■■ 中国一帯を制覇したものの全体を統合できなかった秦
□ 秦の覇権とその短命政権
春秋・戦国時代の戦乱を制覇し、帝国を築いた秦は、郡県制と呼ばれる
中央集権(役人派遣)制と
法制(厳罰)の強化という、徹底して
力で制圧する統治を試みますが、それによって被支配民の間に不満が鬱積。農民の反乱を契機に、被支配諸国で反乱が勃発します。
結局、この反乱によって秦はわずか20年余りの短命で滅亡してしまいます。
この20年という短い期間から考えると、秦は中国一帯を一旦は制覇することはできましたが、
帝国として全体を統合することはできなかったと見るべきでしょう。
□ 秦はなぜ全体を統合することができなかったのか
中国全域を統合する場合、まずネックになるのがその
領域の広さです。さらにその広い領域の中に少数の遊牧民(支配層)や大多数の農民、もしくは流民がひしめいており、この状況下では
武力だけですべてを制圧(統合)することは不可能です。
そこでは部族を超えて集団全体を統合するための何かしらの観念が必要で、私権社会という点では集団全体が私権の可能性に収束できる
私権統合の制度や観念が必要になるということです。
秦が中国全域を統合することができずに短命に終わってしまった最大の原因は、この私権統合の制度や観念を持たず、中央集権や法制の厳罰化という力だけで統合しようとしたところにあります。
では、その後に成立した漢帝国はなぜ400年もの間、帝国を維持することができたのでしょうか。
まずは、その漢帝国の成立状況から押さえていきます。
■■ モンゴル系遊牧民による漢帝国の成立
□ 楚や淮河・山東地方のモンゴル系遊牧民が連合して秦を滅ぼした
秦帝国に対する反乱⇒戦乱により秦は滅亡し、BC202年、秦に代わって中国を統一した漢帝国が成立します。
この漢帝国を築いたのが、初代の漢の皇帝となる劉邦率いる楚の軍の一部(漢)でした。このときの秦との覇権闘争を大きな視点で捉え直すと、
楚と淮河流域・山東半島の諸国が連合して、秦を侵略→滅亡させるという構図になっていました。(下図参照)
この連合の形からもわかるように、この時代の楚や淮河流域・山東半島は、周によって追いやられた殷の部族(モンゴル系遊牧民)が住み着き、いくつかの国を作っていた領域でした。
<参考>
遊牧民の中国支配史3: ~春秋戦国時代・秦~ 550年間にもわたる遊牧部族同士の同類闘争が、心を歪ませ、思想を発達させた
よって秦から漢への転換は、
モンゴル系遊牧民(漢)がチベット系遊牧民(秦)から中国の覇権を取り返したということを意味しています。
そして漢帝国は、私権統合国家の形成に着手していきます。
■■ 私権統合国家を実現した漢帝国
□ 朝貢制と冊封体制による序列秩序の構築
まず漢帝国は、秦の時代に始まった「徳化政策」に基づき、周辺国家が漢帝国皇帝に
朝貢(いわゆる貢物)し、皇帝からは
それ以上の返礼を与え、統治を認める(冊封する)という漢帝国を頂点とする序列秩序を作り上げました。
この朝貢制を基に、東アジア一帯に漢帝国を頂点とする序列秩序体制の構築に取り掛かります。
□ 冊封体制と朝貢制を基に、段階的な私権統合国家へ
ここで漢帝国は、秦のように中央集権的にすべての諸国を力で押さえつけるのではなく、「徳化」の程度、つまり武力の及ぶ領域に応じて、
『内臣>外臣>外客臣>絶域の朝貢国>隣対の国』という段階的な関係を構築します。
①『内臣』:郡県制と封建王国制を併用した郡国制のなかの臣下で、漢の礼・法を奉じる。
②『外臣』:君主は漢の礼・法を奉じるが、その支配下では民族独自の礼・法を奉じる自治を保障された家臣。
③『外客臣』:独自の政治勢力として自立性を持つ同盟者。
④『燐対国』:東夷、西戎・南蛮・北狄といわれる敵対関係にある異民族。
これにより、冊封体制に組み込まれるのは
『外臣』、冊封は受けないが朝貢関係を結ぶ国を
『外客臣』とし、武力の及ぶ領域に応じた
段階的な(私権)序列体制を形成します。
この体制によって、配下の諸国をすべて力で押さえつけるのではなく、一定の独自性を認めるなどの
現実的な私権追求の可能性を残しつつ、
段階的に歯止めをかけるという、
私権統合の構造を形成し、東アジアという広い領域を統合することが可能となりました。
※朝貢関係を結ぶ周辺国の立場からすると、中国と朝貢関係を結び序列関係上の下を認めることで、侵略の危機を脱することができる、あるいは大国の庇護を受けることができるというメリットがありました。
□ 儒教を国教化することで私権序列を観念として固定⇒規範化した
さらに漢帝国は、朝貢制と冊封体制によって形成した私権序列を観念的に固定(正当化)するために、
儒教を国教化⇒国家儒教として布教していきます。
(儒教は、様々な思想が生まれた春秋・戦国時代に登場しています)
儒教を国教化し、元々の儒教の思想である(目上を敬うといった)本源的規範をもっともらしく転写⇒拡大させることによって、
血縁秩序を、豪族と小農民の地縁関係に変化させ、さらに
国家・皇帝と国民の君臣秩序に変化させ、
漢帝国の内陸秩序を周辺地域にまで拡大させていきました。
このように、東アジアという広大な領域に構築した私権統合体制を観念として固定⇒規範化することによって、中国帝国史上最長の400年もの間、帝国を維持することができたのです。
○漢帝国の勢力図(前漢)
最後に、漢帝国の私権統合体制の土台となった朝貢制の起源を探ってみます。
■■ 漢帝国による朝貢制の起源は、匈奴の「貢納関係」にあった
□ 匈奴の「十進法体系」による牧民の組織化
北アジア史上最初の遊牧帝国である「匈奴」は、漢帝国に先行して秦の後期に成立しました。
<年代>
秦 :BC221~BC202
漢 :BC202~AD220
匈奴:BC209~
匈奴の社会構成は厳密な意味での氏族や部族単位で服属させたわけではありません。
血縁の近い十人の騎馬兵を最小単位とし、百、千、万の十進法単位のピラミッド体系で統合する、きわめてシステマティックな社会統合組織です。
それらの統合者として諸種族の長を据え、様々な民族の連合体となったことで広大なモンゴル高原を支配・統合することができたと言えます。
□ 匈奴の統合者「単于」は軍事統率者としてのみ存在した
匈奴の頂点に立つ単于は、支配下の族長から領域を取り上げたり移動させるような権限を無制限にもっていたわけではなく、また支配下の
族長会議の意向は無視できませんでした。
つまり、単于と諸族長の関係は、
諸族長との合意承認のもとでの制限された権力としての軍事統率者としてのみ存在しました。
□ 重層的な『貢納関係』によって匈奴社会は統合されていた
一方で、墓群のなかには、副葬品や殉葬された家畜数などで、
匈奴内において大きな較差を見せているものも少なくないものの、族長が共同体の一般成員から、賦役労働や兵役などの形態で
搾取している事例は確認できません。
したがって富裕層の富の源泉は、征服した周辺遊牧民からの収奪物以外に、
下位の共同体からの貢納物と考えられます。
つまり、この帝国の構造のなかでは、通常の国家で行われる上から下への暴力的な収奪ではなく、
重層的な『貢納関係』が存在していたと考えられます。
(実際匈奴は、略奪や殺戮も行ってきましたが、示威行為や話し合いなどで服属させて可能な限り戦争を避け、積極的な融和政策によってより強い紐帯を築いていきました。)
よって、漢が国家統合のためにおこなった「朝貢制」は、
秦の「徳化政策」に、漢に先行して帝国を築いた(遊牧帝国)
匈奴の「貢納関係」を取り入れたものではないかと考えられます。
漢が、周(チベット系)に追いやられた殷(モンゴル系)の部族がつくった楚を出自としていることからも、匈奴(モンゴル系)の統合形態を取り入れたと考えても辻褄は合います。
***
☆☆ 私権統合国家の確立によってついに中華思想が現実のものとなった
これまで見てきたように、漢帝国は朝貢制と冊封体制によって、現実的な私権追求の可能性とその段階的な制限をもって私権統合体制を構築し、それを観念(儒教)によって固定⇒規範化することによって、
中国史上初の皇帝を頂点とする私権統合国家を実現しました。
これは、秦の時代に登場した
徳化思想を原点とする中華思想が、いよいよ漢帝国によって現実のものとなったということでもありました。
<参考記事>
【中国】一人の中国の君主に同化することを理想とする、秦・漢帝国の「徳化政策」
中国交易史2 (秦~漢時代)朝貢交易体制と中華思想
属国意識の形成過程(1)
【中国】中国初の私権統合体制を実現した漢帝国 ~「朝貢制」の起源は、匈奴の「貢納関係」~
匈奴に見るモンゴル遊牧民の本源性
<参考図書>
漢民族とはだれか/安達史人著(右文書院)
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2011/08/2047.html/trackback
通りがけ | 2012.07.08 0:48
世界の命運は今も昔も日本が握っている。いまは地位協定を破棄するかどうかで世界が平和へ向かうか戦争へ向かうかが決定する。