米国の圧力と戦後日本史13 いわゆる55年体制とは何だったのか?~右(自民)も左(社会)も米国支配下に落ちていた~
岸首相の退任演説(握手している人物は池田新首相・この後、岸首相は右派の人物に刺されて病院に運ばれる)
岸は米国CIAの支援を得て、自民党を立ち上げました。しかし、岸の対米自主を警戒した米国は、その手の内にあったマスコミを利用して学生を扇動し、岸を首相の座から引きづり下します。これは、マスコミが政治家に勝ったことを意味し、米国次第で政治家を操れる構造が出来上がりました。
岸が退陣するに至り、どのような圧力が働いたのか、そして如何にして米国支配体制に飲み込まれていったのかを軸に、自民党-社会党という二大政党制(いわゆる55年体制)を見ていきたいと思います。
■ 米軍とCIAによって、岸は退陣に追い込まれ、池田が首相になる。
左)岸信介、中)アイゼンハワー、右)アレン・ダレス&ジョン・ダレス兄弟
岸首相は米国従属の姿勢を変え、対米自主の独自路線を歩もうとしていた。そのような岸首相をアイゼンハワー大統領は支持していたが、結局、岸首相は退陣に追い込まれてしまう。つまり、大統領から支持を得ていたからといって、米国全体の支持を得た、ということにはならない。
では、誰が岸首相を潰しにかかったのか?
当時の経緯を、米国の歴史学者シャラーの『日米関係とは何だったのか? 1997』より引用する。
「日本の騒動を議論するため、1960年5月31日に国家安全保障会議が開かれた。CIA代表のアモリーは『一般国民は岸に対する信頼を失っている、自民党のライバル達は岸の交代を望んでいる。彼らは安保条約に本質的に反対していない』と報告した。
国防省と統合参報本部は、日本に太平洋でのよりいっそうの軍事的協力を要求しようと提案した。アイゼンハワー大統領は、日本の状況を考えると、いまは日本の軍事的役割に文句を言う時期ではないとのべた」
「6月8日の国家安全保障会議でCIA長官は『日本のために望ましいのは岸が辞任し、できれば吉田に代わることだ』とのべた」
「CIAは自民党に対する財政的影響力を利用して、早急に岸をより穏健な保守党の政治家に代えようとした」
「6月20日、吉田がマッカーサー(大使)と会ったとき、吉田が暫定的に岸に代わってはどうかという提案を退け、池田か佐藤が望ましいとのべた」
「6月21日、池田はマッカーサーに、吉田の支持を得て、近いうちに岸の後を継ぐことにしたいとのべた。マッカーサーは池田を日米協力の忠実な信奉者であり、岸の最善の後継者だと評した」
※ マッカーサー大使はマッカーサー元帥の甥。1957-61年まで駐日米国大使。日本の反米化を懸念し、安保交渉を影でリード、完全に日本をコントロールしていたと言われている。
そして、この会議から2日後の6月23日、岸は辞任し、7月19日に池田内閣は誕生した。岸は米国の意向によって、挿げ替えられた。
シャラーの本の中で最も重要なのは、CIA長官(アレン・ダレス)が「まず岸の引退が望ましい」という判断をしていること。そして、「財政的影響力を使って」打倒岸に動いたということである。さらに、CIA長官とマッカーサー駐日大使がそろって「岸の次は吉田がいい」といっていることも注目に値する。
欧米が植民地支配をするときは、その国の主流派とは手を組まず、少数派と手を組む。主流派は別に外国と手を組まなくても支配者になれるが、少数派は外国と手を組むことで、初めて国の中心に進出することが出来るからだ。
この手法を日本の図式に当てはめれば、岸首相は主流派であり、吉田や池田は少数派になる。その吉田が池田を推薦したことで、吉田の徹底した対米追従路線は、池田政権下の「高度経済成長路線」が大成功したこともあり、自民党の新しい世代に、半世紀以上も引き継がれていくこととなってしまった。
★軍部とCIAは、自民党の中では少数派だった吉田や池田と手を組み、再び従米政権を誕生させた。
★CIAは岸首相に裏切られたことで自民党内でのパイプが一気に縮小し、吉田を頼らざるを得なかった。その吉田が推薦した池田が岸首相の後を継いで首相になる。
★米国の後ろ盾がなければ何も出来ない池田首相は、徹底した従米路線をとり続けることになる。この構造はその後半世紀以上も続くことになる。
■幅広い社会階層と接触を試みたライシャワー大使と、暗躍するCIA
1960年の安保闘争→岸退陣は、米国の(表の)対日外交政策にも大きな影響を与えることとなった。
この時代、米国の新しい対日外交政策を一手に引き受けていたのが、ライシャワー駐日大使であった。ライシャワー駐日大使(1961-1966)は、東京で生まれて日本人の妻を持ち、日本人の言葉に誠実に耳を傾け、日本国民から人気を集めた人物である。
ライシャワー駐日大使は「賢明かつ公正であること、フェアであること、日本の保守派とだけつきあうのではなく、知識人やインテリを含む様々な社会階層と接することが必要であり、そうする以外にすべはない」と考えており、60年安保闘争後は、積極的に社会党や労働組合と接触し、多くの学者や文化人、労働組合の人々を米国に招待していた。
彼はアメリカの表の顔として、保守派以外の左翼勢力と相互理解を深めようとしたのである。
ただし、日本の左翼勢力と繋がろうとしたのはライシャワー大使だけではない。CIAはそれより以前に、接触していた。
CIAは60年安保以前から労働党に接触しており、資金の提供や脅迫など、様々な手段を使って、日本国内に都合よく利用できる人物を作る裏工作をしていた。
シャラーは、左翼勢力に対するCIAの工作について、こう述べている。
あるCIA関係者が述べているように、社会党内に役に立つものを確保することは、日本人の反対活動を妨害することと同様、われわれのなしうるもっとも重要なことであった。
安保騒動時、CIAは民主党の西尾末広や他の穏健な社会主義者に対する援助を増大させた。
安保闘争以前、米国、特に国務省は、日本社会の中枢部(自民党、経済界、官僚)以外で何か発言する人が居ても、全く相手にしていなかった。
しかし、安保闘争によって、幅広い社会層と接触しておく重要性が認識され、積極的に左翼勢力に接触することになる。その表の顔がライシャワー大使であり、裏の顔がCIAだったのである。
★CIAが安保闘争以前から左翼勢力と接触していた事を踏まえると、安保闘争時、CIAは保守派だけに限らず、社会派をも支配できる状態にあった。こうして米国は、与野党関係なく、自らに都合のよい支配体制を構築した。
■CIAとロックフェラー財閥
今まで見てきたように、CIAは自民党(右)にも社会党(左)にも資金援助を通じて繋がっており、脅迫などを通じて操ろうとしてきた。このCIAによる左右両面支配が完成したのが、1960年の安保運動による岸退陣であり、池田内閣の誕生であった。
そしてもちろん、CIAのバックにいるのがロックフェラー財閥である。
( ロックフェラーメモ②1919~1944年:世界運営に乗り出す、イギリス→アメリカへの覇権交代期 )
つまり1960年という時代は、今まで影の存在であったロックフェラー財閥が歴史そのものを動かし、日本を完全支配できるくらいにまで大きく力を付けた時期であった。
1960年にロックフェラー財閥がここまで力を付けた背景には、元々の基盤である産業支配、さらにCIAを通じた諜報支配、それらに加えてアメリカ軍部支配、の3つの基盤を手に入れたことが挙げられる。
そして、このロックフェラー財閥の巨大化に警鐘を鳴らしたのが、岸信介との繋がりが強く、同時期に米大統領に就いていたアイゼンハワーであった。1961年1月、アイゼンハワー大統領は告別(引退)演説で、アメリカ人に「軍産複合体」(軍事組織と軍需産業の結合体)の危険性を訴え、それがやがて政府を乗っ取り破滅的な力を振るうかもしれないと警告している。
第2次世界大戦まで、アメリカは軍需産業というものを持ったことがなかった。というのも、アメリカでは、時間的な余裕があったため、必要に応じて(戦時に)剣を作ることですますことが出来たからである。しかし現在では、急に国防の備えをなすという危険を冒すわけにはいかなくなったている。だから我々は大規模な恒久的な軍需産業を創設することを余儀なくされている。・・・我々は、アメリカの全会社の年間純総所得を上回る額を、軍事費のために年々消費しているのである。
こうした大規模な軍事組織と巨大な軍需産業との結合という現象は、アメリカ史上かつてなかったものである。その全面的な影響力・・・経済的な政治的なさらには精神的な影響力までもが、あらゆる都市に、あらゆる州政府に、連邦政府のあらゆる官庁に認められる。我々としては、このような事態の進展をいかんとも避けられないものであることはよく解っている。だが、その恐るべき意味合いを理解しておくことを怠ってはならない。
・・・・政府部内の色々な会議で、この軍産複合体が、意識的にであれ無意識的にであれ、不当な勢力を獲得しないよう、我々としては警戒していなければならない。この勢力が誤って擡頭(=台頭)し、破滅的な力をふるう可能性は、現に存在しているし、将来も存続し続けるであろう。
この軍産複合体の勢力をして、わが国民の自由や、民主的な過程を危殆ならしめることがあってはならない。・・・・警戒心を怠らぬ分別ある市民のみが、この国防上の巨大な産業と軍事の機構をして、わが国の平和的な手段と目的とに合致せしめ、安全と自由とを共に栄えしめることが出来るのである。
( アイゼンハワー「告別演説」 訳 斉藤眞 要点抜粋 )
この演説の同時期、アメリカ軍とCIAは共同して、キューバ侵略戦争のプランを画策していたと言われている。
そして、ベトナム戦争(1960.12月~1975)からの撤退を考えたケネディ大統領は、1963年に暗殺される。
次のジョンソン大統領は、(米軍が偽装したと言われる)トンキン湾事件を契機に、ベトナム戦争を一気に拡大した。
( 太平洋戦争はアメリカの市場拡大の目的によって仕組まれた① )
まさに、世界史的にも、アメリカ軍産複合体=ロックフェラー財閥が、大きくのし上がっていった時代でもあった。
★1960年とは、日本の右派に対しても左派に対しても、CIAが絶大な影響力を持った時期であった。これは、対日戦略においてロックフェラーの力が非常に強かったことを意味している。
(それまではおそらく、ロスチャイルド系の力とロックフェラー系の力はせめぎあっていたのだろう。しかし1960年を以って、ロックフェラー一極支配とも言うべき体制が確立したのだろう)
★つまり、いわゆる55年体制とは、CIA⇒ロックフェラーが右から左までの支配を確立した体制だったと言える。すなわち、右であれ左であれ、どのような運動も、CIA⇒ロックフェラーに取り込まれていくことを意味する。これでは、どのような運動も、実現する訳がない。
★逆に、CIA⇒ロックフェラーの資金援助が無ければ、自民党-社会党という二大政党制(いわゆる55年体制)は成立しえなかったことを意味している。
(※小沢一郎は、このロックフェラー支配体制を壊そうと、自民党を割って出た可能性もある)
★ロックフェラーによる日本支配が確立していたのだから、当然、アメリカ政府内部でもロックフェラー財閥の力が非常に強いものであった。アイゼンハワーの警告、ケネディ暗殺を経て、米政府はロックフェラー財閥一色に染まっていく。
こうして、右も左も米国支配下の池田内閣が誕生し、徹底した従米路線が展開されていくことになる。
次回は、そのような状況下、対米追随路線をとらずに長期政権を築いた唯一の政治家と言われる佐藤栄作が、如何に沖縄返還交渉をしたかを見ていきたい。
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