民主主義の欠陥2~これまでの市民運動とはなんだったか(戦後編)
画像はこちらよりお借りしました。
前回のシリーズ「民主主義の欠陥」では、フランス革命や明治維新が、実は商人階級や金貸しの策謀によって実現したことを書きました。
戦後編の今回は、「全共闘運動」を取り上げます。
●全共闘運動とは何だったか?
「全共闘運動」とは、1968年から1969年にかけて、各大学で結成された学生自治会の連合体「全共闘」が、学生自治、授業料の値上げ反対、当局の退陣などを大学に要求して、デモを繰り返し、大学をバリケードで封鎖するなどした一連の運動を指します。学生たちは、ゲバ棒や火炎瓶などで機動隊と激しく衝突し、東大安田講堂では、8,500人の機動隊と72時間におよぶ攻防の末、学生90人が検挙されました。
当時、全共闘運動に加わった学生の想いとはどんなものだったのでしょうか?
続きを読む前に、応援クリックをお願いします!
以下、るいネットより引用します。
◆「なんでや劇場が、昔の経験を総括し、昔の志を再生する貴重な場になった。」
私自身、学生時代、全共闘の最末端期にセクトに属し、活動を続けていました。活動に入った切っ掛けは、純粋にこの世の中は金持ち(資本家)が支配する社会で、貧しき我々、一般大衆を、その支配から解放しなければならないという思いからでした。
そのためには、我々学生が先陣を切って、反権力闘争を行うことによって、大衆が決起し、社会体制を変革できると考えていました。(中略)
その当時の闘争心は強く、闘争資金を得るために食費を切り詰め、官憲に見つからないように、深夜ステ貼りを行うなど、昼夜を問わず活動していました。また、デモでは官憲とぶつかり合うので、逮捕されることも覚悟していました。
そのような強い闘争心が何故生まれたのかといえば、その当時の意識としては「腐った社会を変革する」ということによるものと考えていましたが、(中略)いま考えてみると、その闘争心を支えていたのは、得られぬ私権の獲得に根ざしたものであったということがよく理解できます。
全共闘の最末期と先ほど書きましたが、私が活動しているときは、70年の貧困の消滅(豊かさの実現)が果たされたまさに、その時期で、デモや集会の参加者の人数は、1・2年の間に急速に減り、最終的にはほとんど活動家以外、一般学生市民を組織化できなくなりました。これも、「市民運動が私権欠乏をエネルギー源にしていた証」といえます。
私権欠乏が強ければ、その私権を得んがために立ち上がるが、いったん欠乏が満たされれば、それに甘んじて何もしようとしなくなる、まさに、70年から73年にかけて、このことが急速に起こりました。
結局、目指したことはことごとく実現できずに、私自身も、闘争心も萎え、結果日和ってしまいました。
運動は全国の大学に広がりましたが、バリケードは機動隊によって封鎖解除され、学生の要求のほとんどは退けられました。そして、運動に参加した多くの学生は、その後医者や弁護士、研究者・大学教員などとして社会に適応し、体制を補完する側に回っていくことになります。
画像はこちらよりお借りしました。
残った運動家たちは、「内ゲバ」という殺し合いに収束していきました。「内ゲバ」による死者は100名以上、負傷者は数千人と言われています。まさしく「多くの有為の若者が出口のない袋小路に追い詰められ、自滅していった (るいネット )」のです。
運動に参加した若者に決定的な不可能視を植え付けたという点においても、市民運動とは騙しであり、しかも、すべての可能性の芽を摘みとる破滅的な騙しと言えるのではないでしょうか。
トラックバック
このエントリーのトラックバックURL:
http://blog.nihon-syakai.net/blog/2011/08/2043.html/trackback
コメント2件
uk hermes | 2014.02.02 21:31
hermes rendsburg 日本を守るのに右も左もない | 幕末の思想1 下級武士が西洋思想に収束したのはなぜか?
通りがけ | 2012.07.04 1:03
その通りだと思います。
ただし幕末期吉田松陰はうすうすと、高杉晋作だけははっきりと西洋の侵略者の正体に気づいていたでしょう。二人とも武士という限界を超えられなかったとはいえ。