『次代に求められる共認形成力とは 第2回~私権時代の共認の中身とはどのようなものか~』
日本を代表する大企業(パナソニック、ソニー、シャープ)が相次いで膨大な赤字を発表し、待ったなしの事業縮小が迫られると同時に存続の危機さえ囁かれています。
原因は物的欠乏の衰弱(豊かさの実現)に伴う市場の縮小にあり、’70年代以降の歴代政府による市場の延命策(赤字国債の大量発行)が尽きたことを意味しています。
しかし、見方を変えると、現状は必ずしも悲観的な状況ではなく、寧ろ新たな可能性の局面に入ろうとする生みの苦しみの段階にあると捉えることもできます。
それが「物的生産から類的生産への大転換」という状況認識です。つまり「資本力(物的生産)に替わり共認形成力(類的生産)が生産能力を規定する時代に入った」と言うことです。
今回のシリーズでは、この「次代が求める生産力=共認形成力」をテーマに、その能力の中身について追求しています。
前回は「共認とは何か?」について、サル・人類まで遡って、その真髄である徹底した「同化機能」について見てきました。
第2回目の今回は共認(形成)の中身について、私権時代の共認とはどのようなものであったのか?について見ていきたいと思います。
■私権社会は~力の原理によって統合~
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私有制度に基づく(私権)社会では、誰もが、私権(地位や財産)の獲得を目指して争う。教科書に載っているいわゆる文明社会とは、誰もが私権(の獲得)に収束することによって統合された、私権統合の社会に他ならない。当然、そこでは私権の獲得に必要な力がものを言うことになり、力の弱い者は力の強いものに従うしかなくなる。力の原理である。
その力とは、武力闘争の社会では武力であり、市場競争の社会では資力である。それらの力は、社会を統合する統合力であると同時に、闘争相手を倒す制覇力でもある。
(実現論 序2.私権時代から共認時代への大転換より)
私権時代とは、強い者が弱い者を従える徹底した力の原理に貫かれた時代です。その力の中核を成すのが武力と資本力である。
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武力も資本力も個体の能力の外にあり、私権の相続によって、個体の能力形成とは別の次元に存在する既成の力のヒエラルキー(身分序列)に規定される構造にある。*この相続制度は最基底部にある婚姻制度と最先端の私権原理の2つの秩序が合体したものである。
私権時代の武力も資本力も共認形成力であるが、国民大衆全体を共認形成の対象とはしていない。私権闘争では力を持っていない層を相手にしても仕方がないので既成の力のヒエラルキーの中で力のある上位層をどう抱き込むか、そこに対象は限定されている。
⇒上位層との共認形成の手法が、利益誘導(アメとムチ)であり、利益誘導で相手を抱き込むために、騙し・ハッタリ・誇張・脅しが常套手段となる。
(2/28なんでや劇場レポート(1) 私権時代に求められた能力と、共認時代に求められる能力より)
私権時代は、序列上位の力(武力、資本力)を持った層同士が、共認形成によって私権闘争を繰り広げていた時代であった。
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■他方、一般大衆はどうであったのか?
人類が共認動物である以上、私権社会と云えども人々の共認によって社会が統合されるという原基構造は、不変である。しかし、私婚・私権の共認にしても、その延長線上の市場拡大(=豊かさ追求)の共認にしても、私権社会を統合してきた共認の中身は、全て外から(‘掠奪闘争=戦争によってor上から’統合階級によって)押し付けられた共認、つまり強制共認でしかない。人々は、自分たちの集団や社会を統合する共認形成の場(それは本来なら最大の共認充足の場)を剥奪され、ただ上から一方的に与えられた観念や制度を受け入れるだけの存在に貶められてきた。
その際、私婚や私権や市場拡大を正当化する観念を作り出して人々を教導し、強制共認をあたかも自主共認であるかの様に思い込ませる役割を担ってきた者たちこそ、倒錯観念で武装した牧師や学者・文化人・マスコミetcの発信階級に他ならない。
(共認革命9 強制共認と発信階級の犯罪より)
私権時代における(統合階級以外の)普通の人々は、徹底した力の原理によって共認形成の場を剥奪され、ただ上から一方的に与えられた観念や制度を受け入れる=強制的な共認でしかなかった。
そしてその強制共認の中身=観念とはどのようなものだったのか。
私権時代の全ての既成観念(古代宗教と近代思想)は、この異常な現実否定意識に基づいて作られている。その証拠に、これまで現実を否定する意識は、常に暗黙の内に正(義)として意識され、現実を否定する意識そのものを疑うような意識は、全く登場してこなかった。これは、現実否定→倒錯思考が、私権時代を貫く思考のパラダイムである事を示している。
(観念パラダイムの逆転2 現実否定の倒錯思考より)
旧観念(宗教や近代思想)は、潜在思念のうちの本源欠乏から見れば頭の中だけの“架空”観念であり(宗教)、私権欠乏から見れば本心を隠した奇麗事の“欺瞞”観念であり(近代思想)、いずれにしても潜在思念の“実現”観念態ではない。
(構造認識に感謝より)
私権時代の強制共認の中身(宗教や近代思想)は、その強制共認という都合の悪い現実から目をそむけさせるためだけの現実捨象の(倒錯)観念でしかなかったのです。
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それに対して、これからの共認時代は、誰もが共認充足を求めており、その根っ子or活力源が「自分からみんな」へ大きく転換していきます。よって共認時代に求められる共認形成力とは徹頭徹尾「周り・みんなの充足」であり、その中身は徹底した同化と事実の共認にある。
★以上より、私権時代から共認時代への転換によって、共認形成、観念の中身がどう変わるかをまとめると、次のようになります。
【私権時代】 【共認時代】
共認形成 強制的 → 主体的
観念の中身 現実捨象⇒倒錯 → 現実直視⇒事実
次回は、次代の共認の中身とは~日本が世界を先導する可能性~について詳しく見ていきたいとおもいます。
ご期待ください!
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