暴走の源流=平安貴族9 善政を捏造する貴族たち
今回は善政を捏造した貴族について紹介します。
写真は因幡守橘行平が赴任する様子(因幡堂薬師縁起より)。
コチラからお借りしました。
因幡守 藤原惟憲の善政
藤原惟憲(ふじわらこれのり)という人物は、寛弘二年(一〇〇五)の正月に因幡守(いなばのかみ)の任期を満了した頃、都の貴族社会においては、荒廃していた任国をみごとに復興させた優秀な受領国司として、かなり高く評価されていたらしい。藤原惟憲といえば、本書の第一章には皇族詐称事件の黒幕として登場した不心得者であり、大牢大弐(だぎいだいに)在任中には「鎮西(ちんぜい)の国々にあった財宝を一つ残らず掠奪した」という貪欲な悪徳受領である。長元二年(一〇二九)七月十一日の『小右記』が「もはや、恥を忘れたかのようである」と非難するのは、まさに悪徳受領としての大事大弐藤原惟憲に他ならない。だが、その同じ藤原惟憲が因幡守と国を荒廃の中から救い出したというのは、当時の朝廷が公式に認めているところなのである。
寛弘二年(一〇〇五)四月十四日の日付を持つ公卿会議の議事録の写しがある。
そして写しとして残された議事録によれば、寛弘二年四月十四日の公卿会議において話し合われたのは、地方諸国から朝廷へと上げられた種々の申請への対応のしかたであった。
ここに因幡守として登場する橘行平は、言うまでもなく、藤原惟憲の後任の因幡守であるが、その因幡守行平が任国に赴任して間もなくに朝廷に申請したことの一つは、国力回復を目的とする減税であった。すなわち、寛弘二年の正月に因幡守を拝命した行平は、下向して任国の様子を実見するや、税の一部を最初の一年間は徴収しないことの許可を、自身を因幡国の受領国司に任命した朝廷に対して、丁重に要求したのである。
だが、この行平の減税策は、件(くだん)の公卿会議において、あっさりと却下されてしまう。
会議に出席した公卿たちは、「因幡国の国力が前因幡守藤原惟憲の尽力によって十分に回復したことは、誰もが知っている。行平の申請する減税には、まったく妥当性がない」との見解で一致したのであった。
一条朝の公卿たち
王朝時代に「公卿」もしくは「上達部(かんだちめ)」と呼ばれたのは、参議以上の官職あるいは従三位(じゅうさんみ)以上の位階を持つ男子であったが、寛弘二年四月の時点では、全部で二十二名の貴族男性たちが、公卿として一条天皇の朝廷に仕えていた。
当時において公卿会議の成否を決めたのは、何人の公卿が出席するかということでは
なく、どの公卿が出席するかということであった。王朝時代の公卿会議が十全に機能するためには、参加公卿の人数よりも、参加公卿の顔ぶれの方が、はるかに重要な条件だったのであったのである。
当時の公卿たちの顔ぶれを再確認してみると、一条天皇の時代の朝廷というのは、ずいぶんとひどい状態にあったものである。第二席から第四席までの公卿たちが無能のレッテルを貼られた面々であったというのは、公卿会議こそが朝廷の事実上の意思決定機関であったことを考えると、かなり恐い話なのではないだろうか。
それにもかかわらず、一条天皇の朝廷は、後世、数多の優秀な人材に恵まれた理想の朝廷として語り継がれていくことになる。
復興の虚実
寛弘二年の四月十四日に開かれた公卿会議は、幾人もの有能な公卿たちが出席していたという意味において、当時としては十分にまともな公卿会議だったわけだが、そこで固められた朝廷の意思の一つは、因幡守橘行平から申請のあった因幡国における特別減税に認可を与えないというものであった。
因幡守行平が朝廷に減税策の承認を求めたのは、件の公卿会議の議事録に見る限り、因幡国の衰弱した国力を回復させようとしてのことに他ならなかった。受領国司として
因幡国の統治に責任を負う行平は、朝廷に減税策を上申するにあたり、任国の復興を大義として掲げていたのである。
しかし、左大臣藤原道長を中心に権大納言藤原実資・中納言藤原公任・権中納言藤原斉信・参議藤原行成といった当時を代表する有能な公卿たちが集まった会議は、因幡守行平の復興策を承認しようとはしなかった。件の会議に出席していた公卿たちの理解するところ、その頃の因幡国には復興策など必要ないはずだつたのである。
「因幡国の国力が前因幡守藤原惟憲の尽力によって十分に回復したことは、誰もが知っ
ている」というのが、道長以下の公卿たちによって共有されていた因幡国に関する現状認識であった。
混乱のはじまり
都に住む貴族社会の人々の多くが信を置いたのは、因幡守橘行平ではなく、前因幡守藤原惟憲であった。寛弘二年四月十四日の公卿会議が「彼の国は前司惟憲の任中に輿復の由、遍く其の聞こえ有り。申請の旨は専ら其の謂はれ無し」-「因幡国の国力が前因幡守藤原惟意の尽力によって十分に回復したことは、誰もが知っている。行平の申請する減税には、まったく妥当性がない」との判断を示したことは、すでに見た通りである。実際に因幡国の現状を見たわけではない人々のほとんどは、因幡国の完全復興を喧伝する惟憲の報告に喜び、なおも因幡国に復興策を導入しようとする行平の申請に眉をひそめたのであった。
多大な時間をかけて行平に任務を引き継いだ惟憲は、同年の秋が終わらないうちにはに戻ることができたものと思われるが、それは、彼にとって、どうにも体裁の悪い帰洛となった。
というのは、都に帰った惟憲は、行平から解由状(げゆじょう)を与えられなかったことについて、ただちに左大臣藤原道長に泣きつかなければならなかったからに他ならない。
王朝貴族が「解由状」と呼んだのは、受領国司が問題なく任務を終了したことを証明する公文書であるが、それは、後任の受領国司から前任の受領国司へと与えられるものであった。そして、その解由状が発行されないということは、王朝時代において、新任受領が前任受領の行った業務に問題点を見出したということと、ほとんど同義だったのである。
藤原惟憲は荒廃していた因幡の国を復興させた優秀な受領国司として、朝廷からかなり高く評価されていたようです。
しかし、次期国司の橘行平からは朝廷に減税策が上申されたり、惟憲への解由状が与えられなかったりと朝廷の評価からはありえないことがなされます。
つまり、藤原惟憲は因幡国の復興報告を捏造していたようです。
実際の因幡国は朝廷が知る復興したものではなく、税が吸い上げられ、民衆の活力も衰弱していたと考えられます。
これをなんとかしようと、橘行平は朝廷に減税を進言したのでしょうが、朝廷には藤原惟憲を支持する声が多く、却下されたようです。
また、引継ぎ時には国庫の中身を調査し、帳簿と整合していれば「解由状」が発行されるのですが、藤原惟憲には発行されませんでした。
おそらく国庫の中身に手を付けてたのでしょう。そのため橘行平は解由状を発行しなかったと考えられます。
つまり、藤原惟憲は己の私益を肥やし、朝廷に捏造報告していたようです。そして朝廷も全くチェックせず、その報告を受け入れていたようです。
こんなことを会社でやられた日には近いうちにつぶれちゃいそうです。それが国単位で行われていたと思うと、、、よくつぶれなかったなと恐ろしくなります。
しかし、藤原惟憲はこれほど捏造したにもかかわらずお咎めはなかったようです。バックには藤原道長の強引なまでの隠蔽工作があります。
力任せの隠蔽工作
それからほどなく、藤原惟憲の因幡守としての働きぶりに関する疑問は、貴族社会の人々にとって、けっして公然とは話題にできない事柄の一つになつてしまう。当時において朝廷の事実上の最高権力者であった左大臣藤原道長が、なりふり構わずに惟憲を擁護しようとする姿勢を見せたためである。
このとき、とにかく惟憲の立場を正当化しょうとする道長が、どれだけ強引で露骨な隠蔽工作を行ったかは、寛弘二年十二月二十九日の『御堂関白記』に見える次のような記述からも、ある程度はうかがい知ることができよう。
「前任の因幡守が現任の因幡守から解由状をもらえずにいる件について、今の因幡守である橘行平は『この一件に関する朝廷による審問などは、取り止めてしまってください。どうしても私の前任者の仕事ぶりに問題がなかったということになさりたいのであれば、いっそのこと、陛下に奏上(そうじょう)して勅許(ちょっきょ)をいただいてはいかがでしょうか』などと申している。しかし、これは、どうにも奇妙な言い分であろう。やはり、前因幡守の藤原惟憲が申すことの方にこそ、正当性があるのではない
だろうか。その惟憲は、繰り返し問題の有無を尋ねられても、とくに何も申してはいないのである。
そこで、すぐにも惟憲に解由状を与えるよう、朝廷の意思として行平に命じたところ、行平もついに解由状を与えたのであった。
これによれば、因幡守橘行平が前因幡守藤原惟憲に解由状を与えなかったことを知った朝廷は、行平を都に召還して審問を行おうとしたらしい。
そして、行平が審問を拒否したことに好機を見出したのが、惟憲を庇おうとしていた左大臣藤原道長であった。
口を噤む公卿たち
ここに「国府の公有財産」と呼ぶものの多くは、国府の倉庫に納められているべき米であった。
それは、国府が国務を行ううえでの財源となるべき米であり、例えば、国府の行う公的融資の元資として用いられたりしたのである。そして、こうした財は、国府に置かれた帳簿によって、かなり厳密に管理されているはずであった。
ところが、王朝時代の地方諸国においては、国府の公有財産の欠損が判明することも、けっして珍しくはなかった。そして、そうした問題が発覚するのは、多くの場合、前任受領から後任受領への任務の引き継ぎが行われた折であった。前任受領から公有財産の帳簿を渡された後任受領は、必ず帳簿と現物との突き合わせを行う ものであたあった、そうした手続きが進められるうち、現物の不足が見つかることがあったのである。
そして、前任受領から国務を引き継ぐ作業の中で公有財産の欠損を見つけた後任受領は、前任者の責任において欠損が補われない限り、前任者に解由状を与えないものであった。前任受領に職務怠慢もしくは不正行為がなければ、普通、公有財産に欠損が見つかることなどあり得なかったからである。
そして、行平が惟憲に解由状を与えなかった事情を正確に知ることは、まず不可能であるように思われる。この一件については、すでに紹介した『御堂関白記』の記述の他には、まったく記録が残されていないのである。
ただ、行成が自己の日記に何も書かなかったという事実は、当時の行成が上の一件とは距離を置きたがっていたことの何よりの証拠であろう。そして、行成が一件への関わりを避けていたとすれば、それは、左大臣藤原道長が道理を曲げてでも惟憲を擁護しようとしていたためではないだろうか。行成にしてみれば、何かの拍子に道長を怒らせてしまうことのないよう、この件への関与は全力で回避しなければならなかったにちがいあるまい。
そして、このような思いは、当時の公卿たちの多くによって共有されていたことだろう。
藤原惟憲は藤原道長の子分だったため、どんな悪いことをしても道長が肩を持ちもみ消そうとしてくれました。しかも、そのやり方は周りから見ても一目瞭然だったようです。
これでは、橘行平どころか朝廷もきちんとした取り締まりができなくなります。
このように、平安貴族たちは、都合が悪いものを隠蔽、捏造し民からの収奪を繰り返し、自分の富を蓄積してきました。
「民の生活第一」という視点はまったく見られません。
次回からは、「なぜ、このようなえげつない支配構造が出来上がったのか?」そして、「現在はどのような力の基盤を持ち存続しているのか?」を掘り下げて考えていきます。
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