~社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流~
10回に渡って「社会可能性の直感・・我々は認識を武器として生きてゆけるか!」を扱ってきましたが、いよいよ最終回です。
- 1 新パラダイムの点検1 現実の壁を対象化できるか?
- 2 新パラダイムの効用1 現実否定の鎖を断ち切って、プラス活力の上昇へ
- 3 新パラダイムの効用2 答えを教え広める動因
- 4 新パラダイムの点検2 可能性と不全(肯定か否定か)
- 5 新パラダイムの点検3 可能性or不全の源を対象化し続ける源泉
- 6 新パラダイムの点検4 物を考えない状態と物を知った状態(思考の源泉)
- 7 実現課題1 仲間世界をどう生きるか
- 8 実現課題2 何をすれば良いのか分からない
- 9 社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力 ・・・前回
-10 社会収束2 私権圧力を超えた外向収束の潮流 ・・・今回
さて、前回の~社会収束1 評価共認が生み出す同類圧力~では、
『人々の評価によって統合されている集団や社会では、同類圧力が常に働いている』こと、
そして『同類圧力が働いている社会空間の中では、人々の外識機能は、より広い対象(より多くの人や場)を捉えようとする』ことを扱いました。
続いて今回の社会収束2では、『人々の外向収束の潮流』を見ていきたいと思います。
ぽっちっとおねがいします。
まずは「同類圧力」の定義です。
同類圧力とは、期待⇔応望の圧力を母胎として生起する評価圧力(評価共認⇔評価競争の圧力)、および(その評価共認によって収束→固定された)制度・規範・観念の固定圧力であり、全ては共認圧力である。
人類にとって共認圧力とはまさに命綱です。そして共認圧力は、生存圧力を克服した’70年を境に、同類圧力へと転換していきます。
この新しい共認圧力(同類圧力)に適応すべく生まれ出る最先端の意識(欠乏)は、いったいどこへ向かっているのでしょうか。
この圧力を受けて、
〇外識機能は、個人や集団を超えた社会圧力(上記の共認圧力)を把握しようとする認識欠乏(注:これを脱集団という意味で、外向欠乏と呼ぶ)に収束する。
注:この外識機能の外向基調(外向欠乏・外向収束)は、内識機能の充足基調(充足欠乏・充足収束)と並ぶものである。
注:マスコミもネットも、社会探索も事実収集も、実現論も、全てこの外向欠乏が生み出したものである。
〇内識機能は、個人や集団を超えたより広い対象に向かい、多くの人とのつながり(広がり)欠乏に収束する。
注:これは外識機能の外向基調が生み出した共認(期・応)欠乏である
人間を始めとした生物(外圧適応態)の認識機能には、欠乏を感じる内識機能と、それを充たす外識機能があります。そして、内識機能と外識機能をイコールで結ぶ実現回路が可能性を探し当てるのです。
同類圧力(社会圧力)を受けて、外識機能はこれを捉えようと認識欠乏に収束します。これは、社会圧力を捉えるのに観念が必要だからです。
それに導かれて、内識機能の充足基調は、より広い対象に向かいます。誰も経験したことの無いモヤモヤ、収束先の見つからない不全状況を前にして、個人⇒集団⇒社会に重ね合わせることによって充足を獲得します。
同類圧力⇒(外識機能はこれを把握しようと)⇒認識欠乏・外向欠乏へ
↑ ↓ |
| (内識機能はより広い対象に向かい)⇒つながり欠乏へ |
| ∥ ↓
└――――――――――――――――――― 共認(期・応)欠乏 (リンク)
共認(期・応)欠乏が顕現し、これが母胎となって同類圧力を加圧していきます。
かつて、人類の同類闘争(とそれが生み出した集団を超えた社会圧力)は、掠奪闘争(その原基は縄張り闘争)として顕現し、それが私権時代の幕開けとなった。それに対して、現在生み出されつつあるのは、縄張り闘争ではなく、つながり(共認)を紐帯とした本源的な社会収束であり、これは人類史的に全く新しい潜在欠乏の発現である。
これまでこの本源的な外向欠乏は、私権引力やその縄張り集団によって打ち消されor閉ざされてきた。しかし、’70年以降の私権の衰弱につれて私権引力やその縄張り集団を超えて、人々が個々につながってゆくという形で、本源的な外向欠乏が徐々に顕在化してきた。
生存圧力を克服し、集団を超えた社会統合が実現可能になりました。
>今、人類がぶつかっているのは、掠奪闘争や私権闘争を超えた新たな社会統合の仕組みをどう作り出すのかという未明課題である。同時に、人類は改めて、6千年前には出来なかった、掠奪闘争や私権闘争をどう止揚・統合するのかという課題を、突きつけられているのだと云えよう。(リンク)
そして、遂に’02年、私権統合の崩壊によって外向欠乏⇒社会収束の潮流が一気に顕在化してきた。(但し、まだ人(つながり)収束に留まっており、社会そのものに収束していないという意味では半顕在化の段階にある。)
人に収束するのは、共認動物なのだから当然といえば当然です。しかし、社会不全を孕んで人収束している以上、従来の解脱では不全は解消されません。心の奥底で求めているのは、本源的な社会収束を体現した認識仲間です。
活力源が私権圧力から同類圧力へと転換した今でさえ人収束に留まってしまうのは、答えが見つからないからです。従って、可能性を感じられる答えや場さえあれば一気に社会収束は進みます。
実際に露店のお客さんやサロンの参加者には、自分の潜在思念にピタッとくる認識に出会ったり、現実に使える認識を獲得できると一気に認識欠乏が高まり、勉強意欲(活力)が出たという方が大勢いらっしゃいます。
2010年、社会収束はすでに顕在化しています。
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コメント2件
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hermes uk bradford 日本を守るのに右も左もない | 学生でもわかる『闇の支配勢力の抗争史』~第5話~ ロスチャイルド家のアメリカでの拡大戦略
古事記 | 2011.08.25 2:47
バンカー独裁に物申す
わたしは中央銀行がシビリアンコントロールされていないことにいつも疑問を抱いています。政府が銀行家よりたよりないから中央銀行が独立性を持たなければならないとは可笑しなこと。銀行家は選挙では決まりません。政府は民意が反映されますが中央銀行たとえば日銀総裁がどういう手続きで選ばれたのかはいまひとつ不透明ではないでしょうか。
日本の自衛隊のほうがもう少し独立性を確保すべきでは?とにかく独立性とは選挙があろうが、政局がどう動いても機能し続ける国家に不可欠なハードウエアー的な性格を持っている。生命とお金、どちらが究極的に大事かを考えると自衛隊のほうに軍配が上がる。