2012年12月26日

天皇国家の源流12 6世紀前半、伽耶滅亡と伽耶王族欽明の謎。~蘇我氏の全盛とそのバックにいる葛城~

継体に関して謎が多いことは、古代史の常識ですが、その実子とみなされている欽明に関しても継体以上に不可解なことが多い。
欽明天皇とは一体何者か、そしてその黒幕的存在と考えられる蘇我氏とは何者か?追求していきたいと思います。
引用部分は【欽明天皇の真相】(井上友幸氏)より引用させていただきました。

 継体天皇(26代)は、531年に没し、百済本記には「日本の天皇、皇太子、皇子がともに死んだ」という記録がある。これが正しいとすれば、継体の子である安閑・宣化天皇も継体とともに死んだことになる。継体の死後は安閑(27代)、宣化(28代)と続いたのではなく、何らかの大きな異変が起き、その後、欽明が即位したものと思われる。
日本書紀では欽明(29代)が即位したのは538年としているが、「上宮聖徳法王帝説」やそのほかの資料では欽明は531年に就任したことになっている。つまり、上宮聖徳法王帝説や百済本記が正しいとすれば、継体親子の死に方は、どう見ても戦死か暗殺である。
筆者は、多くの歴史学者が指摘しているように安閑・宣化は天皇にならず、継体の次に天皇になったのは欽明と考えている。同時に、欽明は伽耶国の皇子か、あるいは、応神王朝の血を引く伽耶に住んでいた後胤と思っている。今回は、伽耶と大和政権、欽明と蘇我氏の関係を伽耶の興亡とともに明らかにしたい。

ここで、欽明に関する謎をまとめておきます。
1.欽明は継体の死だけでなく、その王子と第2王子の殺害と関係がある。
2.欽明は蘇我氏の娘を2人娶った。
3.欽明の墓は、蘇我氏の本拠地飛鳥にある。
4.欽明の名は、天国排開広庭(あめくにおしはらきひろにわ)で、いかにも革命王にふさわしい。
5.欽明の即位と金官伽耶滅亡の年が一致する。
6.欽明は、任那(伽耶)復興を重要国策とした。
7.欽明が即位するや、父親である継体を担いだ大伴の金村が百済からワイロを受けたと非難され、失脚した。
8.欽明以後、大化の改新まで、蘇我氏の天下が続く。

このような多くの疑問があります。まず当時の外圧・外交情勢から見ていきたいと思います。

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・・・・特に、応神王朝の雄略天皇は、5世紀の半ばには再三にわたって朝鮮に攻め入り、新羅や高句麗と交戦している。479年には、中国(宋)より「使持節・都督 倭、新羅、任那、加羅、秦韓、慕韓 六国諸軍事・安東大将軍・倭王」の称号をもらっているが、この称号は雄略天皇が軍事的に高句麗以外の国(新羅、伽耶、百済)に勢力をもっていたことを示している。
百済に近い雄略が勢力を拡張すると、新羅は孤立状態となり、中国や高句麗との外交を頻繁に行うようになった。また、伽耶では、新羅と結ぶもの、百済と結ぶもの、大和政権と結ぶものなど小国単位で行動をとったため、伽耶としての結束力が弱まり6世紀には分裂状態になった。
529年には、大和朝廷は、遠征軍の大将であった近江毛野に、任那復興の調停を百済と新羅に働きかけるが不調に終わった。逆に、新羅は金官伽耶の4村(金官・背伐・安多・委陀)攻め取っている。
継体は、このような新羅の戦略に対抗するため、新羅に傾きつつある伽耶の4国を百済に割譲している。しかし、このことが伽耶諸国の反発を買い、伽耶と大和政権の関係は悪化する。また、531年には新羅は、伽耶の「安羅」国王を殺害し同国を新羅領にしている。
このような政治情勢の中、継体天皇は崩じた。時を同じくして、金官伽耶の金仇亥王は532年に王子2人をともなって新羅に降伏している。これが金官伽耶の滅亡である。筆者は、欽明は、この金仇亥王の息子か、金官伽耶に住んでいた継体の後胤であったと考えている。そして、日本の蘇我氏を頼って、日本に亡命したのでる。
蘇我氏の出身は伽耶である。金官伽耶がほろび、継体が死去したいま、蘇我氏にとって欽明は主家筋にあたり、もっともふさわしい天皇であった。それは継体の2人の皇子(安閑(531-535)と宣化(535-539))より、はるかに蘇我氏にとっては、魅力的な皇子であった。
耶諸国の存亡のときに天皇になった欽明は、在位(531年~571年)40年の間に、伽耶をめぐるさまざまな出来事が起きている。また、欽明は、異常なまでも金官伽耶の復興に固執し、百済との連係を基本にして、新羅に金官伽耶復興を働きかけた。
日本書紀では537年に宣化天皇が伽耶に援軍を出しているが、この時期は欽明の時代と考えられるので、これは欽明の伽耶奪還作戦とも考えられる。また、欽明は541年には任那復興会議を提唱している。
これは欽明が金官伽耶の復興のために百済・新羅・安羅などに声をかけ、新羅に食客として生活している金官伽耶の元王である「金仇亥」を金官伽耶の王に復帰させようとするものであった。その過程で欽明は、伽耶にいる近江毛野を支援するため「任那日本府」を設置している。
ところが、現地の情勢を知りぬいている近江毛野は、欽明の意向である百済支援を行わず、むしろ新羅と手を結んだ方が得策と考え、本国や百済の意向を無視する態度に出た。このことが、百済の聖明王の怒りとなり、再三百済から使者が欽明天皇のところに来ている。
そこで、545年、欽明は膳臣巴提便(かしわでのおみはすひ)を百済に援軍として出している。これは金官伽耶を奪い取った新羅との戦いのためで、欽明は百済とともに任那奪還を試みた。しかし、欽明の意向とは反対に、金官伽耶の復興どころか、大和政権と百済の連合軍と新羅軍と戦闘は激しくなった。
そうした中、548年になると高句麗が南下をはじめたため、新羅や百済は伽耶の問題に時間を割く余裕はなくなった。 一時的に新羅と百済は協力して高句麗の防衛にあたったが、高句麗が兵を引くとたちまち百済と新羅は争いを始めた。
553年には新羅は百済の漢城を落とした。百済にとっては大きな痛手となった。聖明王が百済の国宝級の仏像をもって日本に仏教を伝えたのは、漢城陥落直前の551年のことである。漢城陥落の翌年554年百済の聖明王は、新羅との戦いで戦死している。このとき百済軍の死者は3万人といわれている。
いずれにしても欽明は伽耶出身である。そのことが、伽耶復興などの行動の動機となり、これを支援したのが蘇我稲目である。欽明の皇子達は蘇我氏の娘を后妃としているか、または母親が蘇我氏である。蘇我氏はこれを狙って欽明を天皇にした。
欽明天皇(29代)は571年に亡くなり、欽明の皇子たちは、敏達天皇(30代)、 用明天皇(31代)、推古女帝(33代)、崇峻天皇(32代)と次々と天皇になるが、崇峻や用明の子・厩戸皇子(聖徳太子)のように欽明の遺言どおり、新羅討伐のため再三兵を九州に集結させ、伽耶の復活を図ろうとした。
しかし、いずれも蘇我馬子の反対で開戦には到らなかった。このように欽明の一族は、孫の代まで伽耶の復権を願い、欽明の遺言に答えようとした。しかし、蘇我馬子や蝦夷は、必ずしも伽耶の復興に賛成していたわけではない。彼らは常に伽耶復興軍の派遣に反対している。
蘇我馬子は、仏教を尊び、崇峻天皇や聖徳太子による新羅への派兵計画に反対し、その晩年には新羅と国交(621年)を回復している。戦闘一辺倒であった七世紀前半にあって、平和的な行動をとった蘇我氏ではあるが、後世の藤原不比等の策謀で古事記や日本書記では、「極悪人」とされた。

引用以上
●以上を簡単に年表としてまとめると
・527年or531年? 継体の死
・538年 欽明即位(日本書紀、別の説では、531年即位)
・537年 伽耶へ援軍(日本書紀)
・545年 百済へ援軍
・548年 高句麗南下、一時的に百済と新羅協力。しかし高句麗が引くと再び争い。
・553年 新羅が百済の漢城を落とす。
・554年 百済聖明王、新羅との戦いで戦死。
        百済から援軍の要請を蘇我稲目拒否。
・571年 欽明の死。
・621年 新羅と国交回復(蘇我馬子) 
・646年 大化の改新(百済援軍に邪魔になった蘇我氏を排除)
●冒頭の欽明の謎について
①明らかに継体とその息子は殺害されている。磐井の乱の鎮圧後不要になったと考えられる。彼を殺したのは先着勢力(葛城・蘇我)であることは間違いない。 
先回の記事
>単純な力関係では、先着勢力(葛城・大伴・蘇我)≧後発勢力(崇神・応神・継体・欽明)だった可能性すらあります。 ところが、全面戦争によって後発勢力を撃退するのではなく、先着勢力が後発勢力を奉った。
と書きましたが、都合が悪くなるとこうして抹殺してしまうことから、依然として先着勢力の方が、力を持っていたといたと考えられます。彼ら先着勢力が、継体抹殺後、欽明・伽耶系勢力を奉っていることから、強くなりすぎた百済系の力を殺いで、力のバランス上、伽耶勢力を導き入れたのではないでしょうか?
②欽明は、伽耶の王族。滅亡直前に日本へやってきたこと。蘇我氏が招いた。バックには依然として葛城。
単純に考えると手引きしたのは蘇我氏で、バックに蘇我氏がいるのは明らかに見えます。
ただ同時に大伴→蘇我への交代劇も起こっている。これはどう考えたら良いか?これは、あくまで表に出たくない葛城グループが、王だけではなく、表の番頭として大伴氏や蘇我氏を表に立てた事を意味しているのではないか?つまり、その奥には、相変わらず葛城のグループがいて代理orグループの表の顔として大伴や蘇我氏が表に登場しているだけではないのか?

参照:軍事力と財力、資源・物流力、外交力を有する、日本列島最強の集団だった葛城
極めて分かりにくい構造になっていますが、大伴と蘇我と同じような構造が続くということはそう判断するしかない。(ということは、藤原も?)
蘇我や大伴は元々は葛城グループではなく、朝鮮発の可能性は残るが、蘇我や大伴が朝鮮発だったとしても、葛城は娘を蘇我・大伴の嫁に出すことによって外戚となり、葛城グループに蘇我や大伴を組み込んだのではないだろうか。(婚姻・外戚戦略)
しかし、そうして取り込んでも、言うことを聞かなかくなったり、或いは、継体の百済復興や欽明の伽耶復興などを止める事が出来なくなって、大伴を外して蘇我を立てたと考えられます。上記引用文に見られるように、蘇我氏は祖国復興に賭ける欽明や伽耶勢力を抑えて、新羅と国交回復したりとバランスの取れた外交を行っている。
時代が進むにつれ、朝鮮(百済・加耶)からの亡命勢力が増えてゆき、力関係が朝鮮系>葛城系に逆転か?大化の改新とは、葛城Gによる部族連合体制から朝鮮系の支配勢力が政権を簒奪したクーデターでは?(その主力は新羅に滅ぼされる南百済から亡命してきた中大兄皇子?)あるいは、葛城が依然として力を握っており、今までと同パターンで、増長した蘇我氏を、中臣(藤原)を表に出して滅ぼしたのか?
・・・次回引き続き追求を続けたいと思います。

List    投稿者 ihiro | 2012-12-26 | Posted in 未分類 | No Comments » 

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