減反政策の歴史を振り返る
画像はこちらよりお借りしました。
アメリカの圧力により、日本のTPP加入が決まってしまいました。しかし、その実態は「TPP問題の本質」
で詳細されている通り、日本にとってマイナスでしかない、危険な条件です。
更に、先日、聖域とされていた農業の重要5品目すら、完全自由化が確定してしました。「TPP農業重要5品目の完全自由化が事実上確定」
そして、「減反:見直し法案提出へ、補助金削減も」に紹介されている通り、減反政策の廃止の法案が提出されました。
減反政策廃止の建前上の理由としては、完全自由化に対峙して、日本の競争力を高めるということが狙いですが、その実態はどうなのでしょうか。
まずは今回、日本の農業はどのように変化してきたのか、減反政策の歴史を中心に、事実関係をを整理します。
その上で、次回以降で、現在、日本が直面している問題、そして、減反政策に絡む日本の農業の突破口を探りたいと思います。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%BE%B2%E6%A5%AD%E5%9F%BA%E6%9C%AC%E6%B3%95記事は、25日本の米(減反政策)、日本の農業の等の情報を参考にさせて頂いています。
①戦前
①ー1.需給の均衡期(江戸時代後期~大正時代初期)
大局的に、コメの需給はバランスしていた時代。
①ー2.米不足
・1918年:米騒動
大正時代中期以降、人口増加と工業への労働力集中で、コメ不足が生じ、米価は上昇した。
画像はこちらよりお借りしました。
戦後の状況は、上記グラフよりその変遷を見ることが出来ます。
②増産期(第二次世界大戦後~1968年)
戦後のアメリカ占領による圧力で、日本では学校給食がパンに限定されるなど、日本全体の食生活の洋風化が進み、米の需要が減少した。
これに対して、
(1)農地改革によって多数の自作農が創設されたこと
(2)食糧管理法によって政府は農家の米を全部買い上げていたこと
(3)政府の高米価政策による米作農家の保護が続いたこと
(4)農家は米を増産する限り、政府によって収入が保証された上に、化学肥料、農薬、農業機械、新品種の導入されたこと
などにより、米の生産が増加し生産過剰の状態となった。
このため、政府米の収支である食糧管理会計の赤字がふくらんだ。
②ー1.1942年:食糧管理法成立
コメの生産から流通まですべてを政府が統制するシステム。政府が農家から米を全部買上げるため、1960年には政府在庫米に関する食糧管理会計の赤字が深刻な問題になった。
②ー2.1961年 農業基本法成立
農業生産性の引き上げと農家所得の増大を謳った法であり、高度経済成長とともに広がった農工間の所得格差の是正が最大の目的であった。この法律によって農業の構造改善政策や大型農機具の投入による日本農業の近代化を進めた。結果として生産性を飛躍的に伸ばすことと農家の所得を伸ばすことには成功したが、大部分の農家が兼業化したことや、農業の近代化政策による労働力の大幅削減で農村の労働力が東京、大阪などの都市部へ流失し、農業の担い手不足問題の引き金となったり、食料自給率低下の要因を作ってしまった。
③減反政策前期
③ー1.減反政策1 稲作転換対策(1971~75)
形式的には「農家の自主的な取組み」としての減反政策である。水田に米を植えずに、麦類・豆・牧草・果実などを作付けをすると、農家には転作奨励金(休耕奨励金)が支給された
しかし、実態は「農家の自主的な取組み」ではなく、政府の経済制裁による、義務的減反政策であった。
→転作奨励金は1973年、稲作転換対策は1975年に廃止された。
③ー2.減反政策2 水田総合利用対策(1976~77)
米の生産過剰対策として、米から他作物に転作する水田は、面積を単位に割り振られた。しかし、他の作物栽培を途中で放棄する、いわゆる捨て作りをして、水 田総合利用奨励補助金を不正に受け取っている例が続出した。また、農業法人が水田を買い集める時に米作以外の作物栽培が条件でありながら、米の作付けが続 いていたり、水田を売ったはずの前所有者が引き続き米作を続けていたり、政府補助金による農地売買が骨抜きになった。
→水田利用総合対策は、2年間で終わった。
③ー3.減反政策3 水田利用再編対策(1978~86)
米の需要減少と生産過剰が続いた。米以外の特定作物栽培に、転作奨励金を増額した。転作後に果樹・畜産の団地化を進める場合も、転作奨励金が増額された。
米作以外の新しい農業への挑戦が、日本各地で始まった。転作奨励金などの政府補助金は、年3000億円を越え、米作に代わる新しい農業は、転作奨励金などの政府補助金なしには成り立たない農業であった。
③ー4.減反政策4 水田農業確立対策(1987~92)
水田農業(米作)の生産性を上げ、高い生産性を維持するための条件整備を図るため、条件整備を推進する。行政主体であった転作計画を、行政と農業関係者の協議で決めることになった。
転作推進のため、農林省から[需要即応型水田農業確立推進事業基金]として毎年総額1000億円が都道府県水田農業推進協議会に交付された。具体的政策は前期対策と後期対策に分けられ、きめ細かい政策がとられたが、これまでの米余りの傾向は変わらなかった。
◆前期対策(1988~89年)は 米需給均衡化緊急対策が中心
・1989年度の転作等目標面積を77万haに拡大。
・学校給食への米飯給食導入拡大。
・米の需要拡大のため、新米を配給米用とし、古米を配給米としない。
・古米処理のため、食品加工用の他用途米と工業用の需要開発米への転作推進。
◆後期対策(1990~92年)は 農業者と農業団体の主体的取組が中心
・転作農地を利用する地域輪作農業(田畑交互利用)を確立する。
・生産団地化による規模拡大、生産性拡大を図る。
④減反政策後期~自由化政策の推進時期~
1980年代から国際化の波が押し寄せてきました。日本は自由貿易によって一番利益を受けているのに、なぜコメだけは自由貿易をしないのかという、アメリカからの圧力に屈する形で、1993年、日本は「ウルグアイラウンド」でついにコメの一部自由化を認めました。
ここから、米の自由化政策推進の時代が幕を開けることになります。
※ちなみに、「GATT・ウルグアイラウンド」については、新しい「農」のかたちで詳しく紹介されています。
④ー1.減反政策5 水田営農活性化対策(1993~95)
新農政プラン(1992)により、米作と転作作物を組み合わせた、生産性の高い水田利用が推進された。また、国際的にはウルグアイラウンド合意(1994 年。WTO農業協定)として、国内農業市場の開放、国内農産物への政府補助金削減、輸出補助金廃止の3分野を、2000年までに実行することが国際公約に なった。このため、国内の米作保護を目的とする食糧管理法が廃止された(1995)。
代わりに新食糧法が施行され、自主流通米(ヤミ米)が合法化された。新食糧法は米の自由売買に道を開いた。
④ー2.減反政策6 新生産調整推進対策(1996~97)
新食糧法の精神に則り、農民と行政の協調による減反つまり生産調整が実施された。減反は政府からの補助金と、地域米作農民の出し合った協力金とが、減反を 実施した農家に支払われた。これが「とも補償」である。政府は減反に要する農業補助金の一部を米作農民の負担とし、農業補助金を1000億円以下に減らす ことができた。
④ー3.減反政策7 緊急生産調整推進対策(1998~99)
1999年の米の大豊作に驚いた農林省は「新たな米政策大綱」を決定、2000年以降の減反面積を96万haに拡大した。全水田面積の35%に達し、前年比1.4倍であった。
生産調整(減反)に協力した米作農家には、稲作経営安定化対策として自主流通米の価格補填が行われた。
④ー4.減反政策8 水田農業経営確立対策(2000~03)
1999年に「食料・農業・農村基本法」(新農業基本法)が制定
・米の計画生産で需給調整と価格の安定をめざす。
・麦・大豆・飼料作物など転作作物栽培の本作化、水田を利用した多角経営を進める。
・稲作経営安定化対策により、減反協力農家には、販売した自主流通米が安値の場合に政府が損失補償をする。
④ー5.減反政策9 水田農業構造改革対策(2004~11)
食糧管理法(1942~95)に代わる食糧法(主要食糧の需給及び価格の安定に関する法律)が1994年に施行された。減反政策は1971年から農林省主 体の官僚的方法が続いてきたが、2004年には食糧法が改正され、農民・農業者主導になった。政府の米買入量は100万トン以下に減らす。政府が米を買い 入れる目的はこれまでの価格維持から、緊急時の備蓄に移行する。
画像・コメントはこちらよりお借りしました。
以上の政策にも関わらず、1971年から2008年までに減反政策に6兆3824億円の国費が使われ、現在、水田の30%以上が転作あるいは休耕により、米の栽培がなされていないというのが実態です。
減反政策が日本の農業の足かせとなっている実態があるのも事実です。
しかし、TPPに加入し完全自由化とした上で、減反政策を廃止することには、疑問が多くあります。
次回は、現在、日本が直面している問題、そして、本丸の今後の日本の農業のあり方について、追求していきたいと思います。
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