- 日本を守るのに右も左もない - http://blog.nihon-syakai.net/blog -

日本のマス・コミュニケーション史-1~明治期以前から明治初期のメディア~

%E6%96%B0%E8%81%9E%EF%BC%91.jpg
写真はこちら [1]からのいただきました。
日本のメディアの歴史について1970年に出版された『日本マス・コミュニケーション史[増補]』(山本文雄編著 1970年 第1刷発行、1995年 増補版第6刷発行)という書籍を紹介します。
●明治期以前のメディア
■外国新聞の翻訳新聞(官板新聞)のスタート
・1862年(文久2年)1月:日本最初の新聞である「官板バタビヤ新聞」発行(→「官板海外新聞」(改題))
バタビヤのオランダ政庁の機関紙「バヤッシェ・クーラント」の外国記事と題する国別記載のニュースを蕃書調所(後、洋書調所と改称)という翻訳機関を設けて発行した。

長い間幕府要路者の独占していた海外情報を開放したのは、攘夷論が盛んだった当時、開国論にイデオロギーを統一する必要に迫られ、その政治的宣伝機関としての新聞の発行に踏み切ったと考えられる。

■外字新聞と外国人経営の邦字新聞
・1862年(文久2年)外字新聞「ナガサキ・ショッピング・リスト・アンド・アドバイザー(のちの「ジャパン・ヘラルド」)」が、ジョン・レッディ・ブラック(のちの日本新聞界で活躍)を主筆として創刊される。
これを契機に外字新聞が10数紙生まれた。いずれも在留外国人を対象としていたが、治外法権の特権から日本の政治批判も掲載された。

日本の初期の新聞は、官板新聞からスタートしたが、実質的には外国人によって開拓された。宣教師であれ商人であれ、新聞がニュースを主要な内容とすることを示唆したのは、これら外国人に負うところが大きい。

続きは ポチッっと押してからお願いします


●明治初期のメディア
■左幕派新聞対尊王派新聞
・1867年(慶応3年)10月:大政奉還
・1868年(慶応4年)2月「中外新聞」の発行を始め、わずか数ヶ月の間に多数の左幕派新聞が江戸、横浜に現れた。
左幕派新聞は薩長への反感を露骨に表現して、幕府擁護の筆をとり、戦況の報道にも終始、幕府側が勝利を得ているという虚報を流していた。
福地源一郎(「江湖新聞」)「はなはだしきは戦報の空説もしくは政況の虚聞を作為して以って記載したることあり」
岸田吟香:「世間の人は戦争の模様を知りたいと新聞を争い読むけれども、新聞は正確な探訪をするなどは夢にもなく、ただ耳から耳へ聞き伝えたままを書き、或いは毎度西国方が勝った事ばかりでは、江戸の人気に投ぜぬから、わざと官軍が負けたと書くことがある」と述懐
尊王派の新聞は反対に、幕府軍を賊兵、会賊などと呼び、幕府側に有利なニュースは、ことごとく否定。

以上のように、維新内乱期における新聞は、左幕、尊王の両派に分かれ、対立意識の闘争の武器と化していた。この当時から、虚報を流していたのだ。

■左幕派新聞への弾圧
江戸が西国有藩(薩長中心)の掌中に帰すると同時に、新政府反対派である左幕派新聞は発行禁止に合い、壊滅するに至った。
1868年(慶応4年)4月から左幕派新聞の要人が逮捕、板木が没収され、5月発行が禁止された。
1869年(明治2年)2月:「新聞紙印行条例」発布→政府の統制のもとに新聞の発行を認めた。
旧幕府の開成所(洋書調所の後身)を改組した開成学校が新聞の管轄。
条例の骨子は、第1に発行許可制をとったこと。第2に編集者の責任を定めたこと。第3に記事制限の規定を設けたことであり、政治評論は禁止された。
■政府の新聞保護政策
1869年(明治2年)6月の藩籍奉還、4年7月の廃藩置県により、新政府がさしあたり取り組まねばならなかった問題は、旧体制の打破と集権国家体制の樹立に伴う改革の趣旨徹底であった。
そこで、公報の発表、知識の開発に新聞を利用する必要を感じ、新聞の発行を援助すると同時に、新聞の普及にも積極的となった。
1871年(明治4年)7月 先の「新聞紙印行条例」を改訂し、「新聞紙条例」を公布。
冒頭に「新聞紙は人の智識を啓開するを以て目的とすべし」や「文は極め
て平易なるを主とす。奇字癖文を用いるべからず」
と記されている。
この前後に新政府となんらかの関係ある新聞が多数発刊された。

政府は、新聞の普及のため「新聞朗読会」を開いたり、「新聞縦覧所」を設けた。当時(明治6年)の小学校の就学率が28.13%で、識字率が低いという背景があったためと思われる。

■官権派、民権派新聞の対立
明治7年1月17日、「民撰議員設立建白書」を左院に提出。征韓論に敗れた江藤、板垣、後藤、副島らによる。
翌日「日新真事誌」に掲載されると共に、新聞紙上に激しい論争が展開された。一方は国会の早急開設を主張する民権派、他方は政府に同調して斬新的に国会を開くべきだという官権派。
民権派新聞:「東京曙」「朝野」「郵便報知」「横浜毎日」
官権派新聞:「東京日日」
中立:「日新真事誌」

各紙の記者を見ると、大部分が旧幕府の出身という共通点がある。旧幕臣の記者は洋学者が多いので、新聞のような文化的機関の製作には適任で、新政府には批判的な立場を取っていたので、反政府的な言論を展開する必然性があった。

■新聞弾圧法令の公布
圧倒的な勢力の民権派新聞の言論は日ごとに激しさを増し、自由民権運動は到底抑圧することはできなかった。
そこで、政府は
1875年(明治8年)6月、新聞紙条例、讒謗律を公布して、言論を徹底的に取締った。
新聞条例:発行停止の行政処分を明文化
讒謗律:不敬罪、官吏侮辱罪、一般の名誉毀損罪を規定
(内務卿大久保利通の意向)
その後、5年間にわたり法に触れるもの200余人という、空前の言論恐怖時代を現出した。
そこで、政府は新聞記者を人材登用の名目で官吏に登用する方法を考えた。
優秀な記者が多数政府の陣容に参加していった。

新聞紙条例には発行禁停止の条項はあったが、記事に対する責任は全て編集人と筆者に限られていたので、処分を受けても次から次へと新しい編集人を届け出ることによって、新聞の主張は続けることができた。
そのため、9年7月、国安妨害に対する内務卿の発行禁止、停止という行政処分が加えられるようになった。発行手続き規定違反処分から内容違反処分に拡大された。

■小新聞の発生

明治初期の新聞は、政論新聞として発達したが、一般民衆は政治問題よりも日常の社会的な事件により多く関心を持っており、同時に難解な文章より平易な文章で書かれた報道を求めるという要求を反映して小新聞(こしんぶん)が生まれた。

・1874年(明治7年)11月 「読売新聞」創立者:子安竣
印刷業の副業として発足、創刊:200部隔日刊、半年後10,000部日刊
・1875年(明治8年) 「平仮名絵入新聞」 
隔日刊→半年後日刊、絵入りで編集技術に新生面を開き、連続読物で人気
大阪から
・1879年(明治12年) 「朝日新聞」
小新聞の形式から大小両新聞の両面を備え中間を行く編集方針へ、報道第一主義に徹し、著しい発展

以上、各紙の経営者や記者をみると、大部分は旧幕時代の戯作者たち。いわば維新の改革には縁の遠かった生き残りの封建文学者が生活の道を失って考え出したのが小新聞
従って、洋学者出身の政論記者のように、社会の木鐸、文明の先覚者という自覚もなければ抱負もなかった。
大新聞の記者当概念は一定の立場によって政治的評論を行うものであり、事件を取材する人は探訪といわれて、記者とは区別されていた。小新聞の戯作者たちは新聞記者の範囲外であった。
しかし、彼らは明治初期唯一の文芸家であった。その発表の場となったのが,小新聞。連載小説を販売の有力な手段として発展し、江戸文芸の名残の封建文学を新聞に結びつけた。

[2] [3] [4]