米国の圧力と戦後日本史15 ~ニクソンショックの緩衝材となることで実現した沖縄返還~
1945年のブレトンウッズ体制以降、米国は基軸通貨国となり、ドルは実態よりも高値で推移することになります。結果、自国産業が空洞化していき、貿易赤字は年々積み重ねられていきました。加えて、ベトナム戦争が勃発し、米国経済は急激に悪化していきます。
そして、米国の変化に逸早く気付いた佐藤栄作は、そこに付け込み、米国経済回復を餌にして、沖縄返還を実現しました。
この背景には、
①米国が日本の国民世論の反米意識を非常に警戒していたこと(米国の圧力と戦後日本史14)。
②沖縄返還の背後で決まっていた密約の存在
が、あります。
このシリーズでは、元外務官僚 孫崎享氏の著作「戦後史の正体」から、戦後日本の対米戦略を読み解いてきました。その中で、孫崎氏は「沖縄返還にあたって交わされた密約が2つあった」と述べています。今回は、それらの他にも明らかになっている密約と併せて米国の戦略を見ていくことにします。
■沖縄返還にあたる、日米間で交わされた密約
米国は沖縄返還にあたって、4つの密約を迫ります。
①緊急時には再び核兵器を持ち込めるとする密約
佐藤は非核3原則を謳い、ニクソン大統領は核兵器を沖縄から撤去させることには合意します。しかし、米国が沖縄に核兵器をふたたび配備する必要があると判断したとき、ふたたび核兵器を沖縄に持ち込めるとする密約を交わしました。ただ、核兵器の沖縄への持込は「もしも重大な事態が生じた時」の問題だった為、表に出ることもなく、特段問題になることはありませんでした。
②繊維の輸入規制を行うという密約
孫崎氏の「戦後史の正体」では、ニクソンにとって特に重要だったのは、繊維に関する密約だったと書かれています。ニクソンは外国繊維の輸入を規制することで南部の票を獲得しており、そのことで、レーガンやネルソンロックフェラーの大統領指名争いに勝利していました。繊維業界の意向を組むことが、ニクソンが政界で力を維持する基盤だったのです。そこで、日本の繊維業界に輸出を規制させる密約を結びました。
③米軍の移転費並びに駐留費を、日本が支払う。
「戦後史の正体」では触れていませんが、69年の日米交渉で、日本は、米軍が沖縄に駐留する費用の大部分を日本が負担する、ということで合意しており、本土から沖縄への米軍の移転費と、55年分の駐留費の補填として、合計2億ドルを米国に支払いました。1978年以降は、「思いやり予算」として、米軍駐留費を日本が負担する体制が続いています。
④沖縄返還にあたって、円と通貨交換したドルを無利子でFRBに預金する。
③と同様に、「戦後史の正体」では触れられていませんが、沖縄返還に当たって、日本政府が円と通貨交換したドル資金(6000万ドル)を米国のニューヨーク連邦準備銀行に預金する、といった密約を交わしています。密約では、「金利相当額の1億2000万ドルを日本は受け取らず、米側に利益供与する」「少なくとも預金を25年間は預け入れる」としている、明確な裏取引がありました。
この密約は別名「柏木・ジューリック密約」と呼ばれるもので、1969年12月2日付でに大蔵省の柏木雄介財務官とアメリカ財務省のアンソニー・J・ジューリック特別補佐官が取り交わしたものです。アメリカ側で公開されている公式文書に書かれていた負担額は総額5億ドル超、一方、「沖縄返還協定」に基づく日本国政府の説明では、合計3億2000万ドル。その差額である2億ドル弱の負担を上記のような方法で補てんしていました。
このように、孫崎氏が紹介しているものも含めて4つの密約が存在していることが分かっています。しかし、それ以上に重要なのは、沖縄返還と同年に実施されたニクソンショックの緩衝役を日本(政府・銀行)が担っていたということです。
■沖縄返還とニクソンショック
ニクソンショックによって、米国はドルと金との交換義務を一方的に放棄しました。これにより、兌換紙幣ドルを基本とした戦後の固定相場制度であるブレトンウッズ体制は崩壊し、不換紙幣(金の裏づけの無い)ドルを基軸とする変動相場制へ移行します。米国は「信用創造」という、金融戦略に転換しました。
※ただし、金の裏づけを失いドル安が進んだ結果、米国の貿易赤字は縮小しましたが、ドル安によって輸入品の価格が上昇し、今度は慢性的なインフレに悩まされることになります。米国は、インフレ抑制の必要性から金利を上げ、流通するマネー量を絞り始めます。すると、高金利の米国金融市場に大量の投機資金が流入し、再びドル高に転換し、貿易赤字が拡大、さらに財政赤字にも悩まされる(いわゆる双子の赤字)ことになってしまいました。
このニクソンショックの際に、日本政府・日銀は非常に不可解な動きをしています。
「ドルと金との交換を停止する」という「ニクソン声明」を受けて、「ドルの値段が下がることになる」と予測した各国の銀行や企業は、世界各地の為替市場でドル売りに走ります。この結果、混乱を避けるため、世界各国の政府は自国の外国為替市場を閉鎖しました。
ところが、唯一日本だけが外国為替市場を閉鎖せず、1ドル=360円でドルを円に交換しました。「まもなくドルの値段が下がる」と考えた世界中の企業が東京の外国為替市場に殺到し、日銀は、当時のお金で40億ドル以上もの巨額のドルを買うことになったのです。
この時、日本政府内でも早急に為替市場を閉鎖する声が出ましたが、大蔵省・柏木財務官はこれを遮り、為替市場を開放し続けました。この結果、日本は約7億ドル=2200億円以上の損害を出したといわれています。
つまり、為替市場を閉鎖しなかった日本が、ニクソンショックのダメージをやわらげる緩衝材の役割を果たしたということです。この不可解な動きの裏にも、密約があったと考えるほうが妥当でしょう。
平和裏に行われた沖縄返還のウラで、
①核兵器の持込み
②繊維の輸出規制
③米軍の移転費・駐留費を日本が負担
④ドルを無利子でFRBに預金
⑤ニクソンショック時に、日本だけが為替市場を開放
という5つの密約が交わされていたのです。
■米国の新たな世界戦略
★米国にとって、1960→70という時代は、
①ベトナム戦争縮小
②沖縄返還=領土返還
③ドルの不換紙幣化=ニクソンショック
という、3つの戦略転換を遂げた時期でした。特に、ドルの金兌換停止=ニクソンショック以降、米国は世界中にドルの紙切れを撒くことによって、世界全体に大きな影響力を行使するようになります。つまり、この時期の米国の世界戦略は、金や軍事力といった「目に見える力」から、信用やマスコミ等の「目に見えない力」の行使へと、大きく転換したのです。
★第2次大戦以降、日本を支配していたGHQは、日本が再び世界に台頭してこないよう、官僚機構を解体し、強い地方分権体制を確立しようとしてきました。しかし、朝鮮戦争が勃発し、東アジアに冷戦体制が構築される中で、日本は「米国の忠実な部下」という「駒」に変化し、沖縄は「防波堤」として機能してきました。しかし、基軸通貨ドルの限界に直面して米国の方針が大きく転換し、日本の役割を「防波堤」から「資金源」へと転換させていきます。
★このような状況下で、佐藤が実現した沖縄返還とは、米国の戦略転換が生み出したものだということも出来ます。しかし、その米国の状況の変化を捉え、米国の弱点につけこむことによって、初めて、沖縄返還は実現されたのです。その意味で米国の状況や構造を捉えることは、日本が何事かを実現するうえで、最も重要なことになるでしょう。
★また、当時の米国が日本の国民世論の盛り上がりに最大限の警戒を払っていたのは注目に値します。実際、反米世論の火種は佐藤にとって、沖縄返還実現の最大限の基盤でした。「みんな一緒」という縄文体質が(今は従米一色に染まっていますが、一歩転換すれば)反米自主を実現する上で、最大の武器になる可能性があるといえそうです。
★ただし、このように実現された沖縄返還でしたが、それすらも米国に利用され、ニクソンショックを実現する緩衝役を押し付けられることになりました。すなわち、不換紙幣=紙切れでしかないドルを世界中にばらまくという米国の戦略において、最大の実現基盤が日本だったのです。これ以降、日本がいなければ、米国の世界戦略も実現しないという時代が続きます。逆に言えば、日本が反米に転換しさえすれば、米国の世界戦略も行き詰ることを意味しています。
次回は、そのような世界情勢の中、反米に舵を切ろうとした田中角栄を見ていきたいと思います。
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