新しい潮流シリーズ-4 ~新しい潮流2 私権統合の崩壊と社会収束の潮流(’90・’00年代)~
新しい潮流シリーズの第4弾です。
‘70年の豊かさ実現から現在に至る激動の時代に、人々の意識はどのように変化していったのでしょうか。
前回の’70年、’80年代の意識潮流に続き、今回は’90年代、’00年代の意識潮流を扱いたいと思います。
応援よろしくお願いします。
’90年代、バブルの崩壊で私権の衰弱が顕在化する。私権観念の土台がグラグラになって社会捨象・観念捨象の防波堤が崩れ出し、急速に潜在的な社会不全→外向欠乏が強まっていく(ニュース番組や事実収集やサークル活動etcの増大=潜在的な社会探索の潮流)。
ただ、私権観念は無効化しつつも、社会や課題や観念を捨象するというマイナス(捨象)面では機能しており、それが社会捨象・課題捨象の充足基調を維持させ続ける(’70・’80年代と同じ)。
しかし、私権に前向きに収束させるというプラス面ではもはや失格で機能せず、その結果、私権の衰弱に応じた潜在思念の本源収束が急速に進んだ(この点が’70・’80年代と異なる所である)。但し、私権制度が残存しているので本源収束し切れずに表層化し、「明るく」「前向きに」「皆仲良く」etc本源風の規範観念に収束した。
注:この時代は私権不全よりも、活力⇒収束先を見失った統合不全(≒自分不全)が中心となり、多くの者が個室収束や自分探しに向かった。
注:統合不全とは本能不全や共認不全を超えた観念不全であり、従来の解脱(発散)では解消されない答え欠乏=認識欠乏が増大してゆく時代でもある。
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バブル崩壊後の急速な景気後退に、円高や世界的な景気悪化が加わり、不況を長期化させました。企業の倒産や銀行の統廃合が相次ぎ、往時の活気は失われていきました。
この時代を象徴する出来事として、山一證券の経営破綻があります。
‘97年11月。野澤社長は会見で涙ながらに訴えました。「みんな私ら(経営陣)が悪いんであって、社員は悪くありませんから! どうか社員に応援をしてやってください。優秀な社員がたくさんいます、お願いします、私達が悪いんです。社員は悪くございません。」
この会見がテレビで大々的に放送されたことによって、会社の倒産、事業売却やリストラが非常に身近な脅威として認識されるようになりました。
こうなると、一流大学出身のエリート社員は考え始めるわけです。
「これまで自分が積み上げてきたものって?」
「必死に守ろうとしているものって?」
「これまで信じてきたものって、いったいなんだったんだ?」
「どうしたらいいんだ?」
ところが、私権制度の枠組みが足枷となって、これらの問いに答えを出すことができません。
これまで積み上げてきたものが崩れ去る不安や焦りやいらだちを押し殺し、「明るく」「前向きに」と、本源風の規範観念に収束していきます。
そして’00年頃、私権統合の崩壊が決定的となり、閉塞感が強まって、遂に私権観念が瓦解した。私権観念の防波堤が破れたことによって、一気に社会不全が大きくなり、私権の衰弱も相まって潜在思念の源泉部が私権不全から社会不全へと大転換した。
社会不全が大きくなれば、外向欠乏が強くなる。しかし、答えがないので課題捨象の充足基調⇒本源収束が続いている。
注:現在は、充足基調を維持すべく、潜在思念に増大してゆく社会不全を、「等身大の幸せ」「分り易い言葉」「身近な運動」etcの誤魔化しの言葉に縋ることよって、頭で必死に課題捨象している段階だとも云える。
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‘90年のバブル崩壊、‘91年から始まる失われた10年を経験し、人々は豊かさに代わる目標を必死に探すようになりました。
社会が統合軸を失うと、不全の対象は自分から社会へ向かうようになります。マスコミはこの意識潮流に便乗して企業を叩き、タバコ、セクハラ、環境と続くマナーファシズムを人々に刷り込みます。
しかしマスコミをはじめとする特権階級は、人々の危機感を煽るだけ煽って、何の答えも出そうとしません(出せません)。
人々は答えの無い問いに頭を悩ませるのは終わりにしようと、頭の中だけでまとまりを付け、結局は目先の充足や安定へと向かってしまいます。
結婚し、温かい家庭を持つ。子供は1人。1時間かけて通勤する。夕食はできるだけウチで家族と。そんな人並みの幸せを手に入れたい。それ以上の幸せは人それぞれである。大多数の人はこう考えるようになりました。
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