2013年01月15日

米国の圧力と戦後日本史14 ~米国の状況変化を逸早く押さえ、そこにつけこむことによって、沖縄返還を実現した佐藤栄作~

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前回(米国の圧力と戦後日本史13)の記事では、米国が仕掛けた安保運動退陣させられた背景に、実は、右(自民)も左(社会)も米国の支配下に置かれてしまっていたことを見てきました。
 
岸の退陣後は、所得倍増計画を打ち出した池田沖縄返還を実現した佐藤、と比較的長期政権が続きます。長期政権でいることの裏には従米政権であることが必要です。そこで今回は、60→70年代日本がどのような対米戦略を採ってきたのか?を見て行きたいと思います。

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■徹底した従米路線を採り、経済拡大政策に特化した池田首相
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1961年、首相は退陣し、池田首相の座につきました。
 
池田は、岸が首相だった当時、「安保改定と行政改定は同時に実施すべきだ」と発言してきましたが、政権獲得後は行政協定については一切触れず、徹底した経済拡大路線転換します。こうして、池田の打ち出した「所得倍増計画」は、予想を上回るペースで進み、佐藤政権時代の1969年、その目標達成されました。
この成功で、日本では、安全保障問題棚上げにし、ひたすら経済成長を目指せばよいとう路線が定着しました。
 
★岸の後釜となった池田は、安全保障面では完全な従米路線を取り、経済政策に特化した。
 
■米国の経済状況は、ベトナム戦争で急激に悪化した。
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日本高度経済成長期に差し掛かり、誰もが私権を求めてまい進しました。
では、一方で米国の経済はどうだったのでしょうか?
 
第2次世界大戦後、世界中米国集中しており、米国圧倒的経済力を誇っていました。米国はその経済力を背景に、だけを国際通貨とする金本位制ではなく、ドル基軸通貨とする制度を作り、ドルとならぶ国際通貨にします。米国の豊富な金をもとに発行されたドルは、同様価値を持ち、ドル連動させて、ブレトンウッズ体制金・ドル本位制を構築しました。
 
基軸通貨となったドルは、ドルを介して取引する全ての国決済必要になる為、世界中の国ドル求めるようになります。結果、ドルは、必然的に、実態以上高値で、推移することになります(ドル高)。そうなると、米国は他国の製品を割安購入することが可能になってしまい、今度は自国産業衰退していきます。結果、米国貿易赤字は、どんどん膨らんでいきました。
参考⇒【図解】基軸通貨の弱点構造
 
加えて、米国は、1960年代にベトナム戦争での大量支出や、対外的な軍事力増強などを行った結果、大幅な財政赤字を抱えることとなり、国際収支悪化して、大量が海外に流出してしまいました。
 
★米国は、経済状況を立て直すことが最優先課題になります。
 
■佐藤栄作の沖縄返還交渉
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そのような中、1964年11月、岸信介である佐藤栄作が首相の座につきます。日本は高度経済成長のど真ん中でしたが、米国では、1960年に始まったベトナム戦争で、既に40-50億ドルの出費を被っており、米国内でも反発の声が出始めていました。
 
そこで、佐藤は、米国経済状況を立て直すのに有利な条件(当時、日本最大の輸出品で米国産業圧迫していた繊維輸出制限)を提示することで、沖縄返還実現しようとしました。
 
1965年8月、佐藤は当時米軍の占領下にあった沖縄訪問、外務省との打ち合わせをすることもなく、下記声明を読み上げました。
  

「私は沖縄祖国復帰実現しない限り、わが国にとっての戦後終わっていないことをよく承知しております。(略)私が今回沖縄訪問を決意いたしましたのは、なによりもまず、本土同胞を代表してこの気持ちを伝えたかったからであります」

 
この当時、米ソ対立、米軍の北ベトナムへの爆撃、中国の核実験成功等から、沖縄基地価値は非常に高く、佐藤自身もすぐに奪還出来るとは考えていませんでした。
しかし、1967年、佐藤は訪米し、ジョンソン大統領と会談、数年以内返還することで大幅は合意します。当初は「本土並み」のみで、「核抜き」は難しいと考えられていましたが、佐藤はあくまで「核抜き」の決断を下します。そして、1968年の施政方針演説で、「核の保有をせず、もちこませず」を表明しました。
 
■ニクソン大統領就任で、ベトナム戦争終結へ。対日戦略が本格的に変化する。
 
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佐藤と交渉を進めていたジョンソン大統領は一期限りで引退、1969年1月から大統領はニクソンに変更、本格的に、ベトナム戦争終結に動きました。もし、ベトナム戦争が終わるなら、沖縄重要性は大幅に縮小することになります。
 
この当時の状況をシャラーはこのように書いています。
 

ニクソン沖縄のことをいつ爆発するかもしれない火薬ダルだと評した。アメリカ日本側受け入れられるような主張をしなければならないと考えていた。1969年1月、国家安全保障会議対日関係見直しを開始した。1969年3月、国家安全保障会議は、日本の要求をこばめば、琉球列島日本本土の双方で基地を全く失ってしまうことになるかもしれないと報告した」

 
★これは、60年安保闘争が終結したとはいえ、国民の中に反米意識は残存しており、佐藤が煽った沖縄返還を実現しなければ、また反米闘争に火がつく可能性があったことを意味している。
 
★もし、そうなれば、米国を失うだけでなく、本土にある在日米軍基地までも失うことになりかねない。そうなるくらいであれば、実態として重要である在日米軍を置いたまま、沖縄を返還した方が得であると考えたのであろう。
 
1969年6月、「72年中に返還、核抜き、本土並み」という日本側基本方針を伝え、米国も日本の条件を受け入れる方向で動くことになりました。
 
1970年には、日米安保条約の10年間の固定期間が終わることになっており、その後は1年後毎の自動延長想定されていました。米国対応は明らかに柔軟になります。
 
そして、1971年に沖縄返還されます。しかし、米国は在日米軍必要性を半永久的に残す ために、日本中国との間での領土問題の火種=尖閣諸島問題を置き土産として残しました。この問題が残り続けているからこそ、在日米軍常に必要不可欠である、という判断が日本政府働き続けることになります。
 
このように、米国状況の変化に応じて、対日戦略を変更し続けてきました。
その一つに、日米間密約があります。
 
次回は、その密約を詳しく見ていきます。

List    投稿者 mtr919 | 2013-01-15 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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