2011年07月19日

遊牧民の中国支配史1:プロローグ ~略奪闘争(遊牧部族との混交)前夜~

現在、世界経済情勢はドル・米国債の暴落へと向かっており、近代以降の世界を先導してきた西洋文明は大きく崩れ、少なくとも21世紀初頭には世界は大転換を迎えるだろう。
それは、おそらく西洋文明から東洋文明への転換ということになると予測される。(※参照
 
その兆しであるのか、東洋の大国である中国は、ここ10年くらいで世界への影響力を格段に増した。
しかし、国内の格差拡大、頻発する暴動や、政治に対する軍の力、欧米の金貸しに対し独自の力を持ちつつある寡頭勢力、日本に対する圧力や盗賊集団の横行など、その動きは古いパラダイム(私権的)としかいいようがなく、中国が次代を切り開く可能性になりうるか疑問である。
また、日本人から見た中国人は、~自己中心、ご都合主義、独善~、~責任転嫁、人間不信~、~土匪国家、危険な「友好」~といった、よろしくない特徴への印象も強い。
 
今後、日本人の進むべき方向性はどこにあるのか? 激動の時代を生き残っていく可能性のある民族はだれか?
その可能性を模索していくうえで、中国とは、中国人とは? の分析は不可欠です。
 
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
 
古来より中国は、常に四周の「東夷(い)、西戎(じゅう)、南蛮(ばん)、北荻(てき)」と呼ばれてきた民族と中原(洛陽盆地)をめぐって戦い興亡をくりかえし、特に東夷、西戎、北荻のさまざまな遊牧民族との戦いのなかから支配国家が入れ替わってきた。
現在に至る中国人は、これらの遊牧諸民族が接触・混合した末の子孫である。
 
今回の中国シリーズは、中国の歴史をつくってきた“遊牧民”に視点をあて、
中国の国家統合原理、支配原理は何なのか? 
中国人の意識構造はどうなっているのか?
このことを、時代を遡り「中国人の民族特性」を追求していきます。
 
第1回の今回は、略奪闘争前夜(遊牧部族との混交によって王朝が成立するまで)です。
 
 
 

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※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
 
◆ ◇ 4.6~1.4万年前(スンダーランド水没)
『中国大陸の民族分布』
 
 
北方モンゴロイド→(中亜モンゴロイド)→シナ・モンゴロイド  ─┐
                                  ↓     【ツングース族】
                        原中国人(原中原人)─→【モンゴル族】
1.4万年前スンダーランド水没                  ↑     【トルコ族】
スンダ・モンゴロイド(D1、D2)→モンゴル高原→新モンゴロイド─┘
|  |             (O3原アルタイ語族)
|  |
|  └─→ チベット高原東部 →黄河上流 ──→【チベット族】
|           ↑
|        (印欧語族の圧力)

└────→ 南方モンゴロイド系(O1、O2)  ───→【原江南人】
 
 

(※クリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです) 
 
■ シナ・モンゴロイドの形成
①4.6万年前頃 寒冷・乾燥化(→砂漠化)
インダス川流域にいた『原モンゴロイド(C3)』が、湿潤な土地を目指してパミール高原~タリム盆地に移動。
②4万年前頃 温暖化
バルハシ湖を経由してバイカル湖に“北上”し、寒冷適応した『北方モンゴロイド』を形成。
③ 寒冷化と温暖化の気候変動
「バイカル湖 ⇔ パミール高原・タリム盆地」の間を“南下”と“北上”を繰り返し、原モンゴロイド+北方モンゴロイドが混血した『中亜モンゴロイド』を形成。
④1.8万年前 温暖化
バイカル湖から“南下”してモンゴル高原に至り『シナ・モンゴロイド』を形成。
 
■ 新モンゴロイドの形成
①1.4万年前 スンダーランドの水没
スンダーランドにいた『スンダ・モンゴロイド(D1、D3)』が四散するが、その一部がチベット高原を北上するルートで、パミール高原~タリム盆地に至る。
②1万年前 温暖化
パミール高原~タリム盆地から“北上・東進”し、モンゴル高原にスンダ・モンゴロイドが侵入し『新モンゴロイド(O3)(原アルタイ語族)』を形成。
 
 
■ ■ 原中国人(トルコ族、ツングース族、モンゴル族)
上記の、もともとモンゴル高原にいた『シナ・モンゴロイド』とそこに後から進入した『新モンゴロイド(O3)』が混血したのが【原中国人(原中原人)】
そして、7500年前の温暖化にともない、モンゴル高原の原中国人が拡散し分かれる。
  ○【トルコ族】    :バルハシ湖に西進した部族
  ○【ツングース族】 :遼河に東進した部族
  ○【モンゴル族】  :モンゴル高原に残った部族
 
■ ■ 印欧語族に押し出されたチベット族
上記の原中国人(原中原人)の系統に加え、中国を構成する部族として、
①1.4万年前 スンダーランドの水没
『スンダ・モンゴロイド(D1、D3)』が四散するが、その一部がチベット高原東部の長江・メコン川最上流に移動し【チベット族】を形成。
②(イラン高原→)タリム盆地からチベット高原に進出してきた『印欧語族の遊牧部族』によって押し出され、黄河上流へ進出する。
(※チベット族には印欧語族(≒白人)と混血した可能性はある)
 
■ ■ 中国農耕文化を形成した南方モンゴロイド系部族 
また、上記の系統に加え、中国の基層をなす部族として、
①1.4万年前 スンダーランドの水没
『スンダ・モンゴロイド(D1、D3)』が四散するが、その一部の中国南部(江南)に進出した部族が【南方モンゴロイド系】
因みに、このなかから長江や黄河に農耕文化を形成したと考えられる。
 
■ ■ ■ 中国人の人種構成
中国人(中国の歴史)は、長江や黄河に農耕文化を起こした『南方モンゴロイド』を基層(被支配層)として、『原中国人(→ツングース族、モンゴル族、トルコ族)』と、西方から圧力を受けてやってきた『チベット族』が、支配層として入り混じり形成している。
 
 
◆ ◇ 9000~5000年前
『原江南人による各地の文化~黄河上流の仰詔文化が西方と交流、遼河流域はコーカソイドと混血』

 
 
      │ 長江流域  │ 黄河流域  │ 遼河流域  │
 ────┼────────┼────────┼────────│ 
  上流 │彭頭山/大渓│ 仰詔     │ 興隆窪    │
 ────┼────────┼────────│    ↓     │
  中流 │ 河姆渡    │裴李崗/仰詔│ 新楽     │
 ────┼────────┼────────│    ↓     │
  下流 │         │大ブン口    │ 趙宝溝    │
 ────┴────────┴────────┴────────┘
※遼河は、上から下へ時代変遷を表す(上流~下流ではない)
 
■ ■ 長江流域
【 彭頭山文化 】
・大量の稲殻・稲籾
【 河姆渡文化 】
・7000年前には稲作が確立(※参照)
・高床式住居の出現
・ブタ、イヌ、スイギュウの家畜跡
・男性より女性の墓に副葬品が多い
・ネパールから運ばれてきたとされる蚕が6000年前の象牙製品へ刻まれた絵から確認される(※参照)
・同様の経路で絹織物についても5500年前のものが発見される(※参照)
 
■ ■ 黄河流域
【 裴李崗文化 】
・墓の副葬品から石製の磨盤、磨棒、農具
・符号が刻まれた亀甲や石器
【 仰詔文化 】
・動物を表記した彩陶土器
 →既に8000年以上前にあったメソポタミア地域やその後中央アジア(アナウ文化5500年前~)に広がった彩陶文化と酷似(※参照
・頭を西にして埋葬(周辺地域は頭を東に埋葬)(※参照
・ほとんど例外なく女性中心の埋葬法を示しており、副葬品も女性のほうがはるかに多い(※参照)
 
■ ■ 遼河流域
【 興隆窪文化 】
・中国最古の玉器
・人とブタの合葬墓
・モンゴロイドの顔つきに青い目の石が入れ込まれた女神像信仰(※参照)
 

(※クリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです) 
 
■ ■ ■ 9000~5000年前(主には8000年前)、上記をまとめると
・農業の開始による母系⇒母権制の形跡(※参照)
・長江流域で稲作が始まる
・ブタを始めとした家畜が始まる
 
【各流域での他部族との接触・交流】
 
○長江流域
インド方面との交流の痕跡が見られるが、蚕(生糸)・絹織物の生活品といった限定的な交流と思われる。
 ⇒後のシルクロードに繋がる経路で交流していたと思われる。
 
○黄河流域
動物を表記した彩陶土器、頭を西にした埋葬から、西方の遊牧民族との交流の痕跡が見られる 
⇒草原の道(カスピ海-タリム盆地-コビ砂漠-黄河)が経路になっていたと思われる。
 
○遼河流域
イランなどコーカソイド(青い目)との混血の痕跡が見られる。
 
 
 
◆ ◇ 5000~4000年前 
『黄河と遼河流域は、北方遊牧民との本格的な接触がはじまる』

  
      │ 長江流域  │ 黄河流域  │ 遼河流域  │
 ────┼────────┼────────┼────────┤
 上流  │三星堆     │馬家窪/斉家│         │
 ────┼────────┼────────│         │
 中流  │石家河     │河南龍山   │ 紅山     │
 ────┼────────┼────────│  ↓       │
 下流  │良渚      │山東龍山   │ 夏家店    │
 ────┴────────┴────────┴────────┘
※遼河は、上から下へ時代変遷を表す(上流~下流ではない)
 
■ ■ 長江流域
【 石家河 】
・版築という技法で作られた集落の囲壁
 ⇒最大で120万平方メートル
・石家河集落を中心として、その周辺に小型の城郭集落、さらにその周辺に多数の小集落
 ⇒各首長たちが定期的な共同祭祀
【 良渚 】
・巨大な墳丘墓
・首長が玉器や玉そうを下位の首長に分与
 ⇒重層的な贈与関係
 
■ ■ 黄河流域
【 河南龍山 】
・一部の被葬者の左右に貝殻で虎と龍を表現
・城壁の出現
 ⇒時期を追うごとに規模が巨大化
・男女の合葬の出現
・男性の祖先崇拝を象徴する石祖や陶祖の出現(※参照)
 
■ ■ 遼河流域
【 紅山 】
・円形と方形の積石塚(墓葬)
 ⇒大型墓には玉器など多数の副葬品
 ⇒積石塚と積石祭壇が東西方向に並んで展開
・「女神廟」と呼ばれる祭祀用の建造物
 ⇒細長い土坑に動物や人物像
 
■ ■ 全地域的な傾向
・後半になると各地で石製の武器類が多く出土
・他方面的な地域間交流の形成(※参照)
 ⇒ブタの下顎骨を副葬する風習(東から西に拡散)
 ⇒玉壁・玉璋など(東から西に拡散)
 ⇒卜骨の風習、羊の飼養(西から東に拡散)
 

(※クリックすると拡大します。 図は当ブログで作成したものです) 
 
■ ■ ■ (5000~4000年前)、上記をまとめると
・墓葬や副葬品の規模に大きな格差が見られるようになる
・囲壁や城壁の出現
・祭祀施設の出現
・武器の出現
・5000年以前には見られなかった他方面的な地域間交流の形成
 
【各流域での他部族との接触・交流】
 
○長江流域
中流域の石家河文化は、血縁集団の部族社会(氏族共同体)であることがうかがえる。一方、下流域の良渚文化では、巨大な墳丘墓が形成されていることから階級化された首長社会(村落共同体)に移行していることがうかがえる。
この灌漑農耕社会に顕著な社会構造から、北方遊牧民との接触は限定的で、原江南人が農業生産を向上させながら集団規模を拡大し、階級社会化に移行していっている段階と想定される。
 
○黄河流域
遊牧部族の父系・父権に顕著な男性の祖先崇拝が見受けられること、また、城壁が出現しそれが時期を追うごとに巨大化していることから、西方・北方からの遊牧民族の侵入が進行していったと想定される。
 
○遼河流域
9000~5000年前からコーカソイドとの混血が見受けられたが、この時期において、遊牧民に顕著な埋葬品・動物をかたどった祭祀用建造物が見受けられることに加え、東西交流を示す積石塚と積石祭壇が東西方向に並んで展開されていることから、コーカソイドに加え(遼河流域西の)モンゴル遊牧民と混血していったと想定される。
 
 
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
 
次回は、このような各流域の民族状況のなか、中国史上初の王朝「夏」~「殷」「周」の成立
と、遊牧部族の関わりを見ていきます。

List    投稿者 kirin | 2011-07-19 | Posted in 未分類 | 1 Comment » 

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