アウンサンスーチー女史とミャンマー
軍政が敷かれるミャンマーの民主化デモは、弾圧により日本人カメラマンを含む犠牲者が出たことでにわかに国際問題化しつつある。
そのミャンマーで民主化の指導者として常に動静が注目されるアウンサンスーチー女史について調べてみた。
スーチーは、ミャンマー「建国の父」と尊敬されるアウンサン将軍の長女として1945年に生まれた。父のアウンサン将軍は、英領ビルマを独立に導いた英雄としてたたえられているが、歴史を紐解くともう少し複雑である。太平洋戦争さなか、英領ビルマを1942年に日本との協同戦線で解放したが、その後英国に寝返り、日本に銃口を向ける。その後ビルマが再び英領となり、その中で独立を模索し続けたが最後は暗殺されてしまう。この暗殺の背後には、イギリスの影があったと見る向きも多い。
スーチーはこのような父のもとにある種の宿命を持って生まれた。
その経歴についてはウィキペディアに詳しく紹介されている。以下引用(一部省略)~
1960年に母親のキンチーがインド大使に着任し、スーチーはインドのデリーで学業を続ける。1962年-63年にはデリー大学レディ・スリラム・カレッジで政治学を学ぶ。1964-67年にはイギリスのオックスフォード大学セント・ヒューズ・カレッジで哲学、政治学、経済学を学び、学士号を取得する。なお1990年には名誉フェローに選出された。ロンドン大学の東洋アフリカ研究所(SOAS)で研究助手を務めた後、1969-71年にはニューヨークの国際連合事務局行政財政委員会で書記官補となる。
1972年にチベット研究者のマイケル・アリスと結婚し、アレキサンダーとキムの2人の息子をもうける。その後1985-86年には京都大学東南アジア研究センターの客員研究員として来日し、父アウンサン将軍についての歴史研究を進める。
1988年4月、ビルマに病気の母を看護するために戻る(ビルマを再びイギリスの植民地にする目的で、ビルマを分裂させる手先として帰国したと非難する者もいる。)
1987年9月の高額紙幣廃止令などをきっかけに、学生を中心に始まった反政府運動(8888民主化運動)は、デモ中の学生が虐殺された3月以降に激化した。7月には1962年の軍事クーデター以来、独裁政治を敷いていたネ・ウィン将軍・ビルマ社会主義計画党議長が辞任した。アウンサンスーチーは8月26日にシュエダゴン・パゴダ前集会で50万人に向け演説を行った。9月18日には国軍がクーデターを起こし、ソウ・マウン議長を首班とする軍事政権(国家法秩序回復評議会、SLORC)が誕生した。民主化運動は徹底的に弾圧され、数千人の犠牲者が出た。アウンサンスーチーは9月に、翌1990年に予定された選挙への参加を目指し、国民民主連盟の結党に参加する。全国遊説を行うが、1989年7月に自宅軟禁された。国外退去を条件に自由を認めるともちかけられたが拒否したと言われる。
軍事政権は1990年5月27日に総選挙を行い、アウンサンスーチーの率いる国民民主連盟(NLD)が大勝した。しかし軍政側は権力の移譲を拒否した。激しい国際的な非難を招き、アウンサンスーチーは91年にノーベル平和賞を受賞した。
1995年7月10日に自宅軟禁から解放される。週末に自宅前集会を行って大勢の聴衆を集めたが、最終的に軍政により中止に追い込まれる
NLDは1996年5月、アウンサンスーチー釈放以後初の党大会を計画したが、軍政側は国会議員235人を拘束する弾圧策に出た。軍政はアウンサンスーチーにヤンゴン外への移動を禁止していた。アウンサンスーチー側は1996年と1998年にこれに抵抗したが、いずれも妨害された。NLDは1998年9月、国会招集要求を無視した軍政に対抗し、アウンサンスーチーら議員10人で構成する国会代表者委員会(CRPP)を発足させる。
1999年3月、夫マイケル・アリスが前立腺がんで死亡。ビルマ入国を求めたアリスの再三の要請を軍政は拒否した。再入国拒否の可能性があるアウンサンスーチーは出国できず、夫妻は再会することができなかった。
アウンサンスーチーは2000年8月24日、ダラーのNLD青年部への訪問を再び阻止される。抗議の篭城を行うが、9月2日に首都ヤンゴンに強制送還された。同月22日にマンダレー行きを試みたが、再度拘束され、翌22日から再度自宅軟禁された。同10月から、ラザリ国連事務総長特使らが仲介し、アウンサンスーチーと軍政との間で国民和解対話に向けた前段交渉が始まった。2002年5月6日に自宅軟禁は解除される。その後NLDの党組織再建のため、各地を遊説し、訪問先で熱狂的な歓迎を受ける。2003年5月30日、ビルマ北部を遊説中に軍政による計画的な襲撃に遭い、活動家や支援者に多数の死傷者と逮捕者が出た。襲撃の責任者が現首相のソー・ウィン中将とされる。その後は軍施設に連行され、三度目の軟禁状態に置かれる。外部からの訪問はほぼ完全にシャットアウトされた。同9月に手術入院した後は自宅に移され、自宅軟禁状態となる。
2007年9月23日、仏教僧侶らの反政府デモが広がるのに伴い、軟禁先を自宅からインセイン刑務所に移されたとの情報がある。9月30日、ミャンマー訪れたイブラヒム・ガンバリ事務総長特別顧問と1時間にわたり会談した。
~引用終わり
スーチー女史は、劇的な人生を歩んでいる。これは民主主義立場からは美化され英雄に仕立て上げられている。
一方で、「スーチーはただの主婦にすぎない。」というさめた見方もある。
穿った見方をすれば、スーチーはイギリスで学びイギリス人(大学教授)を夫に持ち、おそらく西側の民主主義教育を受け、西側の価値観も浸透しているだろう。一方でミャンマーの置かれた外圧とは、資本主義の包囲網であり、伝統的な国家を外圧から如何に守るかということかもしれない。
日本(西側)では、軍政は圧倒的な「悪」であり「民主化運動」が美化される。スーチー女史の感動の物語に涙する前に、ミャンマーの置かれた状況をしっかりと追求する必要がありそうだ。
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コメント3件
米流時評 | 2007.11.19 20:55
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Hiroshi | 2007.11.23 12:45
tennsi21さんこんにちは、
>米中の蜜月構造
>実は経済的には米中両国の国益がほとんど一体化しつつある状況にある
彼らにあまり“国益”という概念はないのかもしれません。アメリカ財閥と華僑、中国政府高官の思惑で動いているように思います。
中国国民は、殆ど低賃金で働かされる道具みたいな。
いずれにせよ、中国の内実については、注意要ですね。
tennsi21 | 2007.11.19 12:32
米中の蜜月構造
現在の米中間の問題は北朝鮮の核開発、対テロ戦争への協力、イラン問題、ダルフール紛争への対応、中国防衛費の透明性、台湾の地位についての問題、人権問題、チベット民族問題、人民元切り上げから、最近では食品や玩具等の輸入中国製品に対する安全性の問題まで多岐にわたる。
一見その関係は対立構造にあると思われがちであるが実は経済的には米中両国の国益がほとんど一体化しつつある状況にある。
国内世論としても相互にそのことを歓迎していないにも関わらず、政治的にも抜き差しならない状況になりつつある。中国が社会主義国であるとか人権が尊重されていないといったことより、アメリカの国益を考えると日本より中国と経済的に融合していくしかない。イデオロギーより経済原理に忠実にならざるを得ないというところでしょう。
むしろそれだけアメリカは自国の世界に対する経済的優位性に対する危機感があるのだと思います。