米国の圧力と戦後日本史(総集編3) 対米自主に向けて暗躍した岸信介、それを阻止した安保闘争
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前回の記事では、日本の独立は形式上でしかなく、実態は米国支配が従前と続いてしまっていること、その支配の核を担っているのが、検察・マスコミ・学者であって、これら組織を押さえられている限り、米国支配からは抜け出せないこと、を明らかにしました。
今回は、そういった強固な米国支配の中で、対米自主を実現しようとした暗躍した岸信介と、それを阻止した安保闘争が如何にして米国の洗脳支配を受けた結果だったのか、ということを中心に確認していきます。
11 面従腹背で対米自主を目指した岸信介(リンク)
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対米自主派の象徴とも言える石橋湛山が謎の病気で退陣し、その意思は後に昭和の妖怪と呼ばれる「岸信介」が引き継ぐことになる。彼は、戦後、A級戦犯として牢獄に放り込まれていたが、米国の世界戦略の変化に伴って釈放され、CIAのエージェントとして活動することを期待された人物である。
CIAから多額の資金を提供された彼は、保守政党を纏めて新しい党(自民党)を立ち上げ、新安保批准時には衆議院で288議席という圧倒的多数を実現した。しかし、首相就任後に彼の取った行動や発言は、米国のその期待とは裏腹に、安保問題を軸に対米自主を模索したものであった。
「安保条約、行政協定は全面的に改定すべき時代にきている」
首相就任2ヵ月後、彼はこのように発言し、マッカーサー駐日大使と会談した際は、驚くべきことに「駐留米軍の最大限の撤退」を求めた。
つまり、岸信介は、CIAから多額の資金援助を受けながら、表向きはCIAのエージェントとして振舞いつつ、実際はその資金で党内強化を図り、対米自主⇒安保改定を実現しようとしていたのである。
12 安保闘争とは何だったのか?(リンク)
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岸の対米自主政策を危惧した米軍及びCIA関係者は、岸政権を倒そうと工作を開始する。米国は、岸政権の内部から切り崩そうと、池田や河野らを使って反対させたが、岸の党内基盤及び官界の掌握力は圧倒的に強く、別の方法を模索せざるを得なかった。
それが、100万人を超える日本国民が参加した日米安保闘争である。
米国は、経済同友会などから全学連に資金を提供し、学生運動家らを中心に安保闘争を主導させた。また、米国は各社マスコミにも強い圧力をかけ、「A級戦犯であった岸が、安保を改定することで日本を再び軍国主義国家に引き戻そうとしている。民主主義を絶対に守らなければならない!」と、この安保闘争を支持させた。
結果、この運動は、日本政治至上最大のデモにまで発展した。そして、東大生の死亡を契機に、岸の退陣が、ほぼ決定的となった。そうなると、米国はこの反対運動を沈静化させる方向に転換し、大手新聞社に暴力的手段を批判する「7社共同宣言」を一斉に発表させ、安保運動の勢いを急速に衰退させていった。
これは、マスコミが政治家を凌駕して共認闘争に勝った、ということだ。安保反対運動の成否は、結局、マスコミの報道内容に左右された。ならば、マスコミが米国の影響下にある以上、どのような運動も米国次第でしかない、ということだ。
米国は、「民主主義は絶対正しい」という観念を、学校教育を通じて、日本国民に刷り込み続けてきた。その洗脳教育を受け続けてきた申し子が、安保反対運動を主導した学生達である。その学生達は米国の手先となって動いていることを気付けていない。そこにマスコミが民主主義の危機を謳えば、世論など如何様にも操作出来てしまう。
安保条約では、条約本文は抽象的な文言でゴマカシ、米国に有利な取り決めは全て、条約の下位にあり国会の承認を必要としない「行政協定」によって決められていた。岸は、対米自主実現の本丸となる、この「行政協定」を改定すべく、安保条約改定⇒行政協定改定の2段階論を考えていた。
しかし、マスコミに踊らされた日本人は、米国が岸を首相の座から引き摺り下ろす一役を担ったに過ぎず、大した問題ではない「安保条約」のみが改定され、「行政協定」は変わらなかった。つまり、安保運動で我々が実現したことは、「民主主義は絶対正しい」という洗脳の元、日本国民が、本来願っているはずの対米自主への道を、自ら進んで阻止してしまった、ということでしかない。
安保反対運動から、我々が学ぶべきことは、
① 米国は戦後民主主義教育を通じて、日本国民を洗脳している⇒新たな観念が必要ということ。
② 米国の手の内にあるマスコミに依拠した運動に可能性は無い。⇒新たな共認勢力の結集が必要ということ。
13 いわゆる55年体制とは何だったのか?(リンク)
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米国が植民地支配をするときは、その国の主流派とは手を組まず、少数派と手を組む。日本では、主流派の岸が退陣後、少数派の池田内閣が誕生した。池田は、徹底した従米路線を採った吉田元首相の推薦だった。池田も吉田と同様に、徹底した従米路線を採ることになる。
安保闘争以前、米国(特に国務省)においては、日本社会の中枢部(自民党、経済界、官僚)以外で何か発言する人がいても全く相手にしていなかった。しかし、CIAにおいては、60年安保の前から労働党に接触しており、資金提供や脅迫など、様々な手段を使って、日本国内に都合よく利用出来る人物を作る裏工作をしていた。そして、安保闘争以降、米国は、日本の保守派だけではなく、積極的に社会党や労働組合と接触し、多くの学者や文化人、労働組合の人々と交流を深めていった。
このようにして、米国は日本国内の保守派(自民党)に限らず、社会派(社会党)をも支配出来る状態を作り上げた。こうして、与野党関係無く自らに都合の良い支配体制を作り上げ、いわゆる55年体制を作り上げる。こうして、日本は徹底した従米路線を展開していくことになってしまった。
14 米国の状況変化を逸早く押さえ、沖縄返還を実現した佐藤栄作(リンク)
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徹底した従米路線を採った池田は、「行政協定改定」には一切触れず、経済拡大路線を展開していった。池田の打ち出した「所得倍増計画」は予想を上回るペースで進み、日本は高度経済成長を迎える。
一方、米国では、ドル基軸通貨体制によるドル高→国内産業が衰退し、貿易赤字がどんどん膨らみ始めてきた。加えて、ベトナム戦争による大量支出、軍事力増強などを行った結果、米国は大幅な財政赤字も抱えることになってしまった。いわゆる「双子の赤字」を抱えた米国からは、大量の金が国外へ流出していく。こうして、米国では、経済状況を立て直すことが最優先課題となった。
この頃、日本では岸信介の弟である佐藤栄作が首相になった。当事の米国の状況を見た佐藤は、米国が経済状況を立直しやすい条件を提示(繊維の輸出制限)することで、核抜き条件付きの沖縄返還を実現しようとした。
米国は、日本の要求を拒んで琉球列島と日本本土の双方で基地を全く失うことを恐れ、沖縄返還交渉を大枠受け入れることにした。但し、 米軍は在日米軍の必要性を半永久的に残す為、日本と中国との間での領土問題=尖閣諸島問題を置き土産として残していった。この問題が残り続ける限り、在日米軍は必要不可欠である、という判断が日本政府に働き続けることになってしまった。
★★
このように、昭和の妖怪とまで謳われた岸信介ですらも、米国支配をその根底から覆すことが出来ませんでした。米国は、マスコミや検察を握っているうえに、その巧みな戦後民主主義教育によって、日本人の無意識レベルまで洗脳し、米国の支配下に置くことに成功します。こうして日本は、この後も徹底的に従米路線を歩んでいくようになりました。
・・次回(総集編4)は米国に翻弄され続ける日本の歴史を確認していきます。
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