富士/山岳信仰に自然の摂理を学ぶ
絹本著色富士曼荼羅図」http://fujinoyama.blogspot.jp/2012/09/fuji-mandara.html より
新年、明けましておめでとうございます。暗い話題が多かった2013年で、オリンピックすら素直に喜べないご時世ですが、富士山の世界遺産登録は数少ない希望であったように思う。
この暗黒の時代に「富士山」への興味がたかまっている。「富士山」だけではなく「山ガール」といった流行語に代表されるように、「山」への関心が高まっている。かつて江戸時代、人々が「冨士講」に熱心になった時の様に、今、人々は「山」への憧れと、尊敬と畏怖の念を再生させつつある。そこには311東北大震災のような天変地異をリアルに体験したことの影響もあるのかもしれない。いわば自然崇拝としての「山岳信仰の復活」である。そこで、富士/山岳信仰の歴史とこれからについて考えてみよう。
写真は世界遺産登録を報じる新聞記事。世界遺産登録に伴う観光客の増加は富士山にマイナスを及ぼしかねないという指摘もあるが、静岡県の川勝知事と山梨県の横内知事は今回の世界遺産登録を富士山の環境保全強化のきっかけとしたい意向を強くもっているようなので、そこは両知事の手腕に期待したい。
■山岳信仰の基層 ~ 縄文のストーンサークルが山岳信仰の基層をつくった
山岳信仰といえば熊野、白山、出羽、富士で発達した修験道との関わりを抜きに語れない。実際、伊豆に流された役行者は夜は富士で修行したとされ、また殺されそうになった役行者を救ったのもまた富士山であった。
しかし、山岳信仰の基層はもっと古く縄文にまで遡れるようだ。
富士山は8万年前に噴火造山形成をはじめ、紀元前3千年頃の縄文中期初頭には3度目の造山噴火があった。しかも縄文中期は縄文文化が最も栄え、特に富士山周辺に人口が密集した時期だった。勝坂式土器はその象徴である。
http://www.e-sagamihara.com/nature/historic-site/0037/
写真は脇坂縄文展の告知チラシ 太鼓だったのではないかとされる「有孔鍔付(ゆうこうつばつき)土器」はその表面にヘビやカエルなど縄文人が神聖視した生き物の装飾が施されている。
しかし中期末期から寒冷化が進行すると共に、富士山の噴火も頻発するようになり、遺跡をみても火山灰の影響を大きく受けていることが分かる。縄文人は富士山に対して強い恐怖と畏敬の念を抱いたであろう。そして富士の山の神に鎮まってくれることを祈ったであろう。
そうした祭祀遺跡と思われる石組や配石遺構あるいは環状列石遺構が富士山周辺の縄文遺跡からいくつもみつかっている。
以下に山梨県の牛石遺跡の事例を挙げる。
http://www.pref.yamanashi.jp/maizou-bnk/topics/301-400/0372.html
昭和55年、この台地でほ場整備に伴って発掘調査が行われ、縄文時代の石を並べたものがいくつかみつかりました。翌56年にこの石を並べたところの本格的 な調査をおこなったところ直径50mにおよぶ縄文時代の環状列石(ストーンサークル)であることがわかりました。出土した土器からは縄文時代の中頃となる 中期末(今から4000年位前)につくられたものであることがわかりました。この環状列石は、いくつかの小さな配石組石が点在し、これらをつなぐように列石があります。配石の下には土器を埋設してあり、お墓と思われるものもあります。また10個程度の石をまとめて配した組石や立石、石を組んで祭壇状にしたものなどが部分々々にあります。
実はこの18haにもおよぶ広大な台地のなかで、環状列石の場所からしか富士山をみることができません。それも富士山頂がわずかにみえるだけです。しかし、縄文時代に環状列石をつくるにあたり、この広大な台地上で富士山を意識していることがその立地からわかります。
縄文時代中期頃の富士山はどのようであったのでしょうか。同じ大幡川流域にある牛石遺跡より西側にある久保地遺跡では縄文時代中期後半の竪穴住居が いくつかみつかっています。牛石遺跡よりわずかに古いムラになります。この遺跡の竪穴住居からは富士山からとんできたスコリア(細かい火山砕屑物)がた まっているのがみつかりました。おそらくは住まなくなって窪地になった竪穴住居の跡に降り積もったものと思われます。中期後半頃はよく富士山が噴火し、こ うしたスコリアがここ都留市まで飛んできたことがわかります。
牛石遺跡の環状列石がつくられている頃、富士山は活発に山頂から高い噴煙を上げながら噴火していました。この環状列石は、広大な台地上であえて噴火 する富士山がわずかにみえる位置を選んでおり、それは噴煙を上げてスコリアを噴き飛ばしてくる富士山を意識していたことがわかります。
牛石遺跡にはもうひとつ山にかかわる選地の理由がわかっています。牛石遺跡のちょうど西側には三峠山がそびえております。この山は三つの峯からなる が中央の主峰である開運山(1785m)には、牛石遺跡環状列石から見ると春分、秋分に日が沈みます。この日は夏至と冬至をはさんだちょうど中間日にあた り、昼と夜の時間が同じとなる日です。夏至、冬至、春分、秋分をあわせて二至二分といい、どこに暮らしていようと同じであり、世界共通の日となります。牛 石環状列石はこうした太陽の運行もあわせて意識して選地され、つくられているといえます。
こうした環状列石はいったいどういう意味があるのでしょうか。牛石遺跡では環状列石をつくった人たちの生活の場つまりムラはみ つかっておらず、祭祀場であったといえます。短期間とはいえ100年以上は継続してつくられており、春秋分のイベントにむけて石を集めて列べ続けていたと、さらに各集団での出来事をたとえば墓地等を石を列べることで表現したりと、いわばその地域にくらす縄文人たちの出来事を石で表現して積み重なった歴史を意味する記念物であるとはいえないでしょうか。
写真は 牛石遺跡の環状列石(ストーンサークル)
実はこのような環状列石遺構が発見されている場所は、他でも火山と関係している。例えば有名な秋田県の万座や野中堂の環状列石は十和田湖や御門山の火山噴火との関連している。
しかもこのような環状列石の文化は神道の祝詞にも引き継がれている。「石神立てて石境(いわさか)打廻(うちめぐ)らして」と唱える「出雲佐陀神社四月十五日祭の祝詞」である。
このように実は、縄文末期の寒冷化と火山活動の活発化が祭祀色の強い縄文後期文化を育て、そこでつくられた山岳信仰の延長線上に、古神道そして修験道が作り出されていったのである。(そう考えると、修験道が護摩を焚く理由も見えてくる)
■弥生時代、人々は海と水と山の循環構造を大切にした
富士山周辺は富士山の火山噴火の影響を受け、縄文末期、一旦、壊滅的な状況に追い込まれるが、そのことが逆に新しい弥生人が進出しやすい状況を作ったようだ。山梨県、神奈川県には徐福神話がたくさんあるし、秦氏に縁のある土地も多い。しかし彼ら稲作文明を持ち込んだ人々が、この富士山周辺を好んだのは(空白地帯だったという)消極的な理由だけではない。富士山がもたらす水が豊かな水田を可能にしたし、また近海漁業も可能にするということを(山がもたらす恵みを活かし長江流域で稲作漁労文明を築いた)彼ら渡来人は知っていたからだ。
写真は山梨県の徐福雨乞地蔵祠 http://www.densetsu-tobira.com/jofuku/yamanashi.html から転載させていただきました。
三保の松原の天女伝説にもその影響が見えると安田喜憲教授は言っている。なお、安田教授は静岡県の富士山世界遺産推進担当参与も務めている。
山と海をつなぐ「命の水の循環」 より
2013年6月22日、富士山が世界遺産に登録される最後の瞬間、「アダプテッド!(追加改造案)」とカンボジアのソクアン議長が言って、三保の松原を富士山を構成する資産とする宣言をしたとき、会場に大歓声が上がりました。天女は富士山の化身であり富士山から三保の松原に水浴に来るのです。そしてまた帰って行きます。富士山と三保の松原は「命の水の循環」でつながっているのです。稲作・漁労民にとって前者は山からの水で水田を潤し、後者は海に流れ出る山や森の栄養を含んだ川や地下水からの水のおかげでプランクトンが育ち、豊かな漁場となるのです。
縄文時代の火山への畏敬の念から始まった「山岳信仰」は、弥生時代になると「山と水の循環構造を作り出している源泉としての山」への崇拝となって発展していったようだ。近世に富士山信仰の拠点となった富士山本宮浅間神社の境内には沸玉池があり、そこで禊をして登山するのが江戸の慣わしとなった。そこにも「神聖な水」への信仰が息づいている。
私たちがこの暗黒の時代、見直すべきはこの「山」への畏敬の念と同時に「山と水の循環構造を作り出している源泉としての山」=自然の摂理への感謝の念であろう。
尚、山と水と海の循環についてはこちらが参考になります。http://www.env.go.jp/water/heisa/satoumi/03.html
■私たちは「山と共に市場原理主義と闘う」必要がある。
しかし、市場経済に手なずけられた私たちは、自然の摂理への感謝の念を忘れている。安田教授は東北大震災後、この自然の摂理を無視した政策が暴走していることに強い警告を発している。
今、私が言いたいのは山と海との命の水の循環を遮ろうとする存在になるであろう東北太平洋大震災後の巨大防潮堤のことです。最大高さ15m、底辺の最大幅184m、総延長160キロに達する巨大なものです。宮城県知事、県民の願望で時の民主党政権は了承しました。
ところがあれから2年半、「やはり海が見えるほうがいい」、「潮騒の音が聞きたい」、という声が増えてきました。コンクリート防潮堤は30年でボロボロになります。50年後に津波が来た時には役に立たないのです。防潮堤支持杭は地盤が軟弱なので深々と矢板を打ち込みます。結果地下水の流れが遮断され、山や森の栄養分を含んだ地下水が海に流れるのを遮るのです。命の水の循環システムが破壊されます。まして松島以北のリアス式海岸はちょっと行けば高台や山なのですから、防潮堤よりも避難道路つくりを優先すべきです。命の水の循環を守りながらなおかつ、日本の美しい風景を維持することで世界に模範を示すべきです。
冒頭で、「今、人々は山への憧れと、尊敬と畏怖の念を再生させつつある。そこには311東北大震災のような天変地異をリアルに体験したことの影響もあるのかもしれない」と述べたが、歴史的にみても間違いなく「山岳信仰と火山活動をはじめとする天変地異」は繋がっている。そして、山を仰ぎ見る潜在意識は自ずと自然の摂理の偉大さへと思い至り、それを守り育ててきた歴史的知性の復権へと向かうであろう。
安田教授は「山は市場原理主義と闘っている」という。その通りである。グローバリズムは日本の山を水をカネにしようとたくらんでいる。そのためにますます市場原理主義で人々の生活を破壊し、ペットボトルの水を売りつけ、人々をカネの亡者にし、人々から自然の摂理を考える余裕さえ奪おうとしている。私たちも「山と共に市場原理主義と闘おう」!世界に向けてそのような発信をしていくことこそが、富士山が世界遺産登録されたことの意義である。そしてそうでなければこの美しい富士を守り育ててくれた先人たちに申し訳が立たない。
参考文献:学芸総合誌【環】2013年秋号 特集「今、なぜ富士山か」
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