2011年08月02日

遊牧民の中国支配史3: ~春秋戦国時代・秦~ 550年間にもわたる遊牧部族同士の同類闘争が、心を歪ませ、思想を発達させた

みなさん、こんばんは~
◆遊牧民の中国支配史1:プロローグ ~略奪闘争(遊牧部族との混交)前夜~
◆遊牧民の中国支配史2: ~夏・殷・周の成立~
を読んでいただいてる方、お待たせしました
(まだの方もぜひ読んでくださいね
遊牧民の中国支配史3は、いよいよ春秋戦国時代~秦です :D
まずは、「春秋戦国時代って、何やらいろんな国が戦争しまくって国がコロコロ変わった時代でしょ~?」という印象しかない人のために、大まかな勢力史を押さえてみます
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
●周王朝の衰退(~B.C.770)
B.C.771第12代幽王の外交失策により、西方の遊牧民犬戎の侵入を許すこととなった周王朝の権威は縮小し、中国最初の戦国時代に突入する。
●春秋時代(B.C.770~B.C.403)
春秋時代には、「斉の桓公」「晋の文公」「宋の襄公」「秦の繆公」「楚の荘王」という有力な諸侯が現れ、これを春秋五覇と言う。(ただし、誰を五覇とするかは文献によって異なる)
後半になると、南方の「呉」「越」が力をつけてくる。
●戦国時代(B.C.403~B.C.221)
B.C.403晋が韓・魏・趙に分裂、ここから戦国時代が始まる。
「燕」「趙」「斉」「魏」「韓」「秦」「楚」の七雄が残った。
●秦の天下統一(B.C.221~)
戦国時代後半、燕・趙・斉・魏・韓・楚が“合従策”を結んで、力をつけてきた秦に対抗しようとするが、B.C.230始皇帝が本格的に東征してわずか10年弱で、天下は秦によって統一された。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
はい、これで当時の状況がざっくりイメージできましたね~ :wink:
では次に、春秋時代の5侯(→その後の戦国時代の7雄)について、彼らはどの部族だったのか?を押さえてみましょう
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【斉】 チベット系遊牧民
チベット系遊牧民チャン(羌)族は、紀元前1046年に中国の周と協力し、殷王朝を滅ぼし、紀元前770年から紀元前476年頃の中国春秋時代には「斉」を名乗る。
(参考:チベット系遊牧部族 羌族について
【楚】 モンゴル系遊牧民
周の成立によって黄河流域から追いやられた殷(モンゴル系遊牧民)の一部の民族が、長江流域に住み着いて(そこにいた南方系民族を支配、混血)、「楚」を建国。
(参考:漢王朝を築いた楚の支配層は、一度中原から追いやられたモンゴル系遊牧部族
【宋】 モンゴル系遊牧民
周によって滅ぼされた殷(モンゴル系遊牧民)の異母兄が封じられた国であり、前王朝の王統に繋がる国ということで最高位の公爵が与えられていた。
(参考:ウィキペディア
【晋】→【韓】【魏】【趙】 チベット系遊牧民
西周を滅亡させたのは、犬戎と呼ばれる部族であった。同じように、晋の献公の寵姫・驪姫は驪戎という異民族の出であり、これも西方の民族と考えられる。春秋の五覇の一人、晋の文公(重耳)の亡命先は狄であり、最初の妻もその出身である。
(参考:北方異民族史
【秦】 チベット系遊牧民
秦人は(始皇帝自身も)もともと、甘粛省の草原の遊牧民「西戎(チベット系)」である。
(参考:中国の歴史とは、漢民族の歴史ではなく、異民族の歴史を継はぎした物
(参考:中国史における皇帝たちの多くは、【非漢人】で占められ、その血統も入替っている
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
要するに、モンゴル系遊牧部族を滅ぼしたチベット系遊牧部族が「斉」を作り、敗れたモンゴル系遊牧部族の一部が「楚」や「宋」を作って、周を滅亡させたチベット系遊牧部族が「晋」を作り、チベット系遊牧部族の別の一派が「秦」を作った・・・
つまり、遊牧部族同士で、延々と同類闘争を繰り返しているんです
しかも、中心国と周辺諸国の覇権争いだけでなく、国内の諸侯同士の下克上や、外からの遊牧部族の襲撃が絶えません。また、そのような不安定状態では、被支配層も流民化(逃亡)します。
このように、春秋時代~秦による天下統一までの実に約550年(B.C.770~B.C.221)もの間、中国人は支配や服属、裏切りや復讐を繰り返してきました。
彼らにとってそれが当たり前であり、それに対する疑問や罪悪感が生じる隙はありません。むしろ、各国は「富族強兵」の集団共認の下、それらを推奨しています。
つまり、このような歴史こそが、自己中心・ご都合主義・独善・責任転嫁・人間不信etcの中国人の特殊性を生み出している要因の一つなのではないでしょうか。
★ではなぜ、遊牧部族同士だと、延々と同類闘争を繰り返すことになるのか?
考えられる理由は、二つです
①力が拮抗しているので、皆殺しにならない。
②遊牧出身なので、移動することに抵抗がない。(侵入する方も逃亡する方も)
特にこの「移動に抵抗がない」は、農耕民との大きな違いです。
★では、このような状況で、諸国(略奪部族)をどうやって統合してきたのか?
最後にその支配構造を押さえてみたいと思います
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『春秋時代は、覇者を頂点とする部族連合だった』
春秋時代の覇者とは、諸侯間の紛争に割り込んで強大な武力を背景に有無をいわせぬ調停役を担い、諸侯に号令して異民族の進出をふせぐ役目を果たしていた。もちろん、従わぬ諸侯があれば、撃滅するだけの武力を擁していなければならない。
覇者は会議を主宰し、体制の確認・諸侯の後継者の確認・新勢力分野の決定などが行われるが、駆け引き・牽制の緊張状態が続いている。
(参考:春秋時代の勢力図① ~中原中央部の衰退と、中原外縁部の盛衰~
『戦国時代は、戦争と外交による武力支配だった』
覇者による間接的な統治方法は時代遅れとなり、各国は、強国が弱小国を滅ぼして直接支配していくという領土国家へと転身していった。
ただし実際は、激しい国家間闘争と合従連衡を果てしなく繰り返すだけで、安定はしていない。
『秦は、中央集権(役人派遣)と法制(厳罰)による観念支配を成し遂げた』
役人派遣によって中央集権制度を確立する一方、厳しい罰則つきの労役や隣組制によって管理を強めた秦は、国力を充実させ、遂に天下統一を成し遂げた。また、文字や貨幣もこのとき統一されている。
(参考:秦 ~初の統一国家=支配体制の確立~
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
このように、当時の支配層はいつも、国内の安定を図ると同時に、隣国や遊牧部族を警戒しながら、虎視眈々と侵略の機を狙っていました。
それに応えて登場したのが、数多くの思想家たち(諸子百家)です。
実際、春秋・戦国時代には、各諸侯国が国策として優秀な学士を集めています。
(参考:数多くの思想家が登場したのはなんで?
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(図は、中国的こころさんからお借りしました
つまり、中国のもう一つの特徴である思想の原点は、遊牧部族ゆえの交易能力を発達させた、兵法や権謀術数や人身掌握術だったのです
しかし、春秋・戦国時代の戦乱を統一した秦帝国の歴史は、わずか20年余りで幕を閉じ、漢帝国の時代へと突入します 遊牧民の中国支配史4へ続く
※主な参考サイト
るいネット
世界史ノート
知られざる人類婚姻史と共同体社会

List    投稿者 staff | 2011-08-02 | Posted in 未分類 | 4 Comments » 

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