2012年01月25日

12/29なんでや劇場レポート(1)~私権時代の観念追求は、大衆を観念統合するためのものだった~

オバマ大統領就任演説
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9/18から類グループで始まった、なんでや劇場実現論序「共同体社会の実現に向けて」研修会。
前回は11/27開催のレポートを、4回に亘って紹介しました 。
(1)集団は外圧に適応するためにあるが、その核を成すのは雌雄の性引力である
(2)人類の婚姻制もみんなの最大期待(⇒統合軸)によって規定される
(3)共同体とは何か?社員の充足を第一とするのが共同体である
(4)共同体的企業の中身とその構造化⇒その本命は?
今回からは、年末の12/29に行われたなんでや劇場レポート新シリーズより、共同企業体ネットワークの紐帯となり、共認社会実現のための概念装置となる「新理論」構築の可能性がどこにあるのか、3回に亘って扱って見たいと思います。
(1) 私権時代の観念追求の構造
(2) 理論追求忌避の原因分析
(3) 庶民発の新しい観念の登場
 
そこで今回は理論構築の要である観念機能をどのように獲得し、使ってきたのか、原始人類まで歴史を遡ってその構造について詳しく見ていきたいと思います。
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‘70年貧困が消滅して以降、官僚も学者も政治家もどんどん目先化してきました。その結果が、人類滅亡の危機に瀕する現在のどん詰まりの社会です。大衆の無思考・無追求は強くなる一方ですし、観念思考のプロである学者・文人・ジャーナリストや官僚たちも、既成理論を小手先で弄繰り回すことに終始しており、大理論の構築に取り組む者はどこにもいないのが現状です。

12/29なんでや劇場1 私権時代の観念追求は、大衆を観念統合するためのものだったより
現在、観念追求力はとことんまで衰弱している。このままでは人類は滅亡する。では、何故、こんなことになってしまったのか?
まず、歴史上、ここまで観念追求力が衰弱した時代はあったのか?この問題を解くには史的構造論が必要である。
原始人類は圧倒的な自然圧力を前にして、本能・共認回路を使って自然との対話を試み、観念原回路(精霊信仰)をつくった。観念回路は未だ形成されていない段階のことだから、観念原回路も言葉で追求してできた訳ではない。原始人類は本能・共認回路だけを使って観念機能を作り上げたのである。
その後も洞窟に隠れ住んでいた原始人類にとっては、予知能力が追求力の全てであり、そこでは本能・共認機能を使って状況を読んでいるわけであって、観念(言葉)を使って追求している訳ではない
その後、6000~5000年前になり、部族間の同類闘争の緊張圧力が高まると神話が登場する。
部族内で何世代にも亙って塗り重ねられて言葉化されたのが神話であるが、それを作ったのは専任化されたシャーマン(プロ)である
5000年前頃戦争が始まる前の共同体のリーダーはシャーマンであった。この時代の集団統合の要は武力ではなく予知能力であり、だからこそシャーマンが集団の統合者となったのである。つまり、統合者自身が神話を作っていたのであって、この時代の神話の必要は専ら集団統合の必要からである。だからこそ神話は、部族集団の統合機能に加えて、集団の成員の解脱充足機能も併せ持っているのであるが、そこでもシャーマンたちは本能・共認機能を使って状況を読んでいることには変わりなく、観念(言葉)を使って追求している訳ではない

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*6000~5000年前の神話の例:ハワイのフラ→詳しくはこちらへ
以上、見てきたように、原始時代から神話の時代までは、本能・共認機能を使って状況を読んでいるわけであって、観念(言葉)を使って追求していた訳ではないことが分かります。

私権時代になると、観念追求の構造は次のようになる。
【1】国家を統合するために法制化が必要となり、そのための観念追求がなされる。例えば、規範を観念化した儒教やイスラム教などがそれに当たる。これは統合階級発の観念需要、つまり大衆を観念統合する必要という観念需要があって、それに応えて観念追求が行われたものである。
(観念需要があってはじめて観念追求が行われる。)
【2】一方、庶民発の観念需要もある。庶民の救い期待に応えたのがキリスト教をはじめとする宗教であり、庶民の解脱欠乏に応えたのが文芸である。広義には救い期待も解脱需要だから、庶民発は解脱観念需要である。
この庶民の解脱需要発の観念追求が一部の庶民によって行われたが、それが広まると国家統合の手段として取り込まれてゆき、彼らは僧侶や学者や文人などの統合階級(観念思考のプロ)となっていった
また、現実の問題or変革には解脱や救いは無関係である。例えば、非存在に救いを求めるしかなかったが故に宗教が登場したのであって、宗教はそもそも始めから現実を対象化していない=変革する気はない。
現実に関係するのは国家統合するための観念だけである。私権時代は、現実世界に必要な観念は、大衆を観念統合するための観念しか追求されなかったのである。
これが私権時代前半(武力支配時代)の観念追求の構造である。

以上のように、私権時代前半の武力支配時代は専ら国家を統合するための法制化の必要から観念追求がなされ、
統合階級発の観念需要、つまり大衆を観念統合する必要という観念需要から、それに応えて観念追求が行われていたことが分かります。以下の図解も参照してください。
■統合者発の観念追求の構造(図解)
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私権時代後半(市場時代)になると、金貸しが芸術家から学者を支配して近代思想が作り出され、さらにマスコミを使って庶民は近代思想に完全に支配されることになった。今や、金貸し発の支配観念で以って人々の頭が100%覆い尽くされている。
このように、言葉を使った観念思考は、主要には国家を統合するための法制の必要(加えて、大衆を観念統合するための解脱観念の必要)から登場したものであり、観念追求の歴史は3000~4000年程度しかないことになる。そこでは専ら、大衆を支配する道具として観念が追求され、現代は100%そうである。
だとすると、そもそも、観念は人類にとって必要なのか?という根本的な疑問が浮上する。

私権時代も後半(市場時代)になると、金貸しによる芸術家から学者、マスコミに至るまで完全支配が成就し、庶民もこの近代思想に完全に支配されることになってしまったことが分かります。
しかし、この観念追求の歴史は3,000~4,000年程度しかないわけで、そもそも、観念は人類にとって必要なのか?という根本的な疑問が浮上することになります。
次回は、上記の根本的な疑問の追求・解答と、理論追求忌避の原因について見ていきたいと思います。
いつも応援ありがとうございます。

List    投稿者 aruih | 2012-01-25 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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