2010年05月06日

自主管理への招待(3) 生産から離脱させ、消費へと逃避させるだけの近代思想

人々の生活は生産と労働によって支えられています。そして、その生産様式に応じる政治や制度によって規定されます。
したがって、社会を規定する生産の「様式」と、日々の生活を規定する生産の「関係」のあり方を考え、提示していくことこそが、社会ひいては日々の生活をかえていくことになるのです。

と、前回はここまで扱いました。
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一方で私たちはどうでしょうか?
「労働はお金を得るための手段である」なんて考えの人はいませんか?
もしそうだとしたら、近代思想にかなり毒されています。

アダムとイブの禁断の果実の話は有名ですが、もともと西洋の近代思想には労働は罰であるという考え方があるようです。
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しかし多くの人々が、自己の日々の労働の、疎外された現実を見つめようとはせずに、観念的に飛躍した抽象的な「社会」を相手に、政治的要求をつきつける事が「社会的」活動なのだと、錯覚している。あるいは、社会の土台を成す生産のあり方を考えようともしないで、単に個人のためだけの消費的要求を掲げ、それを社会に押しつけることが「人間的」立場なのだと、錯覚している。要するに、自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。

民主主義と言えば聞こえがいいですが、生産を放棄した国民の政治的要求が社会を変えるなんてウソ。実際は、自己の否定と要求を社会に押し付けているに過ぎません。

他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。また日夜、紙面の至る所にこの狡猜な図式をちりばめて、世論をリードしてゆく「良識的」なマスコミだけのものでもない。社会に対する一方的な『否定と要求』のこの意識構造は、現代人すべてに共通の構造である。

考えてみれば恐ろしいことです。
民主主義の正当さが自明のものとして語られ、脈々と次の世代に継承され、世界中に広がっていったのですから。
人々を生産に目を向けさせない、消費へと逃避させるというのは特権階級の策略です。資本主義・民主主義といった言葉を巧みに使いながら富を収奪してきたのです。

この構造は、さらに近代を貫く、社会からの〈離脱と自足〉の意識潮流に根ざしている。むしろ、絶えず社会(生産)から離脱して個人(消費)へと逃避してゆく、個人主義の潮流こそ、否定と要求の根底に流れる近代精神の本流を成してきた。事実、人々は一貫して、「自己」が抑圧される〈労働〉を忌み嫌い、「自己」が解放される〈個人生活〉を希求し続けてきた。そして工業生産の目ざましい発展によって、労働時間が大幅に短縮され、人々の待ち望んでいた「豊かな」個人生活はすぐ手に届く所まで実現されてきた。しかし、近代工業生産を貫く効率原理が目標とするのは(それは又、「我、思う」だけで「我、在る」ことを願う近代個人主義の自我原理が目標とするものと同じであるが)、生産および生活のあらゆる存在過程から活動を省略して、欠乏(欲望)と充足を短絡化することである。ところが、一つの欠乏の充足が、活動を省略して効率的に実現されるや否や、直ちにその空白部は別の欠乏によって埋められる。かくして、工業の発展と共に、活動のない欠乏と充足だけの単純反復過程が増大し、それにつれて、生活のテンポが早くなり、生活の内容は貧しくなる。だから又、労働時間が短くなり、生活時間が長くなればなる程、逆に全存在過程にわたって本当の活動時間が無くなってゆく。実際、この社会では「豊かな」個人生活とは、その生活を手に入れるために先取りした家財のローン返済に追い立てられる生活のことであり、もみくちゃのレジャーラッシュに馳せ参じる生活のことであり、寸暇を惜しんでテレビにかじりつく生活のことなのである。

豊かな個人生活が実現されても歩みを止めるのではなく、常に現状を否定しながら前進していく。充足を見失った反復の中で、快にまみれた不安の中で、それでもなお潜在思念は可能性を探索しています。
◆自らの人間性を食い尽くす近代人の消費
 同一人物の中で、代償充足を貪る解脱過程と、疎外労働に勤しむ労働過程が完全に分離してしまった近代人がそうであるように、結局代償充足に拘泥し続けることによって、タコが自分の足を食うように、自分の人間性を食いつぶす構造にある。
 消費を意味するconsumeとは、完全に(con)食いつぶす(sume)という意味であるが、現在の代償充足の中心である近代人の消費とは単なる物的資源の消費に留まらず、本質的には市場と国家という特権階級による共認支配の中に耽溺してしまい、自らの人間性=類的価値を食い尽くしてしまうという恐ろしさがある。

こうして本来の活動の場を見失った現代人は、コマネズミのように刹那的な欠乏と充足のコマを廻し続ける。そして、生活の回転が高速化してゆけばゆくほど疲労が増大し、ますます多くの余暇が必要になる。だが活動を喪い、刺激だけを単純反復させる過程の中にある限り、いずれ遊びさえ、疲労の元でしかなくなるだろう。それでも、「善良な」市民によるこの膨大な資源とエネルギーの浪費は、世論公認の個人主義の名において正当化され、むしろ美化され続けるのである。近代の意識の根を成してきた「個人」さえ宙に浮き、幻想と化したこのような事態を、誇張にすぎないと思う人は自分自身に問うてみれば良い。自分は、このような個人生活以外の、どのような生活を、認識を、自分自身を、獲得しえているかと。
考えてみれば、近代の全ての思想と運動は、実現された例しがない。その最も輝かしい空語は、常に最も暗い現実にとって代わられ、かの大いなる自我幻想は、常に最も無内容な自分自身にとって代わられてきた。つまり近代思想の歴史は、挫折と敗北の歴史であった。何故か?

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次回をお楽しみに。

List    投稿者 bibibi | 2010-05-06 | Posted in 未分類 | 3 Comments » 

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コメント3件

 ka | 2010.12.25 22:50

灌漑農耕によって、農耕部族の側から縄張り意識が高まったというのが、気付きでした!

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