米国の圧力と戦後日本史16~「角栄=反米」という幻想からの脱却!
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基軸通貨ドルの限界に直面して米国の方針が大きく転換し、日本の役割を「防波堤」から「資金源」へと転換させていく。その中で実現したのが沖縄返還であり、それはニクソンショックの緩衝材を担うという代償が条件だったことが明らかになった。
その後、首相についた田中角栄は、独自外交を進めるが、米国に葬り去られてしまう。今回は、角栄が葬り去られた背景と、現在の私達に及ぼしている影響について探ってみる。
「田中降ろし」の流れ
ニクソンショックの裏で取り交わされた密約だが、これを反故にした佐藤首相とニクソン大統領の間に亀裂が走り、関係が悪化していく。そして、辞任した佐藤の後に首相となったのが当時の通産大臣であった田中角栄である。
田中は、戦後復興によって生まれた都市と地方の格差解消のため、「日本列島改造論」を打ち出した。これは、日本列島を高速交通網で結び、地方の工業化を促進し、過疎と過密や、公害の問題を同時に解決する、というものであった。
そして、田中の代名詞とも言われる金権政治という政治手法をとり、土地や公共事業を利用した自前の政治資金作りが彼の基盤だった。
後に、これが大きな批判の的となり、田中降ろしがスタートする。
田中降ろしのスタートは、立花隆氏の「田中角栄研究 その金脈と人脈」でどのように政治を利用して巨大な資産・資金を作りあげたかを構造的に分析した記事であった。しかし、すぐに田中政権がぐらつくわけではなかった。
その後にあった日本外国特派員協会の講演でその記事の問題がアメリカ人記者によって追求された。そして、このことを朝日新聞、読売新聞が翌日に取り上げ、反田中の国会議員が足並みをそろえ、攻撃を始めることになる。(岸首相の排斥の時とまったく同じ構図!!)
1974年11月26日に田中は、責任を取って首相を辞任。
しかし、田中派の力は健在で、その勢力が衰えることはなかった。
三木首相は、どうやって田中元首相を有罪に貶めていったのか
田中の次の首相は、弱小派閥の長で、汚職に縁のない「クリーン」なイメージがある三木武夫だった。三木は、「武器輸出三原則」を確立し、対米自主路線の政治家と言われているが、田中首相の退陣とロッキード事件での容疑が謀略によるものだとすると、評価は180度違うものになる。
三木と米国の関係は、戦前にさかのぼる。三木は、明治大学を卒業後、南カリフォルニア大学に入学。1940年ころには、「日米同志会」を結成し、対米戦争反対の論陣を張っていた。
占領時代は、マッカーサーから首相にならないかという誘いを受けている。(三木武夫の妻、三木睦子氏著「信なくば立たず」より)
この三木が首相となって1年3ヵ月後にロッキード事件が起こる。
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「ロッキード事件」とは、ロッキード社から各国政府関係者に巨額の賄賂がばら撒かれた事件で、その受け取りの疑いが田中角栄にも及んだ。(別のところに行くべき書類が米国議会の多国籍企業小委員会に誤送され判明)最初は、その受取人についての情報は、米国の友好国の要人が失脚することを恐れ、開示されていなかった。
三木首相は、フォード大統領に未公開資料の提供を直接要請する。日本では採用されない嘱託尋問が行われ、証言に本人が日本の法律に違反した内容が含まれていても、罪を問わないという約束をした。これは「司法取引」と言われるもので、この制度は日本にはない。そして、この仕組まれたような嘱託尋問が証拠となり、田中首相は有罪になり、政治生命が絶たれることになる。
米国が政治的に葬った政治家代表の田中角栄、その真相は?
田中が精力的に推し進めていたのは、北海油田開発に日独で資金提供を行おうとしたり、イラクと政府間の石油契約を結んだり、ソ連のチュメニ油田原油を買おうとするなど、エネルギーの自立戦略である。これに対し、キッシンジャーやオイル・メジャー(米国の巨大石油会社)が強く反発したと言われている。
また、他にも米国を刺激した動きがある。中国との国交回復などの独自外交である。
田中角栄氏の金庫番だった秘書の佐藤昭氏(女性)の「私の角栄日記」で日本外国特派員協会での講演について下記の通り記述している。
「田中は『気が進まない。行きたくない』といいながらも、外人記者クラブで講演すべく出かける。外人記者クラブでは、金脈問題に火をつけたとか。日中国交回復のつけがまわってきたのか」
当時、キッシンジャーは、ニクソン訪中を実現したものの、中国との国交樹立がなかなか実現できずにいた。そんな中、1972年に田中角栄が日中国交正常化を実現し、ニクソン訪中の果実を横取りした形となる。
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キッシンジャーは、田中角栄の別荘があった軽井沢まで出かけ、『日中国交正常化を延期してほしい』と頼んだが、田中に一蹴されてしまう。そのときのキッシンジャーは怒り心頭だった。
「キッシンジャー国務長官は、同じ時期に、米中外交の道がひらけたことで、アジアにおける日本の役割は変わりつつあって、身のほど知らずの背のびは同盟国の秩序を乱す、という意味のことを語り、日本がアメリカに対して対等外交から従属へ転換すべきだと示唆しているという」
(「アメリカの虎の尾を踏んだ田中角栄」より)
「石油利権」と「中国との国交回復」の2つが米国の逆鱗触れてしまった。しかも、田中はマスコミへの影響力を強め(リンク)、新しいエネルギー源(核)をフランスに求めるなど(リンク)、米国を無視した動きを次々ととっていった。
田中は、私権を基盤にした共認形成力によって圧倒的な国民の支持を獲得し、独自外交の“シンボル”として認知されていたため、自主独立の結集軸になりかねないという米国にとっての脅威となった。そして、キングメーカーとして影響力を持ち続けた田中を放っておけなくなった米国は、田中を政治的に消すことにした。
「角栄」幻想からの脱却
ここまで見てきたように、田中角栄という人物は、日本国民全体の私権獲得を使命としてきたという意味で国民的な政治家ということはできるが、決して戦略的に「対米自主」を目指していた訳ではなかった。むしろ、徹底的な私権追求の果てに、アメリカの虎の尾を数多く踏んでしまったに過ぎないと言える。そして、ロッキード事件によって、ダーティなイメージと共に葬り去られることになった。
その田中角栄が再び脚光を浴び始めたのは、2001年小泉政権以降のことである。すなわち、2001年以降、小泉政権の下で、アメリカ支配の圧力が強まり続ける中にあって(ex.郵政民営化)、脱米・反米意識が高まり、脱米自主の一つの象徴として田中角栄に注目が集まるようになる。
しかし、田中角栄は「脱米自主」を戦略的に志向し、実現しようとしていた訳ではない。よって、角栄をいくら研究しても脱米自主の実現基盤は発掘できないばかりか、CIAの暗躍によって葬り去られるという事実が発見されるだけである。つまり、角栄に着目すればするほど、絶望的とも言える事実しか発見できないのである。
これは、見方を変えれば、2001年以降に作られた「脱アメリカを目指した田中角栄」という「幻想」が、反米・脱米意識の捌け口となると同時に、その気運を減速させる『装置』として機能していたことを意味している。脱米の気運は、「角栄幻想」に絡め取られ、出口を失っていった。
必要なのは、過去の政治家に自己の願望を投影して「幻想」を作り上げることではない。今こそ、作り上げられた「幻想」から脱却し、この現実の中から、新しい日本の実現基盤を発掘する必要がある。
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