庶民による社会統合気運の高まり その最先端の潮流を探る3 ~「市職員給与公開-鹿児島県阿久根市 竹原市長」の事例に学ぶ!~
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前回に引き続き、当シリーズでは「高まる当事者意識の顕在化」について、最先端の意識潮流を追求していきます。
第1弾では矢祭町の議員日当制導入についてみてきました。今回は第2弾として、市職員給与と議員報酬の公開、議員報酬日当制など、メディアでも注目を浴びている「鹿児島県阿久根市長」の事例を扱っていきます。
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ニュースでは、市職員給与と議員報酬の公開をきっかけに注目を集めるようになりました。マスコミでは、独裁的であるとした政治手法の批判と、議会との対立を中心に報道されており、あたかも異端児であるような印象をじさせます。
しかし、市長ブログで公開している具体的な市の実態からは、市職員と市会議員が既得権益の維持を邪魔させまいと必死になっている姿が見えてきます。元公務員からの実態を裏付ける声や市民からの応援の声も少なくありません。
本当にズレているのはどちらなのか?
本記事では、竹原市長への反発を続ける議会の実態を明らかにしながら、特権階級の暴走を阻止する可能性について追求してみます。
■地方議員報酬、公務員給与の実態
市場原理の行き詰まりから、どの地方自治体においても、非常に厳しい経済状況におかれています。阿久根市も同様です。むしろより厳しい状況かもしれません。住民がそのような苦境に立たされている中で、市職員給与や議員報酬は”破格の待遇”といえる状況でした。これは果たして住民が是認し得る事態なのかという思いから竹原市長は実態開示に動いたのです。
ブログ「住民至上主義」より
2009/02/23 (月) 職員給料明細
19年度職員給与、手当明細も公開しました。
給与と手当を足した年収の合計が
900万円以上が2パーセント
700万円以上が54パーセント
500万円以上が80パーセント
300万円以上が92パーセントになる。
年収700万円以上の職員が54パーセント、大企業の部長以上の給料を受取る人間が過半数にもなる組織が阿久根市民の上に君臨しているのだ。
給与と手当だけで17億3千万円、市の人件費として更に退職手当や共済年金などのための支出が加わる。阿久根市の税収はわずか20億円。今後は景気の悪化で税収は更に減るだろう。市民は収入の減少で生活維持に必死だ。
経営という観点から市役所人件費の状態を見れば滅茶苦茶だ。
職責や能力と給料の関係もデタラメとしか言いようがない。
良心の破綻した経営に無能な人間が選挙で選ばれてきた結果だろう。
阿久根市の将来は先ず市役所の人件費を適正化できるかどうかにかっている。
今度の議員選挙で「職員を増やせ、職員の待遇をもっと良くしろ」とか
「(職員駐車場が遠くなれば)職員が雨にぬれる」などと発言するような職員出身議員たちが再選されるようならば阿久根市民は本当に救いようがない。
2007/10/20 (土) クソ議会、アホ議会、詐欺議員、アホ議員
市議会議員は議会の閉会中は基本的に公的な立場を持たない。
つまり、年4回の議会開会期間以外の約8ヶ月間には公的責任が無く、保証も無い。
にもかかわらず議員報酬を受け取っている。
議会開会期間中といっても実際には公的出勤は年間40日もない。
このような”破格の待遇”は前市長時代に市職員(組合)と議員の間でお手盛状態でつくりだされたもので、決して住民の信任得たものではありません。
メディアでは、日当制や職員給与の半減などを”専決処分”によって実行したことで、市長は独裁者であり、議員や職員は被害者であるかのように報じられています。しかし、住民生活の改善へ向けての”独裁的な専決処分”と自分達の利権を増やすための”民主的な議決会議”ではどちらがまっとうかは明らかではないでしょうか。
■議会の決議ってなに?
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そうは言っても、「”議会”は民主主義に則って成立している重要なものだと学校でも習ったし・・・」という思いを持つ人もいるでしょう。しかし、議会での採決方法である”多数決”も、みんなにとって必要なことが決まっていくシステムでは決してないのです。
参考記事
「”多数決”は、数の力による序列原理」を紹介します。
フランス革命を皮切りとする市民革命によって、民主主義はヨーロッパを中心に急速に広まっていった。フランス革命以前の絶対王政の下においては、一切の国家権力・政治権力は専制君主に属するものとされ、王権神授説によって宗教的にも根拠付けられていた。このような専制君主を中心とした貴族・僧侶、すなわち第一身分・第二身分が享受していた特権を、第三身分、すなわち新興市民階級が奪い取ったのがフランス革命であった。
この思想的背景を担うため、「国民主権」というイデオロギーが利用された。ここでは、国民一人一人の意思こそが至上のものであると定義される。
この「全ての国民が等しく政治を行う権力を持っている」というイデオロギーを貫徹させるため、国民が政治を決める為の場として(新興市民階級が参加する)議会が成立する。
しかし、「全ての国民が等しく政治を決定する権利を有している」という前提から出発する議論において、他人の説得により自説を曲げることは、民主主義的には「正しくない」こととなる。「自分の意見は正しい」ことを出発点にした議論で、ある一つの結論に全員が収束することはあり得ない。このような「絶対に決着のつかない」議論において結論を出すためには、武力によって従わせるか、それ以外の方法で結論を出さねばならない。そのための「方法」が『多数決』であった。
(※ここで、「自分の意見は至上のもの」である前提と、「少数派であった場合には、
相手の意見に無条件に従わなければならない」という結果に矛盾が発生する。)
多数決はこの『多数決』は、一見”民主主義的に”決定が為されるように見えるが、
「数が多くの者に、数が少ない者が従う」という数による序列(ヒエラルキー)を共認することで成立している。「数による序列原理」が統合原理となったことで、大衆的に人気があるか、注目を集めているかどうかによって、政治の方向が決定される体制となっていった。
では、”数による序列原理”の弊害を突破するにはどうすればよいのか?
実はこの点についても阿久根市にヒントがありました。竹原市長は、2009年に議会の不信任決議によって失職したが、同年出直し選挙で改めて再任されました。あれだけメディアでバッシングを受けていたのに再任されました。
それは、住民にとって何が必要かという判断軸に基づき事実を開示して、人々に問うというスタンスに住民が可能性収束した結果といえるでしょう。
つまり万人による”事実の共認”をベースとした人数という評価システムが確立できれば、可能性は開けるということです。
■特権階級の暴走を阻止するには?
旧体制にはっきりNOを突きつけることは重要。しかし敵対視だけではなく、皆に事実を知ってもらいたいという想いが竹原市長の一連の行動から感じられます。本当に市民にとって良い生活を実現するために、議会を通さない専決処分に加え、大衆(下から)の圧力によって創られる世論形成を軸にした、共認活動で転換を図ろうとしているのではないでしょうか。
そして、竹原市長の政治手法の特徴として、市民への問いかけ=市民に考える姿勢を求めているといえる。これこそ、共認原理に基づいた、庶民による統合気運の高まりを萌芽させるきっかけになるように思います。
次回は、竹原市長の市民への期待、当事者意識が萌芽する可能性について追求していきます。お楽しみに
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