかしその際の問題は、その観念が現実からズレてしまった場合、誤った認識のまま思考が固定化され、思考内容を歪めてしまうことである。即ち状況判断が誤った方向に固定化されるばかりか、観念によって自らの肉体的欠乏にさえ蓋をしてしまうことにもなる。(観念で飯を食っている学者やマスコミが百年一日のごとく同じ事を繰り返しているのもそのためである。)
それに対して、確かに普通の人は既成観念を捨象し、日常的には殆ど使っていない。しかしそれでも学校やマスコミを通じて既成観念群は繰り返し頭の中に刷り込まれており、ものを考えた途端に(既成観念しか頭の中に存在しないがゆえに)その既成観念群に忽ち絡め取られてしまうことになる。
だからこそ、一旦は既成観念群を、なんとなくではなく、全的に否定し切ることが不可欠になってくるのだ。
そのように自らの中に巣くう既成観念群の解体を続けていけば、やがて最終的には本能・共認などに基づく純粋な潜在思念に基づく欠乏だけが残り、その純粋な潜在思念の欠乏を実現するために現実に立ち向かっていくことになる。一旦は「観念ゼロ」の地平に立ち戻ることが、今、必要であることを四方氏は提起しているのだ。
では次に、現実に立脚した認識を身につけていくにはどうしたらいいのか。それには現代人の意識構造がどうなっているのかを掴む必要がある。それを明らかにするために、次回は同じく四方氏のシリーズ投稿「思考次元」を紹介していきたい。
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コメント6件
unimaro | 2010.04.13 22:53
お疲れ様です。
いつも興味深い記事をありがとうございます。
さて、私は全くの素人で、その素人考えでしかありませんが、
モハメッドを”作り上げた”先生も、自ら悟りを編み出した釈迦も、「荒れた大衆社会に一定のモラルを作りたい」意志があったと思っています。
彼らの弟子たちが後々何をどうしたかは知りませんが、それが先生や釈迦の意志と同一とは考えていません。
日本でも神道というものがありながら仏教などを入れたのも「政治利用」かつ「民心把握(一種のモラルつくり)」だったと思います。
ただ白んぼ宗教はカルトでしかないと今でも思っています。
あと古代支那は宗教と勉強をいっしょくたにしている部分が多かったのですね。今回のエントリで教わりました。
ありがとうございました。
本郷猛 | 2010.04.20 21:46
unimaroさま、コメントありがとうございます。
遅くなって申し訳ありません。
>白んぼ宗教はカルトでしかないと今でも思っています。
確かに、儒教も仏教もイスラム教にも一定の本源性を感じますが、ユダヤ教→キリスト教の系統は邪まなものを感じざるを得ません。その当りは今後明らかにしてゆく予定です。
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!うにまろ!日記 | 2010.04.13 22:45
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