裏天皇の正体10 裏天皇と徳川家がグルになり大政奉還が進められた
(画像は大政奉還コチラからお借りしました)
大政奉還(たいせいほうかん)とは、江戸時代末期の慶応3年10月14日(1867年11月9日)に江戸幕府第15代将軍徳川慶喜が政権返上を明治天皇に上奏し、翌15日に天皇がこれを勅許した政治的事件である。
wikipedia 大政奉還(リンク)より
大政奉還は徳川幕府が主導で行った事件というのが定説ですが、今回は実は天皇家、しかも裏天皇が徳川家とグルになり進めたという説を紹介します。
るいネット『徳川幕府の無血革命(=大政奉還)をどう評するか?(リンク)』より引用
薩長が武力倒幕路線に進むことを予期した慶喜は慶応3年(1867年)10月14日、政権返上を明治天皇に上奏し、翌日勅許された(大政奉還)。従来の通説的見解によれば、慶喜は当時の朝廷に行政能力が無いと判断し、列侯会議を主導する形での徳川政権存続を模索していたとされるが、慶喜は緊迫する政治情勢下で内乱の発生を深く懸念しており、大政奉還による政治体制の再編はその打開策であった。(ウィキペディア~徳川慶喜よりリンク)
この大政奉還という政治方針に当時の江戸の諸藩は驚き、意表をつかれたという。その本意は現代まで諸説が並列し決着を見なかった。
なぜならば、徳川は武力も資金力も国内では圧倒的に超越しており、いざとなれば薩長と一線を交えて押し切る事もできた。大政奉還とは文字通り徳川が政治の決定機関から降りる事であり、圧倒的な権力を手放す事になる。世界の歴史の常識ではこのような局面で必ず新勢力と旧勢力(徳川)との間で戦乱が起き、武力で勝った政権が立ち上がる事になっている。現在のような破壊的な武力が戦争の抑止力となっている時代とは異なり、まだ武力そのものがが制覇力となりえた時代である。それでも徳川は上記のように内乱を懸念し自ら一線から退く選択をした。この本意を江戸時代260年の流れから紐解いてみた。
江戸時代とは国内的には極めて安定した260年間であったが世界を見渡すと大航海時代から産業革命、さらに中央銀行による金貸し支配が始まる欧米を中心とした大激動の略奪社会が横行した時代に当たる。現在の金貸し最大勢力であるロックフェラーは国を左右する一大勢力に成長していった。
そんな中、江戸時代最大の特徴とする政策は「鎖国」である。既に秀吉の臣下の頃からキリスト教布教の西洋の意図を植民地政策と見抜いていた家康初め徳川一門は徹底的にキリスト教排除を推し進める。この政策の凄いところは、それを見抜いてここまで徹底したのは徳川幕府が最初で最後であるという事だ。当時のキリスト教植民地化の戦略は表向きは信仰拡大という形で忍び込み、やがて信者を拡大し、国内で体制への反分子を組織化支援し、それを足掛かりに内乱、政権の転覆を図り、乱れたところを武力で支配するという手法だった。東南アジアや中国、中南米の途上国は全てこの手法で取りこまれていった。
対外的には「鎖国」で門戸を閉め、国内的には各藩の自給力を高め自国の力で繁栄を極めた、それが大きくは江戸時代である。
しかし幕末に徳川幕府を揺さぶったのは金貸しと、金貸しが作り上げた資本力で支えられた強大な武力だった。既に世界の列強(イギリス、アメリカ、フランス、ドイツ、ロシア)は植民地から略奪して積み上げた経済力にモノを言わせ、強大な武力を備えていた。徳川幕府率いる日本にとってそれだけでも脅威だったが、加えて金貸しが試みた植民地戦略である。これはかつてのキリスト教植民地政策と相似のものだった。以下の手法である。
金貸しが作り上げた驚異的な武力国家がまずは脅す。国家の政権勢力は金貸しから金を借りるか、組み込まれるかの選択に迫れる。同時に金貸しは国内の反対勢力に優先的に融資し、武器を売り込む。やがて、国内で力が拮抗し内乱が勃発する。既に金貸しに実権を握られた反対勢力が政権を執り、その後は金貸し支配の下、半植民地として吸い取られていく。
江戸晩期には薩長がその策略にはまり、倒幕勢力にまで昇りつめた。
徳川の大政奉還とはそういう中で実施されたのだ。既にフランスから240万ドルの融資を受けてはいたが、15代慶喜は薩長が勢力を付けていく過程のどこかで金貸しの真意に気がついた。「国内の内乱を引き起こし、最後は西洋の金貸し勢力がこの国を手中にする」と。大政奉還を施行する前には徳川と薩長との間で話し合いが持たれ、金貸しの真意を理解し「江戸城の無血開城」を合意したという。大政奉還によって日本の植民地化は回避されたのだ。
そういう意味では最後に徳川が執った戦争を回避する政策=大政奉還は正しい選択であり、この時代諸外国のどこも執らなかった画期的戦略だったと評する事ができる。
金貸し勢力もまさかこの手があるとは・・・と地団駄を踏んだに違いない。
徳川幕府は江戸時代を通じて「鎖国」「大政奉還」と2度の植民地化の危機を救った。
以上は内乱を引き起こし、最後は西洋勢力が国を手中にするという金貸しの常套手段を、徳川慶喜が見抜き、大政奉還で防いだという記事です。
この記事では徳川慶喜の政治力に焦点が当たっていますが、この背後に天皇家しかも裏天皇が動いて大政奉還が進められたという説を紹介します。
『国際ウラ天皇と数理系シャーマン―明治維新の立案実行者』(成甲書房 落合莞爾著)「第4章 朝彦と玄道と具視」を要約します。
■「堀川政略」と明治維新への思想工作
明治維新は偶然の連続によるものではなく、その根底に地球規模の政治構造と大胆で緻密な実行計画がありました。
それを「堀川政略」と呼び、その概容は以下になります。
(1)京都御所の建春門外に「学習院」を開設し、儒学・明經道を看板として実は国学・神道教育を行う
(2)学習院を下級公家(平堂上)と尊皇諸藩士のアジトにする。
(3)尹宮(時に青蓮院宮)と表裏一体の矢野玄道が佐賀藩士副島種臣を使い、その兄枝吉神陽と意思を疎通して、神道系シャーマニズムを鼓吹する。
(4)枝吉神陽が楠木正成の尊崇運動を始め、尊皇諸藩士に広める。
(5)薩摩藩・長州藩の下士が楠公尊崇を藩論とするよう工作する。
(6)安政の大獄による謹慎を利用し、慶喜と尹宮(時に青蓮院宮)が「堀川政略」を実行に移す。
(7)万延改鋳に際し、保字小判を買い占めた小栗忠順が、その利益を保字金で退蔵する。
(8)文久の改革で、慶喜と小栗がオランダにフリゲート艦を発注し、榎本武揚らをオランダに派遣する。
(9)在欧の榎本が日本に関連する国際情勢を、勝海舟を通じて慶喜に報告する。
(10)榎本武揚が将来の小栗渡米(実際には亡命)の準備を整える。
(11)慶喜がパリ万国博を機会に、渋沢栄一をフランスに派遣する。
(12)勘定奉行の小栗と塚原昌義が兵庫商社を設立し、紙幣(兵庫金札)を発行する。
(13)小栗が勘定吟味役小野友五郎をアメリカに派遣し、甲鉄艦を買付けさせる。
(14)大政奉還に備えて慶喜の恩赦を図るため、勝海舟が孝明に献金する。
(15)甲鉄艦の到着を見計らい、その直前に大政を奉還する。
(16)米国公使が甲鉄艦の幕府への引渡しを保留する。
(17)戊辰戦争に際しては、慶喜と勝海舟は恭順、小栗忠順と小野友五郎は蟄居し、塚原はアメリカに亡命、榎本らは抗戦の形を採り、各自が分担して幕藩体制の幕引きを実行する。
(18)岩倉具視が東山道鎮撫総督府を身内で固め、薩摩士折田彦市が岩倉と原保太郎の連絡に当たり、原らを総督随行に任じて小栗を偽装処刑する。
(19)小栗は塚原の手引きでアメリカに亡命して三井物産設立の準備をする。
(20)榎本は幕府の海軍力を封印してフリーゲート艦開陽丸を直接戦闘に参加させず最後に自沈させる。
光格天皇(明治天皇の3代前)はナポレオン戦争後の欧州勢力を幕閣の誰よりも知っていて、列強がわが国に開国を要求してくることを、歴史上の必然として理解していました。
その上で、これに即応する国内体制を立てることと、その際に必要な人材を育成する高等教育機関の設立を望んだ光格の対外姿勢は、本質的に前向き・外向きだったのです。むしろ幕閣の方が後ろ向き、内向きだった。
実は幕末当時、日本中でもっとも世界情勢に通じていたのは、天皇(ないし上皇)でした。これは幕末に限らず、室町時代以来江戸時代を通じてのことで、この後も明治・大正の時代は固より、昭和平成の今日まで一貫して謂えることです。
そしてそれは、天皇(ないし上皇)の許に、「伏見殿」が世界情報を常時もたらしていたからです。
「堀川政略」の策定は嘉永五(一八五二)年ごろから始まると推定しています。その策定者は伏見殿貞敬親王の世子邦家親王の御密子として産まれた朝彦親王と岩倉具視と見ていますが、それは状況証拠によるもので、具体的な根拠はありません。
(画像はコチラからお借りしました)
両人相携えて「堀川政略」を策定するようにとの指令は、邦家親王から発せられたものと観るべきです。しかも「堀川政略」の極秘性を保つために朝彦と具視は、安政期から明治維新後まで、故意に政敵を装うことも指示されていました。
(中略)
朝彦と具視の両人が策定した「掘川政略」は嘉永末年にスタートしますが、その嚆矢(こうし)は既に光格時代に放たれていました。それが学習院の設立です。
中下級公家の民主化、すなわち「待遇改善運動」の先頭に立っていた具視が「学習院の拡充」を建白したのですから、両者には当然関係がありますが、学習院拡充の経緯と実施時期が明らかでありません。
当時の天皇は海外に疎い「お公家様」ではなく、日本で最も世界を知っていたようです。そこで、近いうちに日本が外国に攻められることを予見し、大政奉還も含めた一連の明治維新の流れである「堀川政略」を計画しました。
京都御所日御門前に朝廷の教育機関として作られた学習院は、実は「堀川政略」≒明治維新を進めるためのアジトとして作られました。
そこで、世論形成のために尊皇攘夷思想を盛り立て、倒幕への流れが作られました。
この「堀川政略」を主導したのが裏天皇である「伏見殿」です。
伏見殿(=世子邦家親王)は子供である朝彦親王と岩倉具視を堀川政略の実行者に選びます。
朝彦と岩倉具視は学習院を討幕のアジトとし、堀川政略を進めます。
また、徳川慶喜も裏天皇の指示で動いていたと考えられます。
理由は3つあります。
①慶喜は親朝廷の水戸徳川家の出であること
②慶喜は将軍時代はほとんど京都にいた(大政奉還も二条城で行っている)
③慶喜は徳川体制はもたないと言っており、幕府の幕引きor内戦による金貸し支配を回避しようと考えていた。実際、将軍には就きたくなかったらしい。
以上より、幕藩体制から天皇制近代国家への転換のシナリオを書いたのは
裏天皇(伏見殿)-----(朝廷側)朝彦親王-岩倉
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--(幕府側)徳川慶喜-小栗
つまり、幕末も朝廷と幕府はグルであったと考えられます。
ただし、それは西欧の侵略から日本を守るためであり、明治以降の金貸し支配のために左右がグルになったのとは目的が異なります。
次回は尊皇攘夷についてまとめます。
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