『白人の源流~ギリシア・ローマ編~6』 ギリシャとエトルリアに挟まれたローマの起源
皆さんこんにちは~
白人の源流シリーズも終盤に突入
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~1』プロローグ:大転換の予感⇒人類史を追求する意義
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~2』オリエントの文明の発祥である『エーゲ文明~クレタ文明』
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~3』クレタ文明を滅ぼした『ミケーネ文明』
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~4』ミケーネ文明を滅ぼした、傭兵と奴隷集団『海の民』
『白人の源流~ギリシア・ローマ編~5』ギリシアの『ポリス社会』
今回は第6弾 いよいよローマまでやってきました
巨大なローマ帝国の礎を築いたのは、どこから来た人々なのか
今回は、『ローマの起源、ローマ人の出自』について迫りたいと思います
いつも応援ありがとうございます
以下の内容は、るいネット内の
『【ローマの出自1】Y遺伝子分布と地理特性から→ローマの出自は特異な存在』
『【ローマの出自3】ローマ人の基層は印欧語族』
『【ローマの出自6】ローマの出自は、西ヨーロッパからの「はぐれ流れ者集団」』
『ギリシア~ローマ史まとめ③ 3200年前~2800年前 ラテン人の南下、ポリスの設立』
を参考にして再構成します。
ローマの起源であるラティウム地方は、青銅器時代以前には居住者は居なかった。
それが、3600年前の印欧語族のウンブリア系、3200年前の印欧語族のラテン系が入り込み定住していった。
現在のローマの地は、古代は『ラティウム』と呼ばれていました
ラテン人は、イタリア半島中西部の丘陵地帯、アペニン山脈とティレニア海の間に流れるティベル川(テーヴェレ川)の南西地方に南下し、定住しました
約3000年前の地中海の西岸の掠奪闘争によって略奪集団が大量に再生産されました 😈
この略奪集団が逃亡奴隷も加えて大勢力に膨張していきます 👿
そして、ほぼ無人の地だったラティウムに、ラテン人が略奪の玉突きで逃げ延びてきたと考えられます
ローマ帝国以前の民族分布(拡大できます )
前8世紀ごろのイタリア半島は、南の海岸部にギリシア人、中央の内陸部にラテン人(→ローマ人)、北の海岸部にエトルリア人が存在した。
2750年前 ローマの建国(伝説)によると、印欧語族のラテン人(R1b)がローマ周辺に都市国家を建設し始めます。
建国当初の都市国家ローマは、エトルリア人の支配下にあったようです。
ローマの王政
その建国はBC753年に始まり、BC509(510)年まで続きます。
この期間は伝説の時代で、伝説上の7人の王が治めていた時代でした。
初期の4人の王は、ローマ建設時の中心となったラテン人とサビニ人から選ばれ、その後の3人の王はエトルリア人でした。
これは、初期のローマにおいてエトルリア人による他民族支配を受けていたことを示すと考えられています。
エトルリア人は、多くの都市を建設していき、エトルリア特産の金属製品をギリシア植民市に輸出するなど活発な交易によって国力を蓄えていました
一方、ラテン人のローマは、力が弱く、まだ小集落的な規模でした。
(エトルリア人の出自については、こちらをご覧ください →『【ローマ】古代イタリア半島の先住民族エトルリア人とは?①』)
エトルリア人は、黒髪で褐色の肌ですね
エトルリアの壺
■ なぜ、全く出自の異なるラテン人(ローマ)が、エトルリアとギリシアに挟まれて、イタリア半島に侵入し居住するようになったのか?
それには、2つの理由を想定できます★
① ローマ人(ラテン)の地が、2700年前頃のエトルリアとギリシアにとって、魅力の無い地だった。
② イタリア半島に侵入したラテン人は、部族(集団)でなかった。
(集団移動なら、進路になるエトルリアに阻まれるはず。)
『ローマの7つの丘』とは、元祖ローマ人がいた丘と、元祖ローマ人が征服した6つの丘(他部族)
(1) パラティーノの丘(今は殆ど遺跡):【ロムルス以来の元祖ローマ人】
(2) クィリナーレの丘(今は大統領官邸):サビーニ系ローマ人
(3) チェリオの丘(麓に国連FAOがある):ラテン系アルバ人
(4) アヴェンティーノの丘(麓にチルコ・マッシモ跡が):新参者 (リンク)
初代王 ロムルス ローマコイン BC292 カピトリヌス丘の狼、ロムルスとレムス初代王の伝説
■ ローマの起源まとめ
★ローマ人の出自は、地中海西岸での戦争の敗者の落人か、集団からのはぐれ流れ者が、エトルリアとギリシアの影響の少ないイタリア半島の中部ラティウム地方に逃げ込み定住し、山賊になった集団。
★始原ローマは、掠奪闘争に敗れた生き残りや、部族のはみ出し者の男達が集まり、ロムルスという指導者を中心に建国したことから始まる。
彼らはまず、男だけの集団統合のためにも、女の掠奪を図りました。
そして、近隣のサビーニ族を誘いだし宴会で安心させたところで襲撃して女を奪う。
女を奪われ怒ったサビーニ族と戦いつつ、ついに和睦し連合を組む。
このようにしてローマはサビーニ族、次いで周辺のルケルス族を引き込み、3つの部族(約300の氏族)が100年の間に連合を組みローマに集結しました。
このようにして、少しずつ略奪を繰り返し取り込み拡大し、ローマ帝国に至るようになりました。
タティウス王(表):ローマの建国伝説に登場するサビニ人の王 BC89
コイン(裏)サビニ族の娘略奪
■ 始めは、流れ者の山賊集団が僻地に作った小国。
その小国が、ローマ帝国という大国にまでなった、拡大の原動力になったのは、何だったのか?
流れ者の集団で、略奪を生業としたから
自らの土地を追われ、山賊(海賊)となったが故、彼らが豊かな土地を獲得できず、略奪以外に飯を食う道がなかったのです。
ただ、スパルタやアテネは、小規模の都市国家に留まり、その寿命は、約400年。〈スパルタ:BC800-BC338 アテネ:BC800-BC404〉
それに対し、ローマは歴史上大帝国を建設し、さらに約2000年もの間、国家体制を維持しました
それは、何故なのか?
ローマ最大域地図
次回は、引き続きローマ 『大帝国を維持し続けた理由』に迫りたいと思います
【参考:~Vol.90~古代ローマ文明~王政から共和政へ(リンク)
古代ローマ①:王政時代 歴史と伝説のはざま(リンク)】
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