新概念を学ぶ22~人類はどこで道を誤ったのか~
前回、「新概念を学ぶシリーズ22」では、突破口を見いだすためには、生物史まで遡った原因と生物本来の有り様についての分析が必要不可欠である、という生物の進化史を学ぶ理由と、その問題意識を扱いました。
そうして、生物の本能に至るまで紐解いていった結果、私権時代以降の現代社会の存在構造には歪みが生じているということが見えてきました。実現論を引用しながら、人類の歩んできた道のり、人類はどこで道を誤ったのかということも見ながら、社会の存在構造を見てみましょう。
いったい何故、こんなことに成って終ったのか? たしかに、直接の原因は何れも市場の拡大にある。しかし、これは単に市場社会二〇〇年の終焉なのではない。詳しくは本文に譲るが、市場の背後には、男と女が挑発と駆け引きの火花を散らす性市場(性の私的選択の場=恋愛が成立する場)があり、性市場の奥には、性闘争(メスの獲得を巡る、オス同士の闘い)の本能がある。そしてこの性闘争→私権闘争(メスを獲得する為の地位やお金を巡る闘い)の活力こそが、市場拡大の原動力と成ってきた。ところが、’70年以降、貧困が消滅してゆくにつれてそれらの活力が衰弱し始め、とりわけ’90年以降、性を含めてあらゆる活力の衰弱が露わになり、社会も人々も急速に閉塞と混迷の度を深めつつある。これは、私権闘争を活力源にし、それによって生み出された私権を獲得しなければ生きてゆけないという、否も応もない絶対的強制圧力によって統合されてきた私権時代三〇〇〇年(西洋の歴史家の言う文明時代。西洋は五〇〇〇年、日本は一五〇〇年と大きな差がある)の終焉だと云えるだろう。
だが私権時代を通じて、国が滅亡することはあっても、人類が滅亡の危機に陥ったことは一度もない。とすれば、この滅亡の危機は、人類が私権時代三〇〇〇年をも超えた、もっと根底的なパラダイムの転換期を迎えた事を示唆している。つまり人類は今、自らが築いてきた全文明の見直しを迫られているのである。だが、一切の予断を排して、人類の全文明を見直すとすれば、人類はその立脚点を自然の摂理の中に、あるいは生き物の摂理の中に求めるしかない。
しかし、学者やマスコミには、その様な徹底した原因分析に挑む姿勢あるいは追求力・創造力が、殆ど見られない。現に、経済にしろ、教育にしろ、彼らが何十年に亙って唱えてきた講釈や方策では、何の効もないばかりか、事態は悪化する一方である。とすれば、学者やマスコミの言ってきたことは、問題の上べをなぞっただけの誤魔化しor 綺麗言だったのだと言わざるを得ない。それは彼らに染脳(脳を染め上げる)されてきた社会の構成員全員(つまり、私たち自身)にも云えることである。人々は、私権規範や近代思想等の様々な常識に則って家庭生活を営み、経済生活を営んできた。しかし、その帰結が、社会の全面的な行き詰まりであり更には人類滅亡なのだとしたら、その常識の過半が(少なくとも、その根幹部が)根本的に誤っているからだと見るしかない。もし、根幹部ではなく、枝葉部の誤り程度なら、こんな事態にはならないし、学者やマスコミをはじめ統合者たちの唱えてきた小手先の方策で済んだ筈だからである。
いったい、人類はどこで道を誤ったのか? それを突きとめる為には、人類の始源(必要ならサル時代や哺乳類)にまで遡って、個体や集団や社会の存在(or 成立)構造を解明する必要がある。人類の原基構造を解明できれば、その構造のどこが不変部分でどこが可変部分かを知ることが出来る。そして現代社会の諸問題(諸欠陥)と突き合わせれば、どこが変えてはならない部分でどこが変えるべき部分かを突きとめる事が出来る。つまり、その構造体のどこをどう変えれば良いかの答えを導き出す事が出来る。とりわけ、当面する市場の背後に潜む性市場や性闘争は、理論的には全く未明の領域である。古代から現代に至るまで、思想家は誰一人(社会構造上の最基底の対象として)「性」や「女」を、まともな追求対象にしてこなかった。それは彼らが、男支配の社会に何も疑問も感じていなかったことを証明している。従って性や女については、殆ど何も理論化されていない。それ故に、その解明は困難を極めることになるし、解明してゆけばゆくほどその認識は余りにも新し過ぎて現代の価値観とは決定的に対立するので、なかなか受け入れられないかも知れない。だが、その認識=摂理がいかに現代の価値観からかけ離れていようとも、摂理=事実は変わらない。人間は、決して自然を超えることはできない。だから、自然の摂理をできる限り解き明かし、そこから学び取らなければならない。自然の摂理を無視し、踏みにじってきた張本人が現代の価値観であり、その結果が滅亡なのだから。
本文で述べられているように、人類の原基構造を解明できれば、その構造のどこが不変部分でどこが可変部分かを知ることが出来る。そして現代社会の諸問題(諸欠陥)と突き合わせれば、どこが変えてはならない部分でどこが変えるべき部分かを突きとめる事が出来るのです。
次回は、古代から現代に至るまで、思想家は誰一人として扱うことなく理論的には全く未明の領域である、市場の背後に潜む性市場や性闘争に繋がる、雌雄共認について扱ってみたいと思います。
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