2007年10月02日
アウンサンスーチー女史とミャンマー
軍政が敷かれるミャンマーの民主化デモは、弾圧により日本人カメラマンを含む犠牲者が出たことでにわかに国際問題化しつつある。
そのミャンマーで民主化の指導者として常に動静が注目されるアウンサンスーチー女史について調べてみた。
スーチーは、ミャンマー「建国の父」と尊敬されるアウンサン将軍の長女として1945年に生まれた。父のアウンサン将軍は、英領ビルマを独立に導いた英雄としてたたえられているが、歴史を紐解くともう少し複雑である。太平洋戦争さなか、英領ビルマを1942年に日本との協同戦線で解放したが、その後英国に寝返り、日本に銃口を向ける。その後ビルマが再び英領となり、その中で独立を模索し続けたが最後は暗殺されてしまう。この暗殺の背後には、イギリスの影があったと見る向きも多い。
スーチーはこのような父のもとにある種の宿命を持って生まれた。
マスコミって何?(3)~マスコミの歴史、明治~戦前編~
マスコミの歴史を段階的にみていきたいと思います。
まずは、明治時代
マスメディアの一角を担う新聞が、日刊新聞として発刊されだしたのが1870年(明治3年)から。
マスコミって何?(2)参照。
当初、明治政府は、新聞の発行を奨励していたが、征韓論や民権論の流布をみて、政府への批判を抑えるために、明治8年、名誉毀損法や新聞条例を制定、そして罰則規定を設け、さらに発行禁止・停止処分を行った。新聞は、猛烈な政府攻撃を行ったが、政府は、記者を禁固、禁獄処分にした。
(参考:新聞はどうすれば生き残れるか?)
さらに、詳しくみていくと
livedoor ニュース – マスコミの戦争責任を考える(1)
パブリック・ジャーナリスト 小田 光康より
政府批判を繰り返す「大新聞(おおしんぶん)」といわれた政論新聞や、反骨ジャーナリストによる「独立新聞」は、政府の度重なる言論弾圧によって次々と抹殺されてしまい、今では一つとしてその姿をとどめることはありません。代わりに生き残ったのが「小新聞(こしんぶん)」といわれる商業新聞です。これは、一般庶民や婦人女子を対象にした娯楽本位のものでした。 朝日新聞 や読売新聞など、戦前・戦中を生き延び現存する大手新聞社の出自のほとんどがこの「小新聞」です。
また、毎日新聞は福地源一郎の「東京日日新聞」を淵源とします。これは明治政府の官報という性格のものでした。ちなみに福地は、明治維新前は幕府側に付き、維新後は薩長の明治政府に寝返った人物で有名です。
現存する大手新聞社の成り立ちは、娯楽本位の商業新聞か政府の公報(言いなり)機関だったのです。
続きを読む前にポちっとお願いします。