2009年11月10日

『みんな』に立脚した革命家:「長周新聞」福田正義主幹の紹介-3

福田正義氏は、時代背景から観念的には共産主義・共産党に傾倒しながらも、その枠組みに完全に囚われることなく、潜在で捉えて根本にある“人民のため”に徹底しきった。
 
そして、人民のためにあらゆる権威主義・政治主義・官僚主義と闘い続けたが、それを“左翼”と呼ぶならば、『左翼主義とは、人民主義(≒みんな主義)』と換言できるかもしれない。
 
シリーズラストとして、本文紹介の前に、福田氏の生涯史を踏まえ、「左翼とは?右翼とは?」何かを考えてみたい。
 

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★左翼とは? 右翼とは?
左翼=革新、右翼=保守というのが一般通念になるかと思うが、左翼と右翼の概念が登場した近代の資本主義と共産主義の国家体制の枠で考えれば、その国が持つ現体制によりその解釈が異なってくるし、混濁を起こすであろう。
 
そもそも国家という体制が形成された約5000年(人類史約500万年の中のわずか0.1%にすぎない)の歴史は、一貫して誰もが私権を求め争う「私権闘争⇒身分序列社会」である。
その次元で捉えれば、右翼=保守=身分序列の私権統合社会であり、左翼=革新=反身分序列の私権統合社会になる。
 
とすれば、それぞれの主義の意識を突き詰めていけば、
右翼=「身分序列主義  →国家主義 → 権威主義 ⇒孤立志向」
左翼=「反身分序列   →大衆主義 → 反権威   ⇒みんな志向」
に意識は収束していく。
 
ただし、左翼が「みんな志向」に収束して行くとはいえ、その根本にある観念は“反(アンチ)”であり、「反=否定発」では否定のイデオロギーの枠にとどまり、人びとが求める「充足=肯定発」の社会という本物の実現に肉薄すらできない。
特に現代のように貧困(生存圧力)が消滅し右翼も左翼も大義(右翼は国家、左翼は大衆)が喪失しているなかでは尚更である。

顔の見える範囲を超えた人びとを対象とする社会空間で活動する場合は、観念(≒認識)が必然的に必要となる。
福田氏といえども、置かれた時代環境(生存圧力を基にした序列原理に貫かれた社会)から、潜在思念では“人びとへの深い肯定視”に溢れながら、社会空間でそれを観念化するとき“反=否定発”にならざるをえなかった。
その肉体と意識の断層が、福田氏の潜在的な混濁として存在し、心残りではなかっただろうか。

しかしながらその点を考慮しても、福田氏の“人民のため”に貫かれた生涯の活動は、賞賛と敬意を感じずにはいられない。
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以下、
前々回の「“みんな”意識形成の土壌になった幼少~青年期リンク)」、
 
前回の「マスコミが権威に迎合して洗脳機関と化し、日和見主義で浮ついた空論に埋没することに苦闘した戦争前夜~戦中リンク)」に引き続き、
 
最終回として「戦後から、人民の言論機関・長州新聞を立ち上げ、人民のためにあらゆる権威と闘い続けた活動」を紹介します。

『共認の輪 るいNETWORK』お勧めサイト」の中から、「長周新聞『福田正義主幹の略歴』」より引用

確信にみちた戦後出発、下関から広島へ運動発展
 列車に乗った活動家の多くは東京にむかった。満州日報での新聞人としての実績を持った福田主幹が安易な個人生活の方向に行くなら容易であった。だがまっしぐらに下関で下車、焼け野原になった下関で、駅に家族を待たせて真先に訪れたのは共産党の事務所であった。
生活か革命かの分かれ目のとき革命を優先させるのである。敗戦後日本人民は苦難のなかにあり、戦争の荒廃のなかから必死に立ち上がろうとしていた。このいく千万大衆とともにすすむ道をつきすすんでいった。
 下関に帰った福田主幹はめざましい活動を展開することになる。すぐに共産党に入党、はじめに下関長府の進駐軍の労働組合の指導に、逮捕された友人の頼みで入ることになる。
この年のはじめ2・1ストがマッカーサーのGHQに弾圧されるが、年末には全国はじめての進駐軍労働者500人以上のストライキを組織した。飛び上がったGHQにいったん逮捕されるが、大衆のだれ1人として指導者について口を割らず、大衆の支持のもとで即日釈放された。
この指導力で、全駐労の岩国、防府分会を組織、県支部の書記長になり、中央執行委員になる。また下関地区労の常任執行委員になり、山口県西部地区委員長、県常任委員となり、神鋼、三菱造船、林兼造船、日東硫曹、三井製煉などの主要工場につぎつぎに共産党細胞を組織した。
 当時福田主幹は自転車でこれらの工場がある彦島へよくかよった。それは労働者のところに足を運び、その要求、怒りなどを聞き、ビラにまとめて訴える、その反響を調べて労働者を立ち上がらせていく、そして組織をつくっていく、という大衆路線に徹したものであった。また市内の街頭や寺で、時局問題などの講演会を数多くやっている。
 そして1949年には中国地方委員会常任委員として広島にいった。中国地方委員会の実質の中心指導者として、共産党内のいわゆる50年問題(アメリカ占領軍を解放軍とみなすか、人民の敵とみなすか)をめぐる中央部の修正主義勢力の妨害をうち破りながら、画期的な斗争となる1950年八・6平和斗争を組織した。朝鮮戦争のもとで、幾度となく発行停止の弾圧を受けながら「平和戦線」「平和の斗士」「民族の星」を発行した。峠三吉はこの新聞に「8月6日」「墓標」などの代表的な原爆詩を発表した。

上記の活動で特筆すべきは、
>労働者のところに足を運び、その要求、怒りなどを聞き、ビラにまとめて訴える、その反響を調べて労働者を立ち上がらせてゆく、そして組織をつくっていく>
 
福田氏は、絶えず大衆の生の声を汲み、それを集約し構造化した言葉にして発信し、そしてそこで留まらずそれに対する反応を大衆に還元して組織化するという「評価の送受信」を活動の原点にしているところは、注目に値する。
 
なぜ、福田氏の運動が、大衆の心を掴み、支持され、そして大衆からの評価止まりではなく大衆自ら運動参加(組織化)へと大衆の当事者意識を押し上げたのか?
それは、福田氏の活動とは『大衆(→人びと)が社会の当事者である』ことを示す活動だったからだろう。

画期をなす1950年8・6平和斗争を組織
 1950年8・6平和斗争こそ、福田主幹が中国革命で回答を得た問題意識を日本の斗争に具体化して突破したものであった。
そして「人民に奉仕する思想に徹して、人民の苦難を調べ、その手助けをしていくならばかならず勝利する。それがわたしの政治信条になった」と語っており、のちの長周新聞の創刊の路線につながる重要な経験であった。
亡くなる直前に、峠三吉の詩と写真を使った原爆展が東京に広がり、広島で大成功したことについて、感無量の喜びであった。みずからが心血を注いで突破したこの原点がふたたびよみがえり、当時できなかった東京や全国に広がってきたことを心から喜んでいた。
 当時広島の風呂屋に行けば、みんながケロイドを見せあいながら原爆の話をしている。だが一歩外に出れば表には出ない。「戦争を終結させるためにやむをえなかった」という占領軍の宣伝が押さえつけており、そして共産党指導部のなかでアメリカ占領軍を解放軍とみなす誤りがあって、原爆に抗議することが歴史的に積極的な意義があるという確信を持てなくさせていた。だが「そんなバカなことがあるか」として「アメリカをどう見るか」について中国地方委員会では、福田主幹が広島に行った49年ごろから論議がはじまった。
<中略>
この原水爆に反対する運動は、翌年には全国的な運動となって合法集会を開くところまでなり、8・6集会は北は北海道、南は沖縄から平和行進をして参加するなど広大な大衆的な広がりを持ち、55年には世界大会が開かれるまでに発展した。

 この敗戦後の時期に下関から広島にかけてともに活動した人はつぎのように語っている。
「福田さんの方針は、大衆の意見を忠実に集めて方針にしていくというものだった。党中央は戦後は右往左往していて、方針が定まらない状態だった。“獄中18年”といっても実際状況はわけがわからない状態だし、インテリ出身ばかりで頭のなかからああもいいこうもいう状態だった。しかし下関の運動はいつも確固としていた。
“党と大衆の関係はいかなるものか”ということについて、整風文献をよく学習させられたものであった。そのような福田さんの運動が、山口県に広がり中国地方に広がっていったのだ。中国地方委員会の代表は原田長司でいいかげんな男だったが、各県の幹部はみな福田さんを信頼して結集していた。会議をリードするのはいつも福田さんだった。最高の指導者の位置にいるが、夜に寝ずに自分でビラを書いたり看板を書くこともやっていた。
8・6斗争をはじめ、行動は非合法で先鋭であるが、そのまえに相当のビラをまいており、圧倒的な市民が支持するなかでやっているのだ」。
<中略>

 
アメリカ占領軍の洗脳により、アメリカ占領軍を解放軍とみなす日和見主義の潮流が蔓延っていくなか、1950年8・6平和斗争を通じ、アメリカ支配に対する闘争運動を展開していく。
 
本気で“みんなのための社会”を実現する気ならば、自分の頭のなかで“ああだこうだ”と考えるだけでは実現の答を導き出すことは出来ない。また、己の主義・主張を押し付けるだけでは人々の信頼・支持を得ることは出来ない。
本気で実現する気ならば、地道に人々の意識を汲み取り、それを構造化し、可能性の言葉を提示し、その評価を羅針盤にする必要がある。
福田氏の運動は理屈以前に肉体的にそれが貫徹されており、己の頭の中の探索だけを行うインテリ観念論者・原理主義者の似非運動家とは、雲泥の差を感じさせる。
 

国際的現代修正主義とのたたかいへ
 広島における50年8・6平和斗争は、福田主幹の戦後の活動の画期をなすものであり、人民がいるところではかならず勝利するという確かな確信を得るところとなった。
それはモスクワ放送がなければそのままずっと発展していたものであった。ここで壁となってあらわれたのは国際的な潮流であり、ソ連共産党指導部を中心とした現代修正主義であった。
それは当時、社会主義国の指導部として絶大な権威と影響力を持っていた。それは孤立を余儀なくされ、ひじょうな困難をもたらしたが、しかし戦前と第2次大戦、中国革命のみずからの経験から見て驚くことではなかったと思われる。
 「アメリカ占領軍は解放軍だ」といっていた側は、福田主幹らを「悪質分派」「階級敵」などと攻撃し、除名処分などで排除しながら、その後火炎ビン斗争など極左の方向にはねていく。
この重大な困難のなかで、福田主幹はひるまなかった。もっと大きな決意に立って、大衆のなかに深く根をおろし、いく千万大衆とともに新たな困難にたちむかう道をすすんでいった。戦前に「なにがなんでもやらねばならぬ」といって『展望』を発刊したが、もっと大きなスケールで再開することになる。
 広島から帰ってまずやったのが下関での回覧雑誌であった。それは苦労のいる仕事であったが、幹部という肩書きではなく、自転車で回覧雑誌を家家に届けて回り、裏口から人民の生活とかかわり、豊富ななまの人民生活を知り学ぶところが多かったといっていた。

満州の経験から中国共産党寄りの志向をもつ福田氏にとって、ソ連共産党の現代修正主義が大きな壁になったが、それが福田氏の新たな運動展開を導いていく。
 
それにしても、
>人民がいるところではかならず勝利するという確かな確信>
 
この言葉には、『人民への深い肯定視』、そして『“人民のため”の実現の意志』が溢れている。

1955年、人民の言論機関「長周新聞」を創刊
 そして1955年、福田主幹がつくった最高の傑作というべき人民の言論機関・長周新聞を創刊する。
共産党は分裂し瓦解しているが、それでは人民が困る、人民のためにどうするかということについて、当時共産党から排除されている山口県の有志のなかで論議がくり返された。そして「いかなる権威にも屈することのない真に大衆的な言論機関」として「独立、民主、平和、繁栄、民族文化の発展」の編集綱領をかかげて、まったく新しい人民のジャーナリズムを創造する、そのような高い意気ごみで長周新聞の創刊となったのである。
 それはいっさいの国際権威主義・政治主義・官僚主義の俗物路線とたたかい、また「大衆的」といって卑俗な常識主義のとりこになっていく流れとたたかい、地方現実の方向、地方に生きる人民の生活と斗争を歴史的社会的に描きあげていくという方向を断固としてすすんでいった。
それはまさに徒手空拳のなかから、みずからの路線の正しさと大衆の支持を確信して、政治的経済的なあらゆる困難や妨害を乗りこえて心血を注いだ活動を展開することとなり、印刷工場を持つ長周新聞社をつくりあげ、人民の統一戦線をまたたく間に発展させていった。
<中略>

上記の中でも注目に値するのは、
>「大衆的」といって卑俗な常識主義のとりこになっていく流れとたたかい、地方現実の方向、地方に生きる人民の生活と斗争を歴史的社会的に描きあげていくという方向を断固としてすすんでいった。>
 
“人民のため”を履き違えた大衆迎合に堕することなく、人々の潜在にある想い・期待・現実を歴史的社会的に構造化したうえで、それを発信し続けたことであろう。
 
そして、福田氏の活動は、共産主義・共産党の枠組みを超えた、『“権威”との闘い』だったのだと感じられる。

必然的な反修決起、人民解放の道筋を開く
 福田主幹のそのような路線と活動はその後必然的に、ソ連修正主義との斗争となり、1966年の宮本修正主義裏切り者集団にたいする反修決起と1969年の日本共産党(左派)の結党となる。1970年代にはベトナム革命を売り渡してアメリカに投降した中国修正主義との斗争となった。
<中略>
保守的といわれ、政治的な立場は異なっている人人が福田主幹の革命活動を物心両面から援助してきた例も数かぎりない。ある人はいっている。「うちの父親は自民党のゴリゴリの市会議員で、共産党が大嫌いでした。しかし福田さんだけは心から尊敬していました」と。
福田主幹はあらゆる斗争で孤立感を感じたことはないといってきた。福田主幹の活動を正当に理解することは、現代修正主義の影響を払拭(しょく)することと深くかかわっている。
 福田主幹の生涯は、戦前、戦後の全生涯をかけた実践のなかで、人民のために献身しつづけてきた人生であったし、いく千万大衆とともにすすんできた人生であり、いっさいのまやかしとたたかい、修正主義裏切り者集団とたたかいつづけた、真のマルクス主義者、真の共産主義者の一生であった。
その人民解放の革命路線は、今日ひじょうに新鮮な輝きを持って、多くの人人に展望を与えることは疑いない。告別式で古い友人の1人は独特の表現の仕方でいった。「釈迦もキリストも死ぬときは小さい集団でした。あなたはいまから生き返る人です」と。福田正義主幹の生涯をかけた事業とその精神が、現代に生きる青年たちに受けつがれ、社会の正しい進歩発展と人民解放の巨大な力となっていくことは疑いないであろう。

<了>

List    投稿者 kirin | 2009-11-10 | Posted in 未分類 | 3 Comments » 

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