米国の圧力と戦後日本史17~米国の世界戦略の動向に振り回される日本~
「脱米を目指した角栄」と言われていた田中角栄は、戦略的に「対米自主」を進めていたわけではなく、徹底的な私権追求の果てに、アメリカの虎の尾を数多く踏んでしまい、政治生命を絶たれてしまった。
そして、現代においてそれは、反米・脱米意識の捌け口となると同時に、その気運を減速させる『装置』として機能していたことが明らかになった。
その後の福田、大平、鈴木は、まさに米国の世界戦略の動向に大きく影響される日本を映し出している。
今回は、その日本の振り回されぶりを見ていく。
■福田政権は、米国が「対米追随」を強要しないとき、自主独立路線を取れることを示唆している
三木首相は、角栄が逮捕された1976年の暮れに退陣する。代わって首相になったのが、角栄と政争を繰り広げ、一度も勝つことができなかった福田赳夫(当時71歳)だった。
この頃、米国は「アジア離れ」を開始し、米国が日本にかけ続けてきた圧力が一時中断する。
なぜ「アジア離れ」を始めたのか?
それは、1975年にベトナム戦争が終結し、日本に期待する軍事的な役割が薄れたことによる。
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福田首相は、日中平和有効条約の締結を最優先にし、これまでの日米関係を中心とした日本外交を考えていくのではなく、さまざまな地域の問題に自主的に働きかけていく「全方位平和外交」を表明。そして、東南アジア歴訪の際に「福田ドクトリン」(東南アジア外交3原則)を発表。
「わが国の対ASEAN外交は、ASEAN諸国の自主性の強化に貢献するものでなければならない」
■大平首相は福田首相の「全方位外交」の旗をおろし、「日米同盟」へ転換
その後、1978年に大平政権発足。
大平政権期の世界は、1978年に発生したイラン革命と第二次石油危機の余波、1979年のソ連のアフガニスタン侵攻などが起こり、「新冷戦時代」と呼ばれていた。
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このような情勢への対応として、大平はカーター大統領との会談の場で、日米の安全保障関係を日本側から公の場では初めて「同盟国」という言葉で表現し、米国の要望する防衛予算増額を閣議決定した。福田の「全方位外交」から転換し、後の中曽根政権へと継承される対米追随路線を鮮明にした政権であったと言える。
■鈴木首相の取った方針はどこが米国と対立していたのか?
これまで、朝鮮戦争やベトナム戦争の時に、米国は日本の自衛隊を使おうとしていたが、日本側が拒否し実現せずにいた。そして、米ソの戦いは、核兵器をめぐる戦いだったため、日本の自衛隊を使うのは無理だった。
それでも米国は、何とかして日本を利用したかった。
大平の次に首相になった鈴木善幸の外交哲学は、他国に対して軍事的な協力は行わないというものだった。
「第一に、わが国の努力は、平和的手段のものにかぎられるということです。わが国として各国に対する軍事的な協力は行いません。この方針はアジア諸国も理解しています。
第二に、わが国のなしうる最大の貢献は、経済社会開発と民生安定に通ずる各国の国づくりに対する協力です。
第三に、国づくりとともに、この地域の平和と安定のための政治的役割をはたしていくことが求められていると思います」
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一方、米国の思惑は、日本の海軍力をソ連との戦いに使いたいというもの。オホーツク海に潜むソ連の原子力潜水艦を攻撃する能力がほしい米国は、この潜水艦をみつける飛行機P3Cという機種を日本に大量に買わせることを目論んでいた。
「日本は中東から石油を輸入している。それを運ぶ航路、シーレーン(海上交通路)をソ連が攻撃する恐れがある。これを防ぐためにシーレーン防衛をすべきだ。そのためにはP3Cを買う必要がある。」
■どういう形で鈴木をつぶしにかかったのか?
米国の思惑と(ソ連の潜水艦を見つける役割を日本に担わせようとした)を鈴木首相の外国哲学とは、バッティングしており、米国の真意を知ったら、思い通りにはいかない。米国は、新しい形で、鈴木首相を貶めていった。
外務省と国務省が暗躍し、共同声明に「日米同盟」という言葉を盛り込む。しかし、鈴木首相はそれを受けて、「同盟」という言葉が使われたからといって、軍事的側面について変化はないと発言。これを新聞が「鈴木首相は『日米同盟に軍事的意味はない』といった」と報じる。東京の外務次官も「同盟に軍事的な意味がないという発言はナンセンス」とコメント。
こうして米国は、日本をうまく利用するために、邪魔だった鈴木首相に対して「総理の器でない」「暗愚の宰相」というキャンペーンをはっていくことで排除しようとしていたのである。
これまでと同様、福田、大平、鈴木のそれぞれの政権における外交のスタンスは、米国の世界戦略の移り変わりに大きく影響を受けている。
戦後、米国は日本の民主化を目指し、共産主義勢力との争いに利用しようとしてきた。そして、その「防波堤」としての役割から「資金源」の役割を担うまでに変化してきており、福田、大平、鈴木の在任期間において、その期待が明確になってきた。
次回は、米国がそうせざるを得なかった背景を整理していく。
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