米国の圧力と戦後日本史14 ~米国の状況変化を逸早く押さえ、そこにつけこむことによって、沖縄返還を実現した佐藤栄作~
前回(米国の圧力と戦後日本史13)の記事では、米国が仕掛けた安保運動で岸が退陣させられた背景に、実は、右(自民)も左(社会)も米国の支配下に置かれてしまっていたことを見てきました。
岸の退陣後は、所得倍増計画を打ち出した池田、沖縄返還を実現した佐藤、と比較的長期政権が続きます。長期政権でいることの裏には従米政権であることが必要です。そこで今回は、60→70年代の日本がどのような対米戦略を採ってきたのか?を見て行きたいと思います。
■徹底した従米路線を採り、経済拡大政策に特化した池田首相
1961年、岸首相は退陣し、池田が首相の座につきました。
池田は、岸が首相だった当時、「安保改定と行政改定は同時に実施すべきだ」と発言してきましたが、政権獲得後は行政協定については一切触れず、徹底した経済拡大路線に転換します。こうして、池田の打ち出した「所得倍増計画」は、予想を上回るペースで進み、佐藤政権時代の1969年、その目標は達成されました。
この成功で、日本では、安全保障問題は棚上げにし、ひたすら経済成長を目指せばよいとう路線が定着しました。
★岸の後釜となった池田は、安全保障面では完全な従米路線を取り、経済政策に特化した。
■米国の経済状況は、ベトナム戦争で急激に悪化した。
日本は高度経済成長期に差し掛かり、誰もが私権を求めてまい進しました。
では、一方で米国の経済はどうだったのでしょうか?
第2次世界大戦後、世界中の金は米国に集中しており、米国は圧倒的な経済力を誇っていました。米国はその経済力を背景に、金だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドルを基軸通貨とする制度を作り、ドルを金とならぶ国際通貨にします。米国の豊富な金をもとに発行されたドルは、金と同様の価値を持ち、ドルと金を連動させて、ブレトンウッズ体制、金・ドル本位制を構築しました。
基軸通貨となったドルは、ドルを介して取引する全ての国の決済で必要になる為、世界中の国がドルを求めるようになります。結果、ドルは、必然的に、実態以上の高値で、推移することになります(ドル高)。そうなると、米国は他国の製品を割安で購入することが可能になってしまい、今度は自国の産業が衰退していきます。結果、米国の貿易赤字は、どんどん膨らんでいきました。
参考⇒【図解】基軸通貨の弱点構造
加えて、米国は、1960年代にベトナム戦争での大量支出や、対外的な軍事力増強などを行った結果、大幅な財政赤字を抱えることとなり、国際収支が悪化して、大量の金が海外に流出してしまいました。
★米国は、経済状況を立て直すことが最優先課題になります。
■佐藤栄作の沖縄返還交渉
そのような中、1964年11月、岸信介の弟である佐藤栄作が首相の座につきます。日本は高度経済成長のど真ん中でしたが、米国では、1960年に始まったベトナム戦争で、既に40-50億ドルの出費を被っており、米国内でも反発の声が出始めていました。
そこで、佐藤は、米国が経済状況を立て直すのに有利な条件(当時、日本最大の輸出品で米国産業を圧迫していた繊維の輸出制限)を提示することで、沖縄返還を実現しようとしました。
1965年8月、佐藤は当時米軍の占領下にあった沖縄を訪問、外務省との打ち合わせをすることもなく、下記声明を読み上げました。
「私は沖縄の祖国復帰が実現しない限り、わが国にとっての戦後が終わっていないことをよく承知しております。(略)私が今回沖縄訪問を決意いたしましたのは、なによりもまず、本土の同胞を代表してこの気持ちを伝えたかったからであります」
この当時、米ソ対立、米軍の北ベトナムへの爆撃、中国の核実験成功等から、沖縄基地の価値は非常に高く、佐藤自身もすぐに奪還出来るとは考えていませんでした。
しかし、1967年、佐藤は訪米し、ジョンソン大統領と会談、数年以内に返還することで大幅は合意します。当初は「本土並み」のみで、「核抜き」は難しいと考えられていましたが、佐藤はあくまで「核抜き」の決断を下します。そして、1968年の施政方針演説で、「核の保有をせず、もちこませず」を表明しました。
■ニクソン大統領就任で、ベトナム戦争終結へ。対日戦略が本格的に変化する。
佐藤と交渉を進めていたジョンソン大統領は一期限りで引退、1969年1月から大統領はニクソンに変更、本格的に、ベトナム戦争の終結に動きました。もし、ベトナム戦争が終わるなら、沖縄の重要性は大幅に縮小することになります。
この当時の状況をシャラーはこのように書いています。
「ニクソンは沖縄のことをいつ爆発するかもしれない火薬ダルだと評した。アメリカは日本側が受け入れられるような主張をしなければならないと考えていた。1969年1月、国家安全保障会議は対日関係の見直しを開始した。1969年3月、国家安全保障会議は、日本の要求をこばめば、琉球列島と日本本土の双方で基地を全く失ってしまうことになるかもしれないと報告した」
★これは、60年安保闘争が終結したとはいえ、国民の中に反米意識は残存しており、佐藤が煽った沖縄返還を実現しなければ、また反米闘争に火がつく可能性があったことを意味している。
★もし、そうなれば、米国を失うだけでなく、本土にある在日米軍基地までも失うことになりかねない。そうなるくらいであれば、実態として重要である在日米軍を置いたまま、沖縄を返還した方が得であると考えたのであろう。
1969年6月、「72年中に返還、核抜き、本土並み」という日本側の基本方針を伝え、米国も日本の条件を受け入れる方向で動くことになりました。
1970年には、日米安保条約の10年間の固定期間が終わることになっており、その後は1年後毎の自動延長が想定されていました。米国の対応は明らかに柔軟になります。
そして、1971年に沖縄は返還されます。しかし、米国は在日米軍の必要性を半永久的に残す ために、日本と中国との間での領土問題の火種=尖閣諸島問題を置き土産として残しました。この問題が残り続けているからこそ、在日米軍は常に必要不可欠である、という判断が日本政府に働き続けることになります。
このように、米国は状況の変化に応じて、対日戦略を変更し続けてきました。
その一つに、日米間の密約があります。
次回は、その密約を詳しく見ていきます。
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